第13話 乙女姉さんのぬか漬け
江戸湾に
師走――、乙女は 納屋にて
坂本家の糠床は祖母の代から引き継がれ、今やその世話は乙女の仕事であった。
昨日仕込んでおいた
糠床をならし、木蓋を閉めた乙女は厨がある土間へ向かう。
「乙女嬢さま、今しがた、飛脚が|来ちょりました」
門前を
一通は父・八平と兄・権平宛て、もう一通は乙女である。
文を寄越してきたのは、弟・龍馬からであった。
「
竹箒を握りしめた源蔵が、空を見上げる。
古くから坂本家にいる源蔵は、龍馬の子供時代を知っている。
年は父・八平と大差ないが、源蔵のほうが腰が曲がっている。
「元気にしちょるじゃろ。うちは龍馬を、根性なしには育てとらんきに」
源蔵につられて空に視線を運んだ乙女は、自信たっぷりに答える。
母・幸が病死してからは、乙女が母親代わりとなって龍馬の面倒を見た。
龍馬の寝小便癖を直し、近くの鏡川で、龍馬に水練の稽古もつけた。
乙女は「お仁王」と渾名されるほど、男勝りで負けず嫌いである。
薙刀を得意とし、強弓(引くのに強い力を必要とする弓)をひき、水練も達者で馬術もできた。琴、三味線、舞踊もでき、さらに和歌や学問にも通じていた。
そんな乙女からすれば、いつも塾でいじめられ、泣かされて帰ってくる弟が不憫で、不甲斐なかった。
ゆえに、行儀作法も読み書きも、剣術もびしびしと鍛えた。
今やいろいろなものに興味をもつようになった弟になったが、父や兄は今でも心配なようだ。
「あの馬鹿、砲術を学んじょるそうじゃ」
龍馬からの文を読み終えて、権平が嘆息した。
「ええことじゃないですか?」
「剣術の修行に
乙女の文にも、江戸で砲術の先生についたと書いてあった。
「兄やんは以前、お国を守るんは、ええことじゃと言っちょったじゃないですか?」
浦賀という地に米国の船が来たと坂本家の人々が知ったのは、龍馬からの文だった。
その後、龍馬は品川での警備に駆り出されたという。
この文を読んだ権平は確かに、国を守るのはいいことだと言ったのだ。
「それとこれとは、別じゃ」
権平はそういって、乙女から視線をそらした。
だが何をしようと、龍馬は元気そうである。
まないたの上で糠床から出してきた胡瓜を切りながら、乙女はある光景を思い出す。
道場での稽古を終えた龍馬に、糠床から出したての胡瓜を見せると「美味そうじゃの」と、かじってしまったのだ。
そのまま一本平らげてしまい、乙女は夕餉のための胡瓜を、またも糠床から取り出さなければならなくなった。
――
乙女は遠く離れた龍馬を想い、最後の一つを切り終えた。
◆◆◆
この年――十二代将軍・
龍馬が木挽町に通うようになって、
幕府も土佐藩江戸藩邸も、品川沖の砲台建造で忙しいようだが、龍馬は遊学中の身とあって、剣術の稽古意外は暇だった。
だがこの砲台建造計画が、龍馬の興味を誘った。
砲術を学べば、鉄砲も撃てるかも知れないと思ったのだが、入門先の師は、龍馬の思いを早々に折ってきた。
「銃や大砲を撃ったところで、異国には勝てん」
これには、さすがの龍馬も焦った。
「砲術を教えちゅう先生が、それを言っちょったらいかんが」
「本当のことだ」
佐久間象山――、江戸・木挽町にて兵学と砲術を教えているという男は、そう言って煙草盆を引き寄せる。
「わしゃ、
「それで――、撃てるようになったかね? 坂本くん」
逆に聞かれて、龍馬は頭をかいた。
「いんや。大砲っちゅうのは、簡単に触れるものじゃないがよ」
剣術ならば、竹刀などで稽古ができるが、砲術は稽古ができない。
認識の甘さを痛感する龍馬に、象山は言った。
「そのとおりだ。そこらにあるものではない。ここで学んだことを実戦で生かさねばならん。つまり、銃や大砲を撃てるのは実戦だけだ」
「けんど先生、大砲を撃っても勝てんと言っちょったろう?」
「ああ、勝てない」
象山がいう砲術は、西洋式砲術らしい。
鎖国下の中であっても、異国の砲術でなければだめだというのである。
「異国にどうしたら勝てるかではなく、どうしたらこの国は強くなれるかだ」
象山の言葉は、龍馬のこれまでと似ていた。
土佐では、上士に下士は虐げられ続けている。
徳川の世となって以降、変わることがなかった土佐の身分制度。
そして下ばかりを見ていた、龍馬の子供時代。
彼らに馬鹿にされないようにはどうしたらいいか、それを教えてくれたのは姉・乙女だった。
己が強くなれば、何も怖くなくなる。
それは、そのとおりだった。
「先生、こん国が強くなるには、どういたらええのかのぅ?」
「まずは、敵を知り己を知ることだな。異国を知れば、この国がどれだけ遅れているか嫌でも知る。君の質問の答えは、そこにあるだろうな」
象山は顎に伸びた不精髭を撫でながら、煙草をくゆらせた。
◆
築地藩邸に帰る前、龍馬は京橋桶町の千葉道場を訪れた。
朝稽古のあと、重太郎に今夜一杯やらないかと誘われていたのである。
ただ門限もあるため、日没前までならと応じた。
「この国も強くなるように……か」
「重太郎さん、わしはこん江戸に来るまで、こん国のことなど考えちょらんかったがよ」
「それは、俺も同じだ、龍さん。いや、多くのものがそう思っていただろう。異国船によって、国が脅かされるとはな」
重太郎はそういうと、銚子の酒を龍馬の盃に注ぐ。
「象山センセの言うことは、最もじゃ。この国は弱虫じゃ」
「はっきりいうなぁ……」
重太郎が、苦笑する。
「わしも、昔は弱虫だったきに。ほうやき、わかるんじゃ。馬鹿にしゆう異国を見返さんといかんち」
それにはどうするか――、このときの龍馬には、まだわからない。
土佐から出てきたばかりの、一介の郷士である。
ただ、ペリー
威嚇されるかも知れないというのに、江戸湾までやって来た。
そんな異国船を、この国は威嚇はしなかった。
象山いわく、隣国・清国が
それ以前からも異国船は現れ、幕府は異国に対して怯えるようになったらしい。
龍馬の子供時代とは異なるが、龍馬の場合は虐めてくる相手を見返すべく、剣術を必死で覚えた。それでも上士は下士たちを虐げてきたが、龍馬はそのたびに「今に見ちょれ」と思ってきた。
――弱虫のままじゃ、なぁんも変わらんがよ。
幼い
彼女のお陰で、龍馬は立ち直った。
彼女のことを思い出した龍馬に、重太郎が小鉢を出してきた。
「――すまんなぁ……。こんなものしかないが」
酒の肴に出してきたのは、胡瓜の漬物であった。
「ぬか漬けかえ?」
「ああ。父が好きでな」
重太郎いわく、千葉定吉は京橋にある漬物店が贔屓だという。
「坂本家では、よく漬けてちょってた」
箸で摘んだ龍馬は、胡瓜のぬか漬けといえば姉・乙女を思い出す。
祖母から受け継がれるという糠床に、乙女は一日数回は手を入れていた。
重太郎が出してきた胡瓜は綺麗に水洗いされていたが、乙女のぬか漬けは軽く糠を落としたままで、ところどころに糠がついているのである。
味は、坂本家のほうが塩味が濃いだろうか。
だがその塩辛さは、これまで受けていた苦渋を吹き飛ばす美味しさで、頑張ろうとやる気を起こさせるのだ。
――乙女姉やん、わしゃ、負けんきに。
龍馬は口に運んだ胡瓜のぬか漬けを噛みながら、決意を新たにした。
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