第16話 異国船来航の影響
嘉永七年六月末――、龍馬は江戸での剣術修行を終え、土佐に帰ってきた。
さらにこの年の秋――、
「な、なんじゃ……!?」
ちょうど日野根道場での稽古を終え、坂本家の敷居を跨いだときであった。
これに動じなかったのが姉・乙女で、
「大ナマズが、
と笑っている。
――さすが乙女姉やんじゃ。
この地震は坂本家に被害は与えなかったが、下町・
一体、どれくらい大きなナマズがいたのだろう。
ただでさえ、異国船来航で揺れた日の本である。
地震からまもなくして――。
「
果てしなく広がる大海原――、龍馬は子供のようにはしゃいでいた。
龍馬は鯨の背に乗り、海にいたのである。
何処でそんなことになったのか覚えていないが、鯨に乗ってみたかったのは事実である。
幼い頃、土佐湾沖には、鯨という黒くて大きい生き物がやって来ると聞いたことがある。
土佐・室戸は、捕鯨の地らしい。
といって、土佐人が誰しも鯨を見たということはなく、龍馬もその一人だ。
しかし龍馬は、肝心なことを忘れていた。
鯨が海面に姿を見せるのは、息つぎだけだということを。
案の定、鯨は潜水を開始する。
背に何が乗っていようと、お構いなしである。
海に落ちる瞬間――、
「龍馬っ!!」
障子が派手に開かれる音と女人の声に、龍馬は飛び起きた。
声の主は、わざわざ確認しなくともわかる。
この坂本家で、龍馬を
龍馬の三歳年上の姉、乙女である。
「……乙女姉やん、いきなりなんじゃ? わし、なんぞしゆうが?」
ただでさえ癖の強い髪を、龍馬は掻いた。
「いま
よくもまぁ、朝から元気のいい姉である。
龍馬はやれやれと嘆息し、半眼で乙女を見上げた。
「姉やん、ちくっと声を小さくしてくとぉせ。そがな怒鳴らんでも聞こえちゅう」
「ほいたら、早よ起きや! 今日はおまんの性根叩き直しちゃるきに」
「勘弁してしてつかぁさい……、姉やん」
何をするか理解した龍馬は拒んだが、目の据わった乙女が振り向くや、龍馬は仰け反った。
「却下」
やれやれと、首の後ろをかく龍馬である。
しかし、鯨に乗る夢を見るとは――、我ながらおかしな夢をみたものだと、龍馬は一人笑った。
◆
夏が過ぎ、冷たい風が吹くようになった晩秋――、今年も坂本家の庭では柿が実った。
これを目当てに
なにしろ毎年のように、乙女に追い払われている鴉である。
鴉も他のところへ行けばいいものを、凝りもせずにやってくるため、坂本家の柿はその鴉にとってよほど美味いのだろう。
「まだまだぁっ!!」
木刀のかち合う音と、乙女の声が響く。
「姉やん、まだやるがか?」
乙女の木刀を己の竹刀で受け止めつつ、龍馬は乙女に聞く。
なにしろ、もう
しかも龍馬は起きたてで、目は覚めたものの腹が減ってきた。
「逃げよっと?」
「姉やんが現在も強いのは、もうわかったきに」
龍馬はお手上げだと降参を示すが、乙女は構わず木刀を振り下ろしてくる。
「
このぶんでは、
カランっと、乙女の木刀が地に転がる。
「――強うなったが? 龍馬」
乙女がにっと笑う。
「乙女姉やんが、鍛えてくれたお陰ぜよ」
「おまんは、もっと大きくなる男がよ」
「姉やん、わしはもうひとりの弱虫を知っちゅう。その弱虫も、強くなれるかのぅ」
龍馬は、空を見上げた。
昨日から低くたれこめていた
「努力すれば、強くなれるがよ。おまんが、そうであったようにの。けんど、その弱虫って、何処のどいつじゃ?」
乙女が小袖の袖を捲るが、龍馬は、その問いには答えなかった。
もうひとりの弱虫とは幕府のことだったが、たとえ乙女でも幕府相手に木刀は振れないだろう。
◆◆◆
土佐郷士・坂本家は既に長女の千鶴と二女の栄が嫁ぎ、三女の乙女、長兄の権平、そして父・八平、下男の源蔵だけとなっていた。
江戸での龍馬の腕に、龍馬を滅多に褒めない兄・権平が「なかなかなものだ」と言った。
「兄上は散々、龍馬のことを貶しゆうが?」
権平の
「そ、それはじゃ……、その……」
目を泳がせ始めた権平に、父・八平が静かに口を開く。
「
修業中心得大意とは、八平が龍馬に渡した修行中の心得書きである。
一、修行第一。
二、無駄遣いするな。
三、色恋に迷うな。
この三ヶ条については、龍馬は「是」と答えた。
最後の「色恋に迷うな」は、品川・岡場所の件が浮かんだが。
しかし、その後がいけなかった。
「実は浦賀で、異国船を見ちょりました」
この言葉に、父も兄も姉も動きをぴたりと止めた。
龍馬は弱虫でもなく泣き虫でもなくなった分、好奇心が少し旺盛になった。
「い……、こく……せん、を見ゆう……?」
「お、おまんは、
父・八平は頭を抱え、兄・権平はわなわなと震えている。
夷狄――、開国に際し、誰もが賛成したわけではなかった。
この国は天孫・帝がおわす神国――、それを穢す異国は武力を以て討つべし。
江戸にいた頃、そうした声が聞こえてきた。
しかしそれ以前の龍馬の興味は、異国船にあったのだ。
「あはははっ。やっぱり龍馬は変わらん」
笑い転げる妹・乙女に、権平は天井を見上げてため息をついた。
「でも兄やん、この土佐には、その異国船に乗ったことがある男がいるがやないですか」
乙女の言葉に、権平は軽く舌打ちをした。
乙女の言葉は、龍馬の好奇心に油を注ぐものと思ったのだろう。
「乙女姉やん、それは本当かえ?」
案の定、龍馬はその話に飛びついた。
「城下で噂になっちゅう。異国に行っちょっていたが、
「それは本物の、浦島太郎じゃ」
すると権平が、またもため息をついた。
「おまんらの話には、ついていけん」
翌日――、龍馬は吹井村の、武市半平太を訪ねた。
来る早々「異国船に乗った男がいるそうじゃの!?」と言う龍馬に、武市半平太は戸惑ったようだ。
確かに久しぶりに顔を合わせるというのに、挨拶もなしにいきなりのセリフである。
「おまん……、変わっとらんのぅ……」
武市半平太は呆れつつ、苦笑した。
異国へ行ったという男の名は、ジョン・万次郎――、元・土佐漁師だった彼は沖合で漁の最中に漂流し、
しかし当時の日の本は鎖国下、彼はそのまま海を渡り、
そんな彼を、この土佐で調べた人物がいるという。
「それは、誰じゃ? 武市さん」
「
「ちくっと、聞いてみたいだけがやき」
この土佐にも、異国に対して不満の声はあるようだ。
二百年続いた鎖国を一年で瓦解させ、西洋列強に対して幕府は、掌を返し始めたのだから憤るのは当然だが。
――まずは、敵を知ることじゃ……。
この国が強くなるための最初の一歩――、龍馬はそう思った。
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