第9話 異国船の影

 この日の江戸の空は、快晴である。

 昨夜は滝のような雨が降っていたが、明け方には止んだようだ。

 龍馬はかわやで用足しを終えると、腰にぶら下げていた手ぬぐいで手を拭きつつ空を見上げた。

 六月――、掘割ほりわりの桜はすっかり葉桜に姿を変え、藩邸の植え込みも緑を増していた。

 

「いい、天気じゃ」

 千葉道場に入門して早一ヶ月――、もともとそれなりの腕があった龍馬は、千葉道場の稽古にも慣れ、千葉重太郎とは兄弟のような関係を築いていた。

 実は稽古の後、かつおを食べに行くことになっている。

 土佐ではそんなに珍しい魚ではないが、この江戸では、その時節に初物を食べると寿命が七十五日延びるというらしい。

 この江戸でちょうど鰹が旬を迎え、食べに行こうというのである。


「おんしも、鰹を食べに行きゆうか?」

 部屋に戻り、同部屋の黒沢を誘ってみるが――、

「この江戸に来てまで、どうしてわざわざ食べないといかん」

 にべもなく断られ、龍馬は「やれやれ」と頭を掻いた。

 どうもこの手の男は、扱いづらい。

 だが、この日の藩邸内は朝から騒がしかった。

 部屋に戻る途中、江戸詰の土佐藩士とすれ違ったが、龍馬に目もくれずに通り過ぎた。

 いつもなら、眉をしかめてくるのにである。

 おそらく、何かしらの騒動が起きたのだ。

 こうなると、何が起きたか気になる龍馬である。

 ただ一人、書に目を通している黒沢だけは別だが。

 

「おんし、こがなときに、よく読んじょられるのう?」

 人には静かにしろという男が、この騒ぎに動じることもなく書に目を落としている。

「わしらのような者には、関係ないことだ」

「そういうたち、わしらも藩の人間がやないがか?」

 黒沢は嘆息すると、説明した。

 

 彼が言うにはなんでも、琉球王国に異国船が来たらしい。

 琉球王国は現在、薩摩藩から一定の自治権を認められているが、その内政・外交が薩摩の国内法により制限を受ける付庸国ふようこくだという。

 そんな琉球王国に、米国メリケンという国の異国船が来たらしい。

 

「それが、どういて問題なんじゃ?」

 龍馬が両腕を組んで首を傾げると、黒沢が三度嘆息みたびたんそくした。

「お主なぁ……、よくその頭で江戸に来れたな?」

「悪かったの。わしゃ、おんしのように学問で来ちゅうてはおらんきに。ほんで、その異国船はどうなったがじゃ?」

「船に乗っていた異人たちが、琉球に上陸したそうだ」

 

 琉球王国もこの日の本同様、鎖国下にあったらしい。

 ただ薩摩の付庸国とあって、薩摩藩としては幕府に異国船来航を報告する義務があるという。それは薩摩に限らず、各藩は異国船を発見次第、幕府に報告することになっているらしい。

 

「つまり次は、こん国に来るっちゅうがか?」

「上は、そう思っているだろう」

「上っちゅうと、うちの土佐藩主とのさまかえ?」

「いや、幕府だろう。もういいか? 書に専念したい」

 黒沢はそういって、背を向けてしまった。

 

 ――けんど、妙じゃの?


 龍馬のなかに、新たな疑問が浮かぶ。

 藩邸内の藩士は顔を強張らせ、忙しなく動き回っている。

 土佐でも異国船が沖を航行していたという話はあったが、ここまで人が狼狽えてはいなかった。

 龍馬が藩邸を出ると、これがまた妙なことに、町人も似たような表情である。

 

「――浦賀だって?」

 町人二人が、掘割で立ち話をしている。

「ああ。江戸湾に難なく入ってきたそうだ。こりゃ、戦になるぜ」

 戦とは、穏やかではない。

 龍馬は思わず、声をかけた。

「浦賀っちゅうとこに、何があるが?」

 龍馬の問いかけに、町人の一人がいった。

「お侍さん、知らねぇンですかい? 浦賀に異国船がいるンでさぁ。町中、もうその噂よ」

 

 これには、龍馬も驚いた。

 鎖国下にあるこの日の本に、異国船が来航し、しかも江戸湾近くまできているという。

 やはり琉球王国にきたという異国船は、この日の本にまできたようだ。

 どうりで、藩邸内が騒がしかった筈である。

 しかし黒澤雄馬がいっていたとおり、土佐藩の人間といっても、下士の身ではなにができようか。それに、余計なことには首を突っ込むなという、父と兄の戒めもある。

 龍馬は剣術道具を担ぎ直すと、京橋桶町の千葉道場へ向かって歩き出した。


                 ◆◆◆


 浦賀は相模国さがみのくに・三浦半島の東部に位置し、江戸湾の湾口部、浦賀水道に面し、南南東から北北西へと深く海が切れ込み、浦賀港として利用されている場所である。

 江戸の入り口に位置することから、廻船問屋や干鰯問屋ほしかどんやが軒を連ねているが、鎖国下とあっても異国船は出没し、そこで幕府が江戸湾の警備の為にこの地に置いたのが、浦賀奉行所である。

 

その日、浦賀奉行・戸田氏栄とだうじよしは文机に向かっていた。

 まだ六月とはいえ、吹く海風は夏の様相を呈し、彼の背を汗が流れた。

 浦賀奉行に就いて七年、浦賀奉行の役務は江戸湾に入る船舶の監視・積み荷の検査・相模や浦賀の民政裁判だったが、文化年間になると、この日の本へ異国船が来航するようになり、浦賀奉行の職務に江戸湾の警備が加わることになった。

 異国船が来るといっても、向こうはこちらが交渉に乗る気がないとわかると引き上げているのだが。

 ところがだ。この日に出没した異国船は違った。

 オランダ語通史を伴わせて与力の一人を説得に行かせるも、追い返されてくるという始末だ。

 

「お奉行、米国メリケンは上様(将軍)に、親書を渡すことが目的とのこと」

 与力・香山栄左衛門かやま えいざえもんが、蒼白な顔で戸田氏栄を見上げてくる。

「ばかめ……。上様が、お会いになられるわけがなかろう」

 

 浦賀沖に現れた異国船は四隻、米国メリケンという国からきたという。

 黒塗りの大型船で、大砲を数門設置されているらしい。

 浦賀にも、異国船への威嚇のための砲台は設置されているが、奉行所だけの判断で戦端を開くわけにはいかない。

 幕府は隣国・清が、英国エゲレスという国と戦い、惨敗したという報せを聞いて以降、異国船には慎重である。

 

「ですが米国メリケンは、親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上する上に、兵を率いて上陸、上様に直接手渡しするとも申しておりまする」

 ここはなんとしても、異国船に帰ってもらわねばならない。

 とても戸田氏栄一人で、判断できるものではないからだ。

 今年の夏は、彼には長くなりそうである。

 


 浦賀沖に出没したという異国船は、現在も留まっているという。

 とっとと追い返したらいいものを――。

 龍馬は、膠着状態こうちゃくじょうたいを続ける幕府に呆れていた。

 

りょうさん、聞いているか?」

 京橋桶町・千葉道場――、稽古を終えた龍馬を部屋に呼んだ重太郎は、そう聞いてきた。

「浦賀沖にいちゅう、異国船のことかえ?」

「ああ。江戸湾まで侵入してきたそうだ」

 千葉重太郎は龍馬より十一歳も年上だったが、龍馬のことを「龍さん」と呼ぶ。

「上はなにをしちゅうが? 来られて困るなら追い返せばええじゃろ」

「俺に云われてもなぁ……」

 龍馬の言葉に、重太郎は苦笑した。

「それにしたち、そん異国船はどげな船かのう……」

 

 龍馬は早くも、未知の異国船に興味が湧く。

 この日の本には、商船以外の大型船はない。

 原因は寛永年間発布の、大船建造禁止令らしい。

 重太郎が買い求めてきたという瓦版を見て、龍馬はさらに驚いた。


「これは、鯨じゃ」


 黒い体といい、大きさといい、鯨とよく似ていた。

 龍馬は鯨をみたことはないが、土佐の室戸は捕鯨の地である。

 たまたま知り合った捕鯨漁師から聞いただけの鯨だが、鯨は海の中にいるものだ。海面に浮かんではいない。

「異国の鯨は、海の上も泳ぐのかのう?」

 龍馬の疑問に、重太郎が困惑した表情になる。

 追い払えばいいとは言ったが、一旦興味をもってしまうと確かめずにはいられなくなるのが、龍馬という男であった。

 

 

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