第14話 弱虫な国の末
師走中旬――、龍馬は思わぬ男と再会した。
いつものように道場での稽古を終えて、築地の藩邸に帰ってきたときである。
廊下の向こうから、男数人が談笑しながら歩いてきた。
龍馬のような総髪ではなく、
土佐藩士には違いないだろうが、問題は先頭にいた男である。
その男を視界に入れた途端、龍馬は近くの空き部屋に逃げ込んだ。
龍馬にとっては、この江戸に来てまで会いたくない男だったからだ。
かつて土佐にて、龍馬を罵ってきた上士・藤村である。
「さすがは兵庫さまじゃ。お糸さまを射止めちゅうとは」
「なになに、たまたまじゃ」
答えたのは、藤村だろう。
なにせ、因縁の相手である。龍馬は、顔も声も忘れてはいなかった。
「
「左様。こうして肩を並べて歩きゆうも、恐れ多いがじゃ」
「大袈裟じゃのぅ」
部屋の前を通り過ぎていく彼らは、そんな話題を口にしていた。
どうやら藤村に、縁談があるようだ。
確かにめでたい話ではあったが、龍馬にはまったくめでたくはなかった。
――
つまり、この藩邸内でこれからも出くわすことになるのだ。
堂々としていればいいが、ここは土佐藩邸。江戸の中にあるといっても、土佐の上士と下士という身分差は生きている。
さすがにここでは、土下座まですることはないようだが。
自室に戻ってきた龍馬は、同部屋の黒沢雄馬に対して口を開いた。
「おんし、藤村兵庫という男を知っちゅうかえ?」
この問いに、黒沢が胡乱に眉を寄せた。
「……なにゆえ、お主のような者が、あのかたをしっている?」
黒沢は武市半平太と同じ白札という上士格だったが、藩士でもない郷士の龍馬が、上士の名前をなぜ知っているのか気になったようだ。
「名前のほうは、さっき知っちょったばかりじゃ。廊下で
実は土佐にて二度、道で会っているのだが、龍馬はそのことはいわずに頭をかいた。
「右筆(代筆など行う役)・藤村左衛門尉成政さまのご次男だ……」
「そげな、大物じゃったか」
天井に視線を運んだ龍馬に、
「一つ、忠告しておく。あのかたとは、あまり関わらんほうがいい」
と、黒沢はいう。
黒沢いわく藤村兵庫――、評判はよくないようだ。
悪友と付き合い、いかがわしいところにも出入りしているらしい。
そんな藤村がよく、次期家老となる男の娘との縁談が決まったのか不思議だが、上士も上士なりに大変なようだ。
藩邸を出た龍馬は、道場に行く前に八幡宮の石段を上った。
米国艦隊来航で騒がしくなった江戸市中――、この騒ぎが落ち着くよう祈るためだ。
この日の空は薄墨色に染められ、寒風が肌を刺してくる。
――さすがに、
温暖な土佐で育った龍馬は、寒気に身震いをする。
境内に人影はなかったが、大欅が高く聳えている。
幹に注連縄と紙垂がついており、おそらく御神木なのだろう。
龍馬は両腕を組むと、その欅を見上げた。
――わしは、こんままでええのかのぅ? こん江戸に来れば強くなれると思っちょってた。確かに剣のほうは、ちくっとは上達したと思いゆう。けんど、こん国は……。
この年の嘉永六年九月、幕府は大型船建造禁止令を撤廃したという。
二百二十年も続いたという禁の撤廃は、やはり
だがそれでもこの国は、異国に勝てないと砲術の師・佐久間象山はいう。
異国に習い、この国も西洋式の銃器と船を持つ――、彼はそういうのだ。
浦賀で見た、
あの船をこの国も持つことが可能なら、この国は本当に強くなれるのだろうか。
脅しをかけてくる異国は腹立たしいが、その技術の高さは認めねばならない。
◆◆◆
八幡宮にて参拝を終えた龍馬が、石段を下りていたときである。
「八幡さまで、なにをお願いしていたんですか?」
話しかけてきたのは、千葉佐那子であった。
この日も、着物袴に総髪という男装である。
「こん国が強くなれるように、頼んじょってたがじゃ」
「相変わらず、坂本さまは面白いかた」
クスクスと笑う佐那子に、龍馬は
「そうかのぅ」
と、照れ笑いをする。
「坂本さまにはこの国は、弱く見えますか?」
「はっきり言えんが、弱いのぅ。わしも、こん国も」
この国は、異国を恐れている――、それは海防の面でも明らかだ。
しかし佐久間象山は、大砲を撃ったところで弾は届かないどころか、届いたとしても損害を与えることは不可能だったであろうという。
「この国は、眠りすぎたのだ」
佐久間象山は、そう龍馬に語る。
龍馬もかつては、弱虫であった。
強い相手には、いつもビクビクしていた。
そんな相手に、勝てるわけがないと諦めていた
――ならば、見返しちゃれ。
龍馬の脳裏に、懐かしい記憶が蘇る。
まだ幼い龍馬が、擦り傷と泥だけの格好で泣いている。
悔しくて悔しくて、それでも負かされる己が情けなくて、龍馬は泣いた。
「ならば、見返しちゃれ」
姉・乙女は、そういった。
「わしには……無理じゃ……」
「強くなるがよ、龍馬。おまんは、自分に自信がないき、簡単に諦めゆう。けんど、いつまでも弱虫でいるつもりがか?悔しいと思うんじゃったら、強くなるしかないっちゃ」
強くなるために、人も国も変わらなければならないと龍馬は思う。
いじめっ子というのは、相手が反抗してこないとわかると、ずっと虐めてくる。
さらに浦賀沖から去るとき、空砲で脅してきたらしい。
佐久間象山いわく、
「坂本さまは、弱くはございませぬ」
自身も弱いという龍馬に、佐那子はそれを否定する。
「佐那子どのからは、まだいっぺんも、一本取れとらんがよ」
「――修行が終わったら、土佐へ戻られるのですね」
「それが向こうでの約束じゃき。それがどうかしゆうが?」
「いえ……、なんでも――」
佐那子がなにを言おうとしていたのか、龍馬は知らない。
この日は朝から冷え込み、町を行く人は少ない。
ふと首筋に冷たいものを感じて、龍馬は空を見上げた。
「……雪じゃ」
空からは、ハラハラと小雪が落ちてきた。
「雪が珍しいのですか?」
「土佐に雪は降らんきにのう……」
土佐は、温暖な地である。
雪は降らないが、雨はよく降る。小雨ならばまだいいのだが、土砂降りともなると傘は全く意味をなさない。
――龍馬! どういたら、そがなになるんじゃ!?
ずぶ濡れで帰宅した
その日はいつものように近所の子にからかわれ、泣きながら帰り出すと雨になり、
――乙女姉やん、元気にしちゃるかのう……。
あれから龍馬は、道では転ばなくなった。泣き虫でも弱虫でもない。いくら泣いても何も変わらないと乙女は言う。
己が変わらなければ、周りも変わらないと。
土佐では龍馬が成長しても相変わらず下士の身分は低かったが、龍馬を虐めてくる者はいなくなった。
この国は、いつまで弱虫のままでいるのだろうか。
相手の強さと自身の弱さを認め、どうしたら強くなれるか――、この国もその考えに至ったとき、すべてはそこから始まる。
龍馬自身が、そうであったように――。
なれど、一介の郷士である龍馬には、この国を強くすると言っても役には立たず、その術すらこのときは思いつかなかった。
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