第19話 剣豪・桂小五郎

 安政四年、二月――。

 江戸の空は白い雲に閉ざされ、木枯らしが羽織の裾をさらった。

 男は練兵館の門を出ると空を仰ぐ。

「稽古はもう終わりですか? 桂先生」

 門弟の一人が、そう彼に微笑んでくる。

「その先生というのはよしてくれ。わたしは一介の長州人だよ」

 桂こと桂小五郎は、そう言って笑みを返す。

 

 長州藩士・桂小五郎――、もともと武家の家ではなく藩医の家に生まれたが、長州藩士・桂家に養子入りし、彼は長州藩士になった。

 そんな桂は今や、練兵館の塾頭である。

 はじめは萩城下で柳生新陰流を学んでいたが、米国艦隊が浦賀に来航する一年前、桂は剣術修行を名目とする江戸留学を決意した。

このときちょうど萩に来ていたのが、のちに神道無念流・練兵館二代目・斎藤弥九郎となる、斎藤新太郎だった。

 この斎藤新太郎の江戸へ帰途に桂は、五名の藩費留学生たちと私費で江戸に上ったのだった。

 

 練兵館は九段坂の上にあり、その坂を下っていくと俎橋に出る。

 俎橋は日本橋川の最も上流に架かる橋で、東側には武家地が広がっているものの橋を降りて直進する道はなく、橋自体は小規模であった。

刻限は午後三時申の刻――、桂は一軒の酒屋に入った。

 

「――桂さん」

 桂小五郎が座敷に上がると、一人の男が声を弾ませた。

「久坂くん、来ているのは君だけか?」

「もう少しで、高杉も来ます」

 久坂玄瑞――、彼もまた桂と同じく藩医の家に生まれている。

 長州藩士となってからの彼は、異国と戦うのだと躍起だ。

「桂さん、最近の幕府には我慢ならん」

 久坂は、そう切り出した。

 確かに幕府は、異国の言う事を聞きすぎるが。

「この国を思う君の熱意は理解できるが、一個人の言うことなど幕府は聞かぬ」

 桂は、今すぐにでも攘夷決行をしようとする久坂に対し、慎重だった。

 しかし後から来る高杉晋作も、久坂と同意見らしい。

 だがこのときの長州藩は、まだそれほど攘夷思想はなく、桂もまた一介の長州藩士に過ぎなかった。


 

 そんな桂が練兵館門弟の代表として、鍛冶橋・土佐藩上屋敷へ行くことになった。

 江戸三大道場総当たりの、他流試合らしい。


「――長州藩士・桂小五郎でござる」

 桂は鉢巻きとたすき掛けをして、対戦相手にそう名乗った。


                        ◆◆◆


 鍛冶橋・土佐藩上屋敷――。

 鍛冶橋は外濠に架かる橋の一つで、土佐藩上屋敷は江戸城外郭門・鍛冶橋御門のすぐ近くにある。

 三月――、梅の花が満開ではあったが、吹く風はまだ冷たい。

 いつもの黒羽二重の紋服に馬乗り袴という姿でやってきた龍馬は、兵揃いに面食らった。

 なにせ、士学館と練兵館という大道場の主とその代表となる門弟がいるのだ。

 龍馬はこのとき初めて、自藩の主の顔を知った。

 その男は脇息にもたれかかり、盃を片手に目を細めていた。

 土佐藩十五代藩主、山内豊信である。

 龍馬は、視線を対戦相手に戻した。


 ――それにしても、この男と当たろうとはの……。


 桂小五郎――、男はそう名乗った。

 一度酒場で出会っているが、桂は覚えていないようである。

 確かに会っているといっても、目が合った程度なのだが。

 桂は、練兵館の塾頭だという。

 つまり、道場主の次に強いということになる。

 流派は神道無念流――、他流とは初めて当たる龍馬だったが、どうも勝てる気がしない。

 撃ち込む隙が、一切ないのだ。

「始めっ」

 立会人の号令の元、龍馬は上段に構えた。

 こうなれば、当たって砕けろ――、である。

 

 結果――、龍馬と桂小五郎の対決は五本勝負のうち、三対二で龍馬が負けた。

 桂小五郎は、さすが練兵館で塾頭の名を張る男である。

 山内豊信はというと、自藩のものが負けてもそれほど気にならなかったのか、盃を傾けている。

 確かに同じ土佐人とはいえ、豊信は藩主であり龍馬は藩士ではなく郷士である。

「さすが、千葉道場が推すだけの腕」

 桂が、そう声をかけてきた。

「なぁんも、おんしに比べちょったら、わしの腕などまだまだじゃ」

「ぜひ、真剣で立ち合ってみたいですな」


 ――冗談じゃない……!


 桂は笑みを浮かべていたが、龍馬は生きた心地がしなかった。

 この男は、絶対敵に回してはいけない――、そんな勘が働く。

 

「凄いじゃないか! 龍さん」

 重太郎はそう絶賛するが、龍馬は嘆息した。

「わしの腕など、まだまだじゃ」

「なにをいう。相手は練兵館の塾頭だというじゃないか。その男から二本取れるとは」

「けんど、彼らはこの国の末を見ちゅう」

 桂小五郎も、武市半平太もこの国を憂いている。

 異国に対し、弱腰になっている幕府。

 このままで良くないことは、龍馬にもわかる。

 

――この江戸には自分より強く、己の意志をもった侍がいる。


 長州藩士・桂小五郎――、彼との出会いは酒場とこの試合だけではあったが、隙を見せぬ態度といい、国を思う想いも強いだろう。


 だが――。


                    ◆


「日米修好通商条約……?」

 桶町千葉道場――、稽古を終えた龍馬は重太郎の部屋で首を傾げた。

 安政五年六月――、幕府は米国との間に新たに条約を締結させたという。

「問題は、帝の勅許が下りぬままに締結したことさ」

 重太郎はそういって、嘆息した。

 

 やってしまったかと思ったが、後の祭りである。

 おそらく米国に急かされるままに、条約を結んだのだろう。

 これにはたして、幕府に不満を持つ一部の者はどうするか――。

 帝を天孫と仰ぐ尊王派にとって、その帝の最終判断を待たずに米国に傾いた幕府は許しがたい存在だろう。

「重太郎さん、この国は荒れるぜよ」

「……だろうな」

「このままじゃと、どこかの藩が異国に対し戦端を開きゆう」

「おいおい」

 重太郎はそこまで考えていなかったのか、苦笑いをしている。

 

 一個人では異国を追い出すことはできないかも知れないが、大名家となると可能だ。

 といっても率先して動くのは、その家臣たちだろうが。

 龍馬の脳裏に、ある男が浮かぶ。

 桂小五郎――、彼はこの大事をどう捉えるのだろう。

 ペリー米国艦隊が再来する以前、龍馬も異国を討つつもりでいた。


 姉・乙女への文にいわく――、


 異国船処々に来たり候由に候へば、戦も近き内と存じ奉り候。その節は異国の首を打ち取り帰国つかまつるべく候。

 

 だが佐久間象山や河田小龍に話を聞いているうちに、敵を知らねばと思うようになった。 その敵は、この国よりも遥かに進んでいた。


 ――相手を知らなければ、勝負には勝てぬ。


 佐久間象山は、そういった。

 それは、剣術も同じ。

 相手の力量、動きを冷静に判断して最善の手を打つ。

 今のままでは、異国と戦っても負ける。

 そうなれば異国は、ますますこの国で力を振るうだろう。

 こうして春が過ぎ、夏になった。


 龍馬は腹を満たそうと、内堀で店を求めて歩いていた。

 そんな彼の前で、蹲っている男がいた。


「おまん、大丈夫かえ?」

 肩に、触れようとした瞬間である。

「触っちゃいかんっ!!」

 そう叫ばれて、龍馬は振り向いた。

「誰じゃ? おんし……。こがいに苦しんじゅうモンを、放っておけっちゅうが?」

 男は白衣を着物の上に纏い、手提げの箱を持っていた。

 男は、関寛斎せきかんさいという蘭方医だという。

 その医者が、病人を触るなという。

 彼は言った。

 

「病が感染うつると、言っている」

「は……?」

虎狼狸ころりだよ、その者は……」


 初めて聞く病名に、龍馬は唖然とするが、周りにいたものが虎狼狸と聞いて一斉に散った。

 なのに関寛斎は、その患者を担ぎ始めた。

「センセ、虎狼狸っちゅうがは、センセには感染せんがか?」

「いいや、感染するよ。だが私は医者なんでね」

 龍馬は、片側に回ると患者の腕を自身の肩に回した。

「運ぶのを手伝うがよ」

「わしは、二人も診れんよ」

「わしは侍じゃが、困っているモンは見捨てられんがじゃ。それに、こっちのほうが運ぶのに楽やき。違うかえ? センセ」

 龍馬の言葉に、関寛斎は軽くため息をついて歩き出した。

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