第15話 鎖国・日の本と、浦島太郎
嘉永六年、土佐――。
季節はすっかり秋めいて、庭の柿が熟していた。
「今年も、よう実のちゅう……」
坂本家三女・乙女は火吹き竹(窯や風呂の火をおこす竹)を片方の腰に当て、
まだ龍馬が幼い頃、乙女は泣く龍馬のために、柿を捕ろうとしたことがある。
あいにく、兄・権平にみつかり、柿は二人の口に入ることはなかった。
「これで、届くじゃろ」
火吹き竹から木刀に持ち替えた乙女は、柿を突いた。
「失礼する」
誰かが来たらしく、乙女はその姿勢のまま振り向いた。
「た、武市さま……っ」
武市半平太の姿を視界に捉え、乙女は慌てて木刀を背に隠す。
だが、乙女の逞しい姿をしっかり見ただろう武市半平太は、苦笑していた。
「へぇ、あの龍馬がですか」
庭先の濡れ縁に腰を下ろし、勧められるままに湯呑みを手にした武市半平太は、感慨深そうだ。
武市の訪問で、彼女の心が浮き立っているとは知らぬ武市半平太は、茶を啜る。
武市への想い――、それは誰も知らない。
武市家は白札という上士格、郷士の坂本家とは身分差がある。
男勝りで負けず嫌いの乙女だが、彼女も女であった。
「おかしいじゃろ? 昔は学問なんぞ嫌いじゃとゆうちょったがやき」
乙女の手には、柿が握られている。
武市半平太が「取ってやりましょう」といい、取ってもらったのだ。
「わしは、ええことと思うちょります。こん国を守るんは、侍の使命じゃ。乙女どの、これから龍馬は頼もしゅう男になりますじゃろ」
「武市さんにそう言ってもらえると嬉しいがです。今後とも、あん子の力になってつかぁさい」
乙女の頼みに、武市半平太は「ええ」と笑顔で返した。
だが柿の味は渋く、乙女の恋もまた甘くはなかった。
◆
「今……、なんと申した?」
嘉永七年一月――、江戸城・本丸にて、
そんなはずはない――、と。
「浦賀沖に、米国の船が現れましてございます……っ」
「馬鹿を申せっ!」
「で、ですが、ご老中。浦賀奉行の報せでは、前年に現れた
「
徳川十三代将軍・
阿部正弘はそんな将軍の前で、握った拳を揮わせていた。
昨年の
ここは
議論は白熱した。
「異国を刺激するのは、よろしくないかと存じまする」
口火を切ったのは次席老中にして、
「向こうの要求に応じよと?」
「
海防掛は正式には
当初は常設の役職ではなかったが、弘化二年、老中となった阿部正弘は、海防掛を常設としたのである。
「甘いのぅ。ゆえに、異国に舐めらるのだ」
徳川御三家にして水戸藩主、幕府では海防参与・
「なれど水戸さま、戦となればこの江戸は火の海になりまする」
「黙らっしゃい! この国は、天孫・帝がおわす国ぞ! 異国を受け入れるなど以ての外じゃ!!」
だが、阿部正弘が朝廷を始め、外様大名を含む諸大名からも意見を募り、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが、諸大名が幕政へ介入する原因となった。
これが幕府の権威を弱める一方で、雄藩の発言力の強化及び、朝廷の権威の強化につながってしまった。
昨年の
しかも今回は、六隻からなる大艦隊らしい。
「上様、直ちに詳細を確かめまする」
阿部正弘はそういって、低頭した。
だが――。
米国に翻弄され続けた幕府は、横浜の地にて米国と会談することになった。
老中・阿部正弘――、二十五にして老中となり、老中首座・水野忠邦が失脚すると変わって首座となって幕政に関わったが、度重なる異国船来航に苦しめられた男であった。
一部では優柔不断な老中と揶揄されたが、彼が最終的に下した決断は、この日の本を一気に目覚めさせたのは確かだろう。
◆◆◆
嘉永七年三月――。
「――いい香りがしちゅう」
築地・土佐藩中屋敷――、部屋から庭に降りた龍馬は背伸びをして空を仰ぐ。
庭で開花した梅が 甘酸っぱい匂いを放っている。
米国艦隊が再びやって来たことは、龍馬の耳にも届いていた。
当然再び品川防衛に駆り出されたが、品川沖のお台場では結局、据えられた大砲は火を噴くことはなかった。
この月――、幕府は米国と日米和親条約という条約を結んだという。
ここに、二百年以上続いた鎖国は瓦解したのである。
「象山センセは、こん国はこれからまっと、騒がしゅうなると言っちょったのう」
米国に続き英国やフランスなど、次々とやって来ると佐久間象山は言っている。
その佐久間象山といえば、現在は伝馬町牢屋敷の中だ。
なんでも塾生の一人・吉田寅次郎(吉田松陰)が下田にて異国船にて密航しかけ、師である象山も罪を問われたという。象山にすればとばっちりだが、龍馬は江戸での師を失うことにもなった。
この間になにが起きたかといえば、嘉永六年の
三月には
確かにこの国は、騒がしくなるかも知れない。
足を伸ばして江戸湊に行くと、西洋式の船が停泊している。
――まっこと大きいのぅ。頑丈そうにできちょる。
船の名は、
嘉永六年九月――、幕府は大船建造の禁を解除し、十月には異国への渡航が解禁されたらしい。
咸臨丸は今年の嘉永七年に、幕府が長崎・オランダ商館に蒸気船二隻を発注したその一隻だという。
「おまえさん、船が好きかい?」
龍馬の背後に、そんな声がかかった。
「おんし、誰じゃ?」
そこにいたのは総髪に羽織袴の男で、侍のようだが、口調は龍馬がこれまで会った者たちとは違っていた。
「この国を憂いている男さ。どうもこの国の侍は短気でいけねぇ。鎖国に戻し、異人を追い返せと吠えているそうだぜ」
男は、そう苦笑する。
「おんしは、異国と仲良くしゆうが?」
「仲良くするつもりはねぇが、鎖国に戻ればいいことはねぇ。今のこの国は浦島太郎ってところだな。浦島太郎が竜宮城で浮かれている間に、地上では時代が進んでいた。この国もそうじゃねぇか」
「おんし、面白い例え方をしゆうのぅ」
「間違っちゃいねぇだろ。これからの時代は――、こうした船がもっと必要になるぜ?」
何処かで、聞いた言葉である。
――誰じゃったかのぅ……。
あ。
龍馬の脳裏に、その男が浮かぶ。
佐久間象山である。
この国が浦島太郎なら、玉手箱は
浦島太郎は長い年月が経っていたところに愕然として話は終わるが、この国は愕然としたままではいけないと師はいう。
弱虫だった龍馬には、それがよくわかる。
この国も、強くならなくてはならない。
でなければ、相手は更に強く出てくる。
「それにしても、変わった男じゃったのぅ……」
龍馬に声をかけてきた男が何者だったのか、彼はこのときは知る由はない。
◆
六月――。
「坂本さま」
千葉道場の井戸端にいた龍馬は、枝折り戸を通ってきた佐那子に笑んだ。
「佐那子どの、今帰りかえ?」
「土佐に……、帰られると聞きました」
「わしとしては、もうちくっといたかったんじゃが、父上と兄やんは早く帰りやとうるさいきにの。ま、一年という約束やき、帰らんといかんのはわかっちゅうがの」
「またここに、戻られるのですよね?」
佐那子の問いかけに、龍馬は首を傾げた。
「どういて、そげなことを聞くが?」
「……ここには、わたしの相手になる男はいませんので……」
「はは、相変わらず厳しいのう」
龍馬は、頭を掻きながら笑った。
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