第8話 桶町の鬼小町
「また、ですか? 兄上」
佐那子はため息混じりにいうと、兄を見た。
千葉家の重太郎の部屋――、話があると彼に呼ばれた佐那子は、兄が切り出した話に軽い目眩を覚えた。
「ああ。また、だ。ま、父上の気持ちもわからんではない」
兄・重太郎はそういって、苦笑する。
今の世、女は二十歳まで嫁ぐのが普通らしい。
そんな佐那子に父・定吉は、しきりに見合いを勧めてくるのである。
しかし当の本人は、まったくその気はない。
北辰一刀流の家に生まれたとあって剣術を学ぶようになり、なかでも小太刀に優れていたのか、皆伝の腕前に達した。
いまや、千葉道場の門弟も敵わぬ腕なのだが、父・定吉としては剣術より花嫁修業に専念してもらいたいらしい。
そんな父への抵抗か、佐那子は男装することにした。
さながら、女剣客といったところだろう。
これに、さすがの重太郎も唖然としたようだ。
――私より、強い殿方がいるのなら。
同じく
すると定吉は、旗本や叔父・周作の玄武館の門弟など佐那子に勧め始めた。
もちろん、縁談相手としてだ。
縁談相手は名門・千葉家と縁戚になれると思ったのか、喜んでやって来た。
まさかこのあと、その顔が絶望に変わるとは知る由もなく。
「まず、立ち合ってくださいませ」
佐那子の申し出に、縁談相手は躊躇うことなく竹刀を構える。
女と見くびっているのがありありの表情の相手に、佐那子は竹刀を振り下ろした。
「兄上。私は嫁にいくつもりはありません」
勝負を終えて、佐那子は兄に言った。
「お前も、相当しぶといな……」
重太郎は苦笑しているが、世の男達が弱すぎるのだ。
おかげでついた渾名が、桶町の鬼小町。
こうして、何回目かと思われる見合いの相手は、佐那子に勝負を挑まれて惨敗、肩を落として帰っていった。
「そなたは、このまま嫁に行かぬつまりか?」
千葉定吉は、己が運んでくる縁談を壊してくる娘に対し、眉間にしわを刻んだ。
「いかぬとは、申しておりませぬ」
佐那子にとって定吉は父であり、師匠である。
しかしこの場合は、佐那子が上手だった。
◆
この日――、千葉家に帰宅した佐那子を、兄・重太郎が待っていた。
聞けば、新しい門弟が入ったという。
「お前、立ち合ってみないか?」
そらきた――と、佐那子は思った。
重太郎も、佐那子に花嫁修業をさせたいらしい。確かにあの父にお前も兄として、妹をなんとかしろと言われれば仕方ないかも知れないが。
「兄上」
「なぁに、立ち会うだけだよ」
警戒する佐那子に、重太郎はそう笑った。
稽古場へ行くと、門弟が
兄に
「うちの門弟は、こんな状態なのだ」
重太郎は苦笑している。
よほど実力がある、入門者がきたようだ。
すると「彼だよ」と、重太郎が顎をしゃくった。
「あの御仁は――」
佐那子の視界に入った、一人の男。
黒羽二重の紋服に馬乗り袴、癖のある頭髪に、黒子が散る面。
佐那子が旗本・亀井左馬之助に絡まれていたときに、間に入ってきた男である。
確か土佐からきた、坂本龍馬と名乗っていた。
ここに来るだろうとは思っていたが、なるほど門弟たちを倒したのは彼だったか。
佐那子は、冷静に龍馬を観察した。
「坂本どの、この妹と立ち合ってもらえぬか?」
重太郎の呼びかけに、龍馬が驚く。
「……おまんは、あん時の――」
佐那子は竹刀を取ると、龍馬に対して構えた。
「改めまして、千葉定吉が娘、千葉佐那子と申します。坂本さま、遠慮なくどうぞ」
「始め!」
重太郎の開始の合図で、龍馬が床を蹴った。
◆◆◆
稽古場に床板を踏み鳴らす音と、竹刀がかち合う音が響く。
龍馬は必死で相手の竹刀を受け止めた。
それが精一杯なのである。
――こりゃあ、
龍馬の相手――千葉佐那子は、僅かな隙でも容赦なく打ち込んでくる。
右、左、斜め、上。
防戦一方の龍馬は、どうしたら打ち返せるか考えるが、思考に入ると佐那子の一撃がそれを阻む。
おそらくこれが、北辰一刀流なのだろう。
立ち合いは、三本勝負。
防戦一方の龍馬に、佐那子は容赦がない。
昔の龍馬なら、負けたまま終わっていただろう。
子供時代の龍馬は、弱虫で泣き虫の
父も兄も武士、武士の子がそれでどうすると、家族はため息をついては呆れた。
ただ一人、龍馬を叱り飛ばし扱いたのが、三人いる姉の一人・乙女だ。
「立て、龍馬! かかって来んね!?」
幼い龍馬を前に、姉・乙女は声を張る。
「姉やん……、わしには無理じゃ……、敵わんがよ……」
龍馬は震えながら、姉を見上げた。
こうなると、姉も怖く感じた。
逃げようとすれば捕まり、何度転んでも乙女は立てという。
泣いても許してはくれず、体は痣だらけになった。
龍馬は、何に対しても臆病で泳ぎもできなかった。
同じ下士の子は岩から軽く川に飛び込めたし、相撲も強かった。
そんな相手に、勝てるわけがないのだ。
龍馬は、本気でそう思っていた。
だが姉・乙女は――、
「やってみんとわからんじゃろ。
乙女は小袖にたすき掛けまでして、龍馬を扱いた。
顔が泥だけになっても、弟を強くするためには日が暮れようが構わなかった。
この土佐で下士は、上士に対して一生、地に頭を擦り付けて生きていく。
それが下士に生まれた者の運命と知りつつも、強くなれば道は開けると乙女は言う。
出世できないまでも、強くなればもう下を向いて歩かなくても良くなる。
間違ったことをしなければ、きっと誰かが認めてくれる。
乙女はそう、龍馬を諭す。
そして――、泣きべそをかいていた少年は強くなった。
勝負は、一刻に及んだ。
「勝負あり! それまでっ」
佐那子の竹刀が龍馬の竹刀を叩き落とし、勝敗はついた。
三本とも、龍馬の惨敗である。
だが負けはしたが、悔しくはなかった。
相手が、女性だからではない。
強い相手と本気の勝負をし、自身の腕をもっと磨かねばと再認識したのである。
「さすがは千葉道場の娘ぜよ。わしのような田舎剣法では太刀打ちできんがよ」
「坂本さまの剣も、なかなかです」
「
龍馬の問いかけに、佐那子は驚いた表情になった。
「稽古をすれば強くなれるのでは……」
「
龍馬は思わず、佐那子の手を握った。
唖然とする千葉兄妹に、龍馬は手を慌てて離すと、頭をかいて笑った。
こうして龍馬は、北辰一刀流・桶町千葉道場での一歩を踏み出すのであった。
◆
土佐・坂本家に、龍馬からの文が来たのは、龍馬が江戸に旅立って一ヶ月経った頃であった。
夕刻――、窯の前で火起こしをしていた坂本乙女は、文の報せに心が踊った。
例え大きくなっても、彼女にとって龍馬は唯一の弟で、自分が鍛えた男なのだ。
乙女は土間の上がり框に腰を降ろし、文を広げた。
どうやら龍馬は、元気にやっているようだ。
あの泣き虫が――。
乙女は、ふっと笑う。
窯では米が炊け始め、蓋の隙間から泡が出ている。
そろそろ、御陵番をしている父と兄が帰ってくるだろう。
だが不思議なもので、龍馬一人いないだけで、家の中が広く寂しく見える。
――よくこれで、龍馬の頭を叩いちょったものじゃ。
手元には、使い込まれた火吹き竹がある。
逃げる龍馬を追いかけましたとき、乙女が手にしていたのがこの火吹き竹だ。
龍馬が成長してからは、本来の役目に戻った火吹き竹だが、乙女にとっては今でも食事の支度に欠かせぬ相棒である。
一年後――、龍馬はどんな男となって帰ってくるだろう。
楽しみな、乙女であった。
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