第17話 遥か海の向こう側

 高知城下・築屋敷――、この地にこの男は住んでいる。

 河田小龍かわだしょうりょう――、元々は土佐藩の海運に携わる、御船方おふねかたを務める武士の家に生まれたが、幼少のころより南宋画家・島本蘭渓しまもとらんけいに画を学び、儒学者・岡本寧浦おかもとねいほの門下に入った。

 弘化元年には、京・狩野派九代目の狩野永岳かのうえいがくに師事し、嘉永元年には二条城襖絵修復のに師とともに携わった。

 そんな彼もこのときまでは、海の向こうの事情など一切知らず、この国の末を憂うことになろうとは思っていなかった。

 きっかけは、藩命で取り調べることになった、ジョン万次郎である。

 元・土佐漁師だという万次郎は、土佐湾沖合での漁の最中に船が難破し、無人島に漂着したという。

 そんな無人島を通りかかったのは、米国メリケン捕鯨船だったという。

 この日の本に帰ってくるまで約十一年――、すっかりこの国の言葉を忘れたのか、万次郎の言葉は理解できないものが多く、取り調べは難航した。

 問題は、その話の内容である。


 あれから一ヶ月――。

 

――なんてことだ……。


 河田小龍は一人、嘆息した。

 ふと、隙間風すきまかぜが室内に忍び込んできた。

 行灯あんどんの灯りが揺らぎ、書見台しょみだいの書がパラパラと捲られる。

 この国が鎖国によって閉じられている間、西洋列強は競うように進化していた。実際にその目で見てきたという、ジョン万次郎がそういうのだ。

 小龍は、この国の遅れを痛感させられたのである。

書ではわからぬ、異国の詳細な内容――。

 彼を調べながら、彼が言っていることは嘘偽りではと疑ったが、万次郎は帰国した際の厳しい詮議にも、この国の遅れと西洋列強の進化を語ったという。

 この国はようやく海防に乗り出したが、米国メリケンに比べればまだまだであろう。

 いや、この国も異国と渡り合える力を持たねばならぬ。

 小竜は絵師ではあったが、そう思うのであった。

 


「旦那さま……」

 その声に、河田小龍は顔を上げた。

 声をかけてきたのは、下男である。

「どうした?」

 障子が開き、下男が頭を下げた。

「表に、旦那さまにお目にかかりたいっちゅう、お侍が来ちょります」

 はて――?

 河田小龍は、眉を寄せた。

 もう藩の用は終わったはずだが――、と彼は訝しんだ。

「お通しいたせ」

 河田小龍の指示に、下男は軽く頭を下げて障子を閉めた。


 ◆

 

 桂浜――、この日も海は凪いでいた。

 開国してからこの日の本には、様々な異国が海を渡って来たという。

 その異国は、この国より遥かに進んでいた。

 

 米国へ行ったというジョン万次郎から話を聞いたという、河田小龍。

 その小龍から異国について話を聞くため、龍馬はいそいそと出かけていったが、聞かされる話の内容に驚嘆した。 

 蒸気で動く船、大砲を備えた巨大な軍艦、地上に鉄の道を敷き、その上に沢山の箱をつらねて沢山の人と荷物を積んで走破する汽車という乗り物。

 この国の一部の者は、異国と戦ってまでも彼らを排除するのだと躍起やっきになっている。

 だが小龍いわく――、

 


「そげな国を相手に、戦じゃ? 勝てんよ。なんぼいうたち」

 そんな小龍に、龍馬は食い下がった。

「そいだら、こん国は、異国の意のままになるがよ」

 すると小龍は、こういった。

 

「いんや。異国の大船を買っちょって、航海術を学びゆうがじゃ。 そいで、異国との貿易によって利益をあげ、異国に追いつく事がこん国のとるべき道じゃ。」

 

 船を買えといっても、である。

 今の龍馬にそんな大金があるはずがなく、第一、坂本家の人間は反対してくるだろう。


「鯨はええのう……、広い海を自由に駆けられるがやき」


 この土佐にもやって来る鯨は、人に捕られることもあるが、大きな体で広い海を泳いでいる。

 鯨にすればこの国は、小さく見えるだろう。

 

 そんな小さな国の土佐は、さらに小さい。

桂浜のはぐれ松は、この日も海に向かって伸びている。

 いつの日か龍に変じ、海の向こうへ飛ぶのだと思っているのだろうか。

 世は少しずつ変わりつつあるが、この土佐には未だに根付く、上士と下士の身分差別がある。変わらねばならないのは、この土佐だろう。

 

 なれど下士は、虐げられたままでは終わらないだろう。

 悔しさが原動力となり、この土佐を変える力となるかもしれない。

 たとえば、学問を学んで上士を見返すと言っていた岩崎弥太郎のように。

 その弥太郎といえば、この土佐に帰ってきているという。

 しかもその居場所は、牢の中。

 父親の弥次郎が、酒席で庄屋と喧嘩になって投獄されたらしく、それを知った弥太郎が江戸から帰ってきたらしい。

 弥太郎は父はまちがっていないと奉行所に訴えたそうだが、役人は取り合わなかったという。大抵の者はここで諦めるが、そこはあの弥太郎である。

 奉行所の壁に「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」と大書したため投獄されたらしい。

 

 ――変わっちょらんのぅ……、弥太郎は。


 間違ってるものは間違っていると、堂々言える彼のような男が、この国を変えるのかも知れない。

  

◆◆◆

 

安政三年、二月――。

 庭で薪を割っていた龍馬は半分ほど割り終えて、空を見上げた。

 晴れ渡る空は青かったが、風にはまだ凍るような冷たさである。

「ふぅ……、相変わらず人使いの荒い姉やんじゃ……」


 今朝のことである。

 龍馬は姉・乙女に、叩き起こされた。

「龍馬! はよ起きや! いつまで寝ちゅうが!?」

 毎度のことながら、朝から元気な姉である。

 


「乙女姉やん……、まだ早くないかえ……」

 壁板の隙間から、朝靄が見える。

 龍馬としてはもう少し布団の中にいたかったが、この姉に逆らえる筈もなく――。

 

「働けば目も覚めるじゃろ。かまの薪が足りんきに、割っちょいてや」

 と、こうである。

兄・権平ですら、言葉でやり込められてしまうのだから、彼女に勝てる人間はいないのではと、思ったりする龍馬である。

 昨年の師走――、父・八平が他界した。

 坂本家には龍馬を除いて、男は兄・権平と下男の源蔵だけとなり、女は乙女だけになってしまった。

 龍馬が生まれ、六人もいた坂本家は、今や四人。

 狭いと思っていた家の中が、広く感じられた。


 もし、自分がこの土佐を離れるようになったら――。


 ふと、龍馬はそう思った。

 龍馬とて、いずれは巣立ちの時が来る。

 妻も迎えず、これといって職もなく、このまま坂本家にいるのはどうか。

 坂本家は父・八平の死後、兄・権平が家督を継いだ。

 空の青を見つめていたからではないが、龍馬の心は、既に青い海の上にいた。

 西洋式の船を買えるような金はないが、いつかは自分も海を駆けてみたい。

 だがそうなれば、坂本家は三人だけとなる。

 

「よぉ龍馬。精が出るのう」

 庭で薪を割っていると、まがきから武市半平太が顔を出した。

「武市さん! 今帰りかえ?」

「実はの、今度わしも江戸に行くことになったがじゃ」

 武市いわく、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許されたという。

 修行先は、鏡心明智流の士学館。

 江戸で三本の指に入る、大道場である。

 

「武市さんは、こん国をどう思うが?」

 龍馬の突拍子もない問いに、武市が瞠目する。

「いきなり、どうしちゅう?」

「この国は、弱虫じゃ」

 龍馬はそう言って、空を見上げる。

「面白い、例え方をしゆうのう。確かに異国と戦わんと、開国しちょった幕府は弱腰になっちゅう」

 武市も、二百年続いた鎖国が米国艦隊が来航しただけで崩れ去ったことに戸惑い、憤っているようであった。


 ――この国も、西洋に習うがじゃ。


 河田小龍は、龍馬にそういった。

異国と戦うのではなく、競うのだと。


 それから季節が春となり、夏になった。

 龍馬は二度目の剣術修行を藩に申し入れ、これが許可された。

 かくして龍馬は武市に遅れること十三日後、再び江戸を目指す。

 時に安政三年、八月二十日。

 この日も空は青く、穏やかな風が吹いていた。

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