第18話 鍛冶橋藩邸・他流試合

 安政三年八月、江戸・日本橋――。

 諸国へ向かう出発地点であり、諸国から江戸に来る終着点は、この日も賑わっていた。

 風鈴を売り歩く棒手振りぼてふりが涼し気な音を立てていたが、さすがのこの男も恨めしげに空を見上げた。

「まっこと、敵わんき」

 着物のあわせを緩め、龍馬は扇子で風を送る。

 二度目の剣術修行――、一年ぶりの江戸だったが、今年の夏は昨年より暑さが増していた。小腹を満たしに築地藩邸を出た龍馬だったが、つくづく頭に月代を入れなくて良かったと思った。

 そもそも龍馬の場合は髪の癖が強いため、父や兄のように月代を入れられなかった。

 おかけで脳天を直に炙られることはなかったが、腹の方も限界である。

 龍馬は近くの縄暖簾なわのれん(居酒屋)に入ると、酒と肴を注文して刀を腰から抜き、床几に腰を下ろした。

 刻限は午後二時ひつじのこく――、客は床几と小上がりを入れて十人もいない。

 やがて注文したものが、やって来る。

 頼んだ肴は味噌田楽、酒は緩めの燗酒である。

 冷やでも良かったが、やはり燗酒が美味いと龍馬は思う。

 ただ猫舌なため、熱燗は飲めないのだが。

 

「――このままではこの国は、異国の意のままじゃ」

 聞こえてきた声に、酒を盃に注ごうとしていた龍馬は手を止めた。

 声は龍馬の斜め後方、小上がりのところからだった。

「帝も嘆きあそばしておられるという。それなのに幕府は……」

 声には、少し訛りがある。

 龍馬のように強い訛りではなかったが、幕府を大胆に非難する声につい、耳が向いた。

「落ち着き給え、ふたりとも」

「これが落ち着いていられますか? この国が清国と同じになるかも知れないのですぞ!? 桂さん」

「落ち着けと言っているのだ。今はその時ではない」

 再び制されて、会話は途切れた。

 おそらく興奮した二人は、ここが誰でも出入り出来る酒屋だと思い出したのだのだろう。

 幕府の役人に聞かれでもすれば、彼らは間違いなく捕まる。

 ただ、国を憂う人間がここにもいた。


 佐久間象山も、河田小龍も同じことを言った。

 異国の意のままになっていると、この国は清国のようになる――と。

 この国を強くする方法――、最新の軍備を整え、貿易によって富を増やすのだと。

 といって――、一個人では手も足も出ないのだが。


 慌ただしく店を出ていく男二人を視界に捉えていると、あとからもう一人も店を出ていこうとしていた。そんな男がなにを思ったか振り向き、龍馬と目が合う。

 こういう場合は、非常に気まずい。

 視線を逸らせばかえって怪しまれ、といって目礼するのも不自然だ。

 だが視線は男のほうから外され、店を出ていく。

 

 ――あの男……、腕のほうは確かじゃろ。

 

 一瞬絡んだ二人の視線――、僅かに漂った緊張感は、龍馬の背に汗を流した。

 向こうにその気がないにしても、これが剣術での対峙の場なら、動揺した龍馬の負けだろう。

 田楽の最後の一串を腹に収め、龍馬は立ち上がる。

 袴の腰帯に刀を捩じ込み、袷から巾着を出して金を払う。

 店の外に出ると、陽は少しだが和らいでいた。

 眼の前を、金魚売りの棒手振りが通り過ぎていく。

 開国し異人がやって来ても、江戸の町は平穏であった。

 寄宿先の築地藩邸に戻ると、武市半平太が庭に立っていた。

 武市は龍馬が二度目の剣術修行のため土佐を出立する少し前に、彼もまた江戸での剣術修行に出ていた。

 

「武市さん、どうかしちゅうか?」

 眉間に皺を刻み、空を睨んでいた武市に、龍馬は声をかけた。

「実はの、困ったことが起きちょった」

いつも冷静な武市が、難しい顔をしているとは珍しい。

 龍馬は手にしていた刀を傍らに置き、どかっと武市の前に座った。


                  ◆◆◆

 

「山本琢磨ぁ!?」

 龍馬は思わず叫んだ。

 声が大きいと嗜める武市に軽く詫て、龍馬は頭を掻く。

 二人にとって山本琢磨は、赤の他人ではない。 

 山本琢磨と龍馬は、親類同士の関係にある。さらに山本琢磨の母は、武市半平太の妻である、富子の叔母であった。

 

「山本琢磨は、うちの道場で師範代をしていたんだが――」

 武市半平太いわく、その山本琢磨が稽古に現れなくなったという。それからしばらくして、彼は青い顔で武市半平太の前に現れたらしい。

 

「なにがあっちょったかが?」

「彼がいうには、酒を飲んでの帰り道に、懐中時計というものを拾ったそうだ」

「なんじゃ……? それは」

「わしもようわからんが、異国では手元で刻限を告げるものちゅうらしい。問題は琢磨が酔った勢いで、売っちょったことじゃ。これが藩に知れたがじゃ」

 山本琢磨はこのままでは切腹になると、武市半平太に助けを求めに来たらしい。

 他人のものを拾い、そのまま売却したことは確かに罪である。


「武市さん、藩に届けなかったことは悪いことじゃ。けんど、彼は酒に酔っていたがやき、悪気はなかったんじゃ。このまま腹斬らせるゆうがはいかんぜよ」

 

 国が変わる中、土佐はいまだに上士と下士の身分の差が離れている。

 山本琢磨は龍馬と同じ郷士の出、果たして藩は彼の言い分を聞くだろうか。

 二人は彼を救うべく動いたのだが、その山本琢磨本人はもう江戸にはいなかった。どうやらこっそりと、江戸を出ていったようだ。


 蝉時雨と強い日差しが降る夏の江戸――、龍馬はこれから己が進むべきを、まだ見いだせずにいた。

 変わったことといえば、千葉重太郎の妹・佐那子と許婚となったことだ。

 再び彼女と立ち合った龍馬は、佐那子の竹刀を叩き落として勝ち、佐那子はそれ以来男装はやめたという。

 祝言を急がなかったのは龍馬がまだ遊学中の身であり、この江戸にしろ土佐にしろ、道場を開いて門弟が入ってくるまでは生活が安定しないと、定吉と重太郎が思ってのことだろう。

 龍馬の兄・権平も、龍馬は町道場の主になると思っているようだが――。


 ――わしには、他にやりたいことがあるがじゃ……。


 龍馬の脳裏に、大海に浮かぶ西洋式の船が描かれる。

 嵐となればその航海は苦難を強いられるかも知れないが、船はたくさんの荷と人を運ぶ。

 大砲を備えれば、敵を追い払うこともできる。

 とはいえ今の龍馬に、足がかりとなるものは一切ないのだが。

 

              ◆


 安政四年、江戸の梅が満開となる頃――、桶町千葉道場に他流試合の話が飛び込んできた。しかもその話は、龍馬と無縁ではなかった。

 開催される場所が、鍛治町かじまちの土佐藩上屋敷だったのである。

「うちの相手は、士学館と練兵館の門弟だそうだ」

 士学館といえば武市半平太がいるが、龍馬の相手は練兵館の門弟らしい。

 千葉重太郎は明朗快活めいろうかいかつな男だが、この日はいつもにまして真剣だった。

 大道場との総当たりは、めったにない事らしい。

 

 龍馬は腕を組むと、視線を天井に向けた。

 神道無念流の練兵館は、神田於玉ヶ池の北辰一刀流・玄武館、南八丁堀大富町蜊河岸みなみはっちょうぼりおおとみちょうあさりがしの鏡新明智流・士学館と並ぶ大道場である。

 

「その他流試合には桃井どの、斎藤どのも臨席されるそうだ。ま、土佐守上覧とさのかみじょうらんだからな」

 桃井とは、初代・桃井春蔵ももいしゅんぞうから数えて三代目の士学館道場主・桃井春蔵のことで、斎藤とは二代目の練兵館道場主・斎藤弥九郎らしい。

「うちの豊信公とのさまの前でやるというが?」

 

 土佐藩主・山内豊信やまうちとよしげは、土佐守の官位をもつ。

 その山内豊信がいま、江戸にいるようだ。

 龍馬は、その土佐藩主の顔は知らない。

 龍馬の家は元は才谷屋という豪商で、そこから分家して郷士となった。しかし郷士は、主君である土佐藩主に拝謁はできない。おそらく龍馬の亡き父も、家督を継いで現在土佐にいる兄・権平も藩主・山内豊信の顔は知らないだろう。

 ましてや龍馬は剣術修行中の身で、藩の役職にもついていない。主君の名前は知っていても、顔を知らないのは当たり前である。

 しかし、士学館と練兵館の名が出てきたとして、神田於玉ヶ池の玄武館ではなく桶町の千葉道場にお鉢が回ってこようとは。

 

りょうさん、これはここにとって名誉なことだ。士学館と練兵館と当たれることは、一度にあるかないかだからな」

 誇らしげな重太郎に、龍馬は押される一方である。

 その龍馬の対戦相手は――。


「おんしは、あん時の……」

 羽織袴に総髪の男が、龍馬の前で眉を寄せる。

 その男は、昨年の夏に龍馬が暑さを凌ぐために入った酒場にいた一人であった。

 ただ目が合っただけの男だったが、まさか対峙することになろうとは。

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