第二章 博愛主義は止められない

第20話

 さて。

 佐藤さんから告白され、秘密がバレた上郡真緒かみごおりまおと協力関係を築くことになった激動の金曜日から一夜明けた。

 あの後、翌日の朝食と称して本当にパンを買いに行かされたことを除けば、特にこれといった会話はとは交わしていない。

 細かい話はまた来週以降ご相談しましょう、と短く言葉を区切り、所望した惣菜パンの入ったレジ袋を片手に後輩はそそくさと帰っていった。


 おかげで妙にフワフワとした気分でベッドに潜り込むことになったが、意外にもすんなりと意識は俺の手を離れていった。

 もしあのまま自己嫌悪に包まれ、廊下でうずくまったまま眠っていたら、寝起きは最悪の気分だったであろうことは想像に難くない。

 無論、佐藤さんを傷つけてしまった事実に対する胸のしこりが消えるわけではないものの、幾分かマシな気分でリカバリーに動くことができる。


 まずは先に連絡がついた谷中さんと平塚に事情を説明する。

 『あー、そういう事情ね。理解理解。んん、やっぱり僕から言えることはなにもねえなあ』と谷中さん。

 『まあ、正直そんな気はしてたよ。愛澤のほうが佐藤との付き合いは深いし、予想すらしていなかったといえば嘘になる。なんにせよ、この件でお前が俺に謝るのは違うだろ。俺をあんまりみじめな気分にさせるなよ』と平塚。


 現時点では自分の女性恐怖症トラウマを平塚に説明するまでの勇気を持ちえない俺はすべての事情を話すこともできなかったが、平塚の言葉を受けて一度口を噤む。

 いつになるかわからないけれど、自分自身としっかり向き合えるようになったら、その時にきちんと説明しよう、そう心に誓う。

 平塚はもちろん、谷中さんも誰かに言いふらしたりする人ではないし、この二人への対応はひと段落といったところだろう。


 肝心の佐藤さんにはさすがに俺から連絡するわけにもいかず、彼女を追いかけて行った結月さんとコンタクトを図る。SNSにメッセージを送ると早速返信があり、要約すると「いまちょうど部室にいるから出てこいや」というものだった。

 なんだか校舎裏に呼び出された気分を覚えながら大学まで自転車を飛ばす。


 土曜日の大学は閑散としていた。ゼミや部活動に勤しむ学生の姿は散見されるもののその数はまばらで、物語の裏側を覗いているような気分になる。

 個人的にこの雰囲気は好きだ。喧騒に惑わされることなくレポートなど自分のやりたいことに集中できる。思えば父親もよく休日出勤していたが似たような気持ちだったのだろうか。なんだか自分自身にも社畜適正が垣間見えて少し辟易とする。


 部室に辿り着くと既に結月さんはパイプ椅子に腰掛け、ノートPCに向き合っていた。


「あ、おはよーう」

「おっす、はよ」


 結月さんは顔を上げると、ヒョイと片手を顔の横まで持ち上げヒラヒラさせる。

 既におはようと呼べる時間はとうに過ぎているが、大学生の挨拶のテンプレートはおはようなのである。なんなら18時とかでも平気でおはようと言ったりする。

 一体どんな時間軸で生きてる人間なんだよとも思うが、遅寝遅起きがベースになっている大学生が多いことを考えれば割と的を射た表現なのかもしれない。


「いやあ、こんな時間に出社とは重役出勤ですなあ」

「馬鹿言え、土曜日出勤してる時点で社畜だよ」


 そんな軽口を挟みながら俺は手近なパイプ椅子を引き寄せる。

 彼女と密室で二人きりになるのは五月末の部誌発行に協力した時以来だ。


「レポート?」

「そ、重ための課題出ちゃってさ。部誌の時期じゃなくてホントよかった」


 ちょっと待ってねとタイピングを続ける結月さん。

 前がかりになったことでサラリと流れた黒髪を耳にかける仕草がとても色っぽく映える。カタカタとこちらからは見えない画面の奥で文字を紡いでいく。

 彼女の文章は美しい。言葉の使い方や情景・心情描写は丁寧で、無理な会話や表現がないため読んでいても目が止まることなくサラサラと内に入ってくる。

 その代わり本人としては物語の構成を考えるのがそこまで得意ではないらしく、アイデア出しをちょくちょく手伝っている。

 結月さんの横顔を合法的に眺めていると不意に顔を上げた彼女と視線がぶつかり、思わず目を逸らす。


「そんなに見つめられると恥ずかしいよ」

「悪い悪い、お返しに俺の顔を見つめてもいいよ」

「や、結構です」


 結月さんはそう言って薄く笑い、レポート作りがひと段落したのかノートPCをパタンと閉じる。

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