第20話 医は仁術なり

 安政五年八月――、江戸に得体のしれぬ疫病えきびょうが広がった。

 誰が言い始めたのか、疫病の原因は虎、狼、狸が合体したような姿をした妖怪の仕業だという。その名を、虎狼狸ころり

 これを医師・関寛斎せきかんさいは一言、

「馬鹿馬鹿しい……」

 と、この噂を一笑に付す。

 虎狼狸の感染源は、ペリー米国メリケン艦隊に属していた米国船らしい。どうやらこの乗員の中に、虎狼狸患者がいたようだ。

 最初は長崎で流行したそうだが、上方、東海道筋を経て、江戸までやって来たらしい。

 開国して四年――、虎狼狸はこの間じっと広がるのを待っていたようだが、お陰で江戸は死の町と化した。

 野辺送りを見ない日はなく、この日も数度見かけた。

 龍馬が出会ったこの蘭方医らんぽういは、虎狼狸にかかった患者を積極的に診ているという。

 彼の住まいは元赤坂の裏長屋で、赤い紐が彼の住まいだけを囲っている。

 虎狼狸を他の人に感染させぬよう、立ち入り禁止にしているらしい。

 龍馬はその赤い紐を潜ると、戸を開けた。

 

「センセ、いるかい?」

「呆れた男だな、君は……」

 白衣を纏い、口も布で覆った関寛斎は、ふらりと現れた龍馬に嘆息した。

 龍馬としては治療を邪魔しようと来ているわけではなく、他の医者がさじを投げているという虎狼狸の患者を、救おうとしている関寛斎に惚れたからだ。

 

「どういてか、虎狼狸に嫌われちゅうがじゃ」

 龍馬は頭を掻きながら、苦笑した。

「結構なことだ。虎狼狸に好かれたい人間はおらんよ」

「センセには、虎狼狸は治せるが?」

「さぁな。だが、患者を放ってはおけん」

 

関寛斎いわく、虎狼狸にかからないためには、身体と衣服を清潔に保つことと、室内の空気循環をよくすること、傷んだ食べ物はたべないことだという。

 龍馬は着物の袖を捲ると、手伝うと言った。

「出て行けと言っても出ていかんだろうな、君は」

 関寛斎は再び嘆息して、水を換えてくれと頼んできた。

「すぐ用意するき」

 龍馬は、張り切って木桶を持って外に出た。

 そんな龍馬の視界に、剃髪の男が数人入った。

 一様に眉を寄せ、その中のひとりが一歩前に出た。

「――関寛斎どのは、おられるか?」

「誰じゃ……? おんし……」

「我らは下谷新橋したやしんばしの、医学館の者。はっきり言って、困るのだよ」

 男はさぞ迷惑そうに、そういった。

 

◆◆◆


この江戸には、他にも医者はいる。

 しかし虎狼狸の妙な噂を信じているのか、医学館の漢方医たちは他を当たれと患者を診ようともしないという。

「医は仁術じんじゅつと言葉はすたれたのかね、まったく……」

 関寛斎は、そう嘆いた。

 

 医は仁術とは、医術は病人を治療することによって、仁愛(情け深い心で人を思いやること)の徳を施す術であり、人を救うのが医者の道だという。

 

 その医学館の医師たちが、龍馬の前にいた。

 関寛斎によると、漢方医たちは蘭方医たちに危機感を抱いているらしい。

 これまで日の本の医術は、漢方が主流だったという。

 それが西洋式医術・蘭方が台頭してくると、漢方医たちは押されるようになったようだ。

 そこにきて、今回の虎狼狸である。

 民衆は、蘭方医・関寛斎を頼り始め、このままでは今後患者が減ると危惧したのだろう。 その答えにたどり着いたとき、龍馬のなかに静かな怒りが湧いた。

  

「……そういうことか……」

 龍馬の怒りに気づかぬ医学館の医師が、声を弾ませる。

「わかってくれるかね? 関どのに取り次いでもらおう」


 ――わかってたまるかよ、そんな理屈。


 龍馬は、必死に怒りを押し殺す。

帰れいね

「は……?」

 龍馬は、医学館の医師たちを睨んだ。

 二本差しの侍に睨まれて斬られると思ったのか、彼らは引きった顔で一歩下がった。

「なんならおまんら、虎狼狸にかかっちゅう患者を診てくれるがか?」

 龍馬の問いに、彼らの肩がびくっと跳ね上がる。

「そっ、それは……」

「関センセはの、自身も伝染うつるかも知れんっちゅうに、患者を診ちゅう。それなのにおまんらは、患者が減る心配かえ?」

「そ、そんなことは……」

「センセの治療の邪魔やき、退いてくれんかの? あ、言い忘れとったが、わしゃセンセの手伝いをしゆう。虎狼狸になっちゅうかもの」

 この脅しは利いたようで、彼らは一目散に駆け出していく。


 ――まったく、変わらんといかんがは、医者の世界じゃ。


 日の本にいるすべての医者が金儲けに走っているわけではないだろうが、関寛斎のような医者ははたしてどれだけいるだろう。

 虎狼狸の猛威はしばらく江戸市中を駆け、九月になってようやく収束した。

 異国船来航に、虎狼狸――。

 龍馬が江戸にいる間に、江戸に起きた災難。

 虎狼狸は去ったが、尊王攘夷の風が吹き始めている。

 朝廷の許可なく、米国と新たに締結した条約が、異国を祓うという意思に火を点けたのである。

 なれど、龍馬はまもなく、二度目の剣術修行を終える。

 己の進むべき道をまだ見いだせぬまま、龍馬は千葉道場の庭にて空を仰ぐ。

 

 夕暮れ時――、九月ともなると夏の暑さは去り、空気は乾いて透き通り、庭に射す母屋の影の形も、木立の葉の色合いも真夏とは違っていた。光はまだそこかしこにあふれているのに、一番星と月がひっそりと浮かび、雲が刻々と姿を変えている。

 吹く風もやや秋めいたものが肌に触れるようになり、そうしたかすかな秋の先駆は、ひそかに抑えて来た龍馬の心を燃えさせる。


「――土佐にお帰りになると伺いました」

 龍馬の背後に、佐那子が立つ。

「もう一年、延ばしてもらうは、いかんがやき」

 実は龍馬の二度目の剣術修行は、一年という期間であった。

 その期間が終了する昨年の九月、さらに一年の延長された。

「でも――……」

 佐那子はそういいかけて、口を噤む。

 許嫁という関係になったが、婚礼はいつかとは龍馬にも言えない。

 国が大変な時に、とても腰を落ち着かせることはできなかったのである。

 町道場の主で終わるつもりはさらさらないりょうまの心は、揺れ動くこの日の本と、大海原を自由に駆ける西洋式の船にあった。

 かくして安政五年九月三日――、龍馬は故郷・土佐への帰路についた。


 ◆


土佐、坂本家――。

 

 茜の空に、薪割りの音が響く。

 坂本家三女・坂本乙女はたすき掛けをした姿で、斧を勇ましく振り下ろす。

 薪は心地良いほど綺麗に割れて、目の前の柿の木では烏がこちらを眺めている。

 周りの武士の家では薪割りは男の仕事のようで、女が薪割りをするのは坂本家だけらしい。しかし乙女は慣れたもので、斧の重さも気にならなかった。

「せーの!」

 今度割れた薪はそれまでとは一番派手に割れて、見物の烏は飛び上がる。

「乙女嬢さま、そげなことはわしに任せてつかぁさい」

 声をかけてきたのは、下男の源蔵だった。

「もうすぐ終わるきに、ええよ。それに、今日はどういてもやりたいがじゃ」

ぼんは幸せものですの」

 源蔵はそういって、目を細める。

 今日は江戸から、龍馬が帰ってくる。

 風呂を沸かしておいてやろうと思った乙女だったが、その前に怒りのほうが先に沸いた。

「あのバカタレ、窯でグツグツに煮ちゃるきに……!」

 何しろ龍馬は、二度目の江戸遊学ではほとんど文を寄越してこない。

 そして最後の薪を割り終わったころ、その龍馬が坂本家の門を潜った。


「……なんか、えろう怖い顔をしちょるのう……、乙女姉やん」

 乙女の殺気を感じたか、龍馬が一歩後ずさる。

「何処かの薄情な男を、懲らしめてやろうと思っちょってたがよ」

 斧をどんっと置いた乙女に、龍馬が生唾を飲む。

「そん薄情な男ちゅうがは、もしかしてわしのことかのう……」

「さぁの……」

 怯える弟に、乙女はふんっと鼻を鳴らす。

 だが内心では、一段と逞しくなった龍馬が乙女は嬉しかったのである。

 

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