第4話 初仕事は多事多難
その日は台風も去って、朝から晴天であった。
龍馬は父から借りた羽織に袖を通し、
格好だけは、差配役らしくなった龍馬である。
「馬子にも衣装じゃの」
釜の前で飯炊きをしていた姉・乙女が、そう笑った。
肩がこっているのか、乙女は火吹き竹で自身の肩を叩いている。
父・八平は自分で龍馬に職は紹介したものの、心配になったらしい。
「ええか? 龍馬。上からなにを云われちょっても、逆らったらいかんぜよ」
「父上、わしは乙女姉やんとは違うがよ」
この言葉に、乙女が怒った。
「なんじゃ、まるでうちが、いつも父上や兄やんに逆らっちゅう話に聞こえるがぞ?」
今にも火吹き竹で追いかけてきそうな乙女の剣幕に、龍馬は早々に四万十川へ向かった。
夏――、空にはまたも、こんもりと盛り上がった入道雲がある。
蝉時雨の中、緑を増した木々は風に揺れ、田では蛙が鳴いていた。
「いやぁ、まっこと助かるぜよ」
集まった人夫は百近く、龍馬は頭をかいて笑むが、人夫たちは
「――迷惑な話じゃ。侍は、ただ見てるだけじゃき、ええのう」
人夫の一人が、口火を切った。
「そげんことはないぜよ。わしも、おまんらの仲間がやき」
この龍馬の一言が、彼らを刺激したようだ。
「仲間……? わしらの作っちゅう米を食ってるが侍は、わしらのことなど考えちょらんがよ。こん忙しいときに、出てこいとゆうがやき」
人夫の目は、龍馬を堂々と睨んでくる。
確かに彼らの作る米がなければ、たとえ藩主だろうと生きてはいけない。
財政は逼迫し、一揆でも起こされればさらにその対処に悩まされる。
百姓は、白飯は食べられないという。
食事は米に雑穀を混ぜた「かて飯」というもので、少ない米に
米作りは
それから苗代で苗を育て、それを田に植え付ける。
腰を曲げてのその作業は、龍馬も見たことがある。
しかし龍馬は、彼らに云われるまでその苦労に気づかなかった。これまで見てきた景色を、当たり前と思いこんでいた。
ゆえに、その人夫の言葉に龍馬は、口をつぐむしかなかった。
仕事は淡々と進み、人夫の言う通り、龍馬は見ているだけとなった。
口を出しても無視され、褒めても無視される。
そして夕方になると、仕事がやりかけでも彼らは帰ってしまう。
だが、ついに事件が起きた。
人夫同士が、喧嘩を始めたのである。
「やめとぉせ! 喧嘩はいかんぜよ」
「おまさんは、黙っちょれっ」
「そうはいかん。わしは、差配役じゃきに」
ついには、掴み合いになった。
喧嘩の原因は、用水路の件らしい。
実はここに集まっている人夫たちは隣村同士で、これが仲が悪かったようだ。
自分たちの田に引く水を巡り、何度も諍いを繰り返しているという。
ここでもその話題となり、ついに乱闘になったようだ。
こうなると、堤修繕どころではない。
龍馬は掴み合いになっている二人を引き離しては、次の二人を離していく。そして、側から新たな掴み合いが起こり、それをまた離しては次へときりがない。
「ええ加減にせぇよ!」
龍馬は叫ぶが、これも無視された。
よりによって、犬猿の仲の村同士が集まってしまった。
ただでさえ、龍馬の言うことを聞いてくれない彼らである。
堤修繕が終わらない可能性は、十分にある。
どっと疲れて帰宅した龍馬に、乙女は偉いと褒めてきたが、まさか喧嘩の仲裁で疲れたとは言えず、早々に床についた。
◆◆◆
翌日は、
どうやら昨日の入道雲が案の定、災いしたらしい。
しかも、土砂降りである。
この雨に、人夫たちが帰り始めた。
「帰るがか?」
龍馬の言葉に、人夫たちは「それがどうした」という顔である。
「こん雨じゃ。当たり前じゃろ?」
「そうじゃ。田のほうが心配じゃきにの」
もっともな理由だが、堤修繕は期限内に終わらせなければならない。
「けんど、ここが決壊しちゅうことになったら、おまんらの田は駄目になるがぞ? もうちっとばぁ、ここににいちょってもえいろう?」
だが彼らは、帰っていく。
――どういたら……、どういたら、彼らはわしのいう事を聞いてくれるがじゃ……。
さすがに人の動かし方までは、誰も教えてはくれなかった。
龍馬は雨に打たれながら、自問自答を繰り返す。
結局答えは出ず、工期の遅れを取り戻すべく、龍馬は己一人で作業に取り掛かった。
しかし、
龍馬が持ったことがある重いものといえば、割った薪を束ねたものぐらいであった。
さてこの土嚢、やっと担いでみたものの、今度は足が上手く進まない。
ふらついて、何度か転んだ。
――父上がわしに紹介してくれた仕事じゃき、わしは諦めんがよ。人の役に立つちゅうがは、ええことじゃきに。
この堤が直れば、水害から多くの人が救われる。
龍馬がここまで必死になるのは、亡き母の言葉にあった。
――侍はの、弱きものを守るがじゃ。
ゆえに龍馬は、この仕事を引き受けた。
一個の土嚢を運んではまた次へ、泥まみれになりながら彼は何度も往復した。
雨は容赦なく、地に叩きつけて来る。
辺りには水たまりもでき、視界も酷い。
濡れた着物は重く、土嚢の重みも加わって体力が奪われていく。
ついに倒れ、大の字になった龍馬の耳に幾つかの足音が聞こえてきた。
「……おまんら……」
体を起こした龍馬が見たのは、帰ったはずの人夫たちであった。
「……別に、おまさんのためじゃないがやき……」
「そうじゃ。ここが決壊しちゅうと、わしらの土地が駄目になるがやき……」
彼らは龍馬と視線を合わせてこなかったが、わかってくれたようだ。
「おおきに……。まっこと、おおきに……!」
龍馬は嬉しかった。
嬉しくて泣けた。
具同村の堤が完成したのは、それからまもなくのことだった。
◆
「へぇ、あいつが……」
亥の刻――乙女は寝付く前の父・八平と兄・権平とで囲炉裏を囲んでいた。
龍馬はすでに、夢の中である。
堤を完成させた龍馬に、権平が珍しく感心の吐息を漏らす。
「龍馬はやるときはやる男じゃ。そうじゃろ? 父上」
乙女はそんな弟が誇らしく、父に同意を求めた。
「そうだな……」
「乙女。おまん、随分アレに期待しちゅうが、おかしなことをいいかねんがぞ?」
権平はいつもの彼に戻って、心配げな顔になった。
彼にとって龍馬は、今でも危なっかしい存在のようだ。
「兄やんは、大袈裟じゃ」
「話を大きくしちゅうがは、おまんじゃ。アレを龍になるといっちょろうが」
「そりゃ、本当じゃ。龍馬は龍になるがじゃ」
乙女の言葉に、八平が呟いた。
「そういえば、幸がそういっちょってたの」
「母上が?」
権平が視線を上げた。
「アレは信心深い女子じゃったきに、夢で見たこともお告げと思っちょってた」
八平はそう言って、寂しく笑う。
母・幸は龍馬を身ごもっている時、夢の中で天に飛び立つ龍を見たという。
「ほうやき、龍馬は龍になるがよ」
乙女は、そんな母の言葉を信じた。
母がなくなった時、彼女は自分が龍馬を強くするのだと決めた。
おかげでもう龍馬は、泣き虫の弱虫ではなくなった。
これから龍馬は、どんな男になるのだろう。
囲炉裏で燃える炎を見ながら、乙女の心は期待に膨らんでいた。
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