第10話 女難の相

 この日の本に鎖国政策が施行されたのは、寛永十六年の南蛮船入港禁止に始まるという。

 以後、日本人の異国渡航と、異国にいる日本人の帰国を禁止し、対外貿易を長崎でのオランダ商館と中国船との貿易だけに制限し、一切の港を異国に対して閉じたらしい。

 それでもやってくる異国船はいたそうで、そこで幕府が発布したのが異国船打払い令だという。

 

 しかし龍馬が十歳となった天保十三年、幕府は異国船打払い令を廃止し、遭難した船に限り補給を認めるという「薪水給与令しんすいきゅうよれい」を出したという。

 それでも本格的にやってくる異国船に対しては港の入港を断固として拒否し、鎖国は現在に至るまで二百年以上続いている。

 だがこの異国船来航は、龍馬にとって他人事ではなかった。

 土佐藩は、江戸にいる土佐藩士に対して品川の警備を命じたのである。これは遊学中の龍馬だろうと例外ではなかった。

 

(やれやれ……)

 龍馬は頭を掻きつつ、濡れ縁から空を見上げた。

 藩邸内は、これから一合戦しそうな物々しさである。

 兜甲冑に身を固めているもの、具足が間に合わないものは胴のみと、手には槍である。

 格好は勇ましかったが、はたして役に立つかどうか。


 京橋桶町の道場にしばしの暇乞いに、龍馬は藩邸を出た。

 品川警備はいつまでとは云われておらず、しかも寝泊まりとなる場所は品川の土佐藩邸だという。藩にすれば、剣術修行どころではないだろうということらしい。

 そんな龍馬を、一人の易者が呼び止める。

 

「そこのお侍」

「わしの、ことかえ?」

「気をつけなされ。難の相が出ておる」

 龍馬にとって、品川警備に駆り出されること自体、難なのだが。

「それも――、女難の相じゃ」

 易者はそう言った。

 そもそも龍馬は、占いというものは信じていないほうで、土佐にいるときも易に通じている男から「大成する相」と云われたことがある。

 しかも今度は、女難の相ときた。

 頭に姉・乙女が浮かんだが、彼女は土佐である。

 千葉道場に着いたのは、昼前の頃だった。

 


「品川か……」

 千葉重太郎は眉間にしわを刻み、唸った。

 隣にはいつものように男装の妹、佐那子が座っている。

「しばらく、品川にいることになっちゅうがよ。藩の命令じゃき、嫌とはいえんからの」

「坂本さま、あちらではくれぐれもご用心を」

 佐那子がそう、忠告してくる。

「大丈夫じゃ。異国船が向かって来ゆうがやったら、大砲の弾、撃ち込んじゃるきにの」

「そうではありませぬ」

 彼女がなにを言いたいのかわかりかねていると、重太郎が咳払いをした。

「と、とにかく、気をつけてな。龍さん」

 

 

 土佐藩中屋敷に戻る途中、龍馬を呼び止めた男がいた。

 その顔を見て、龍馬は驚いた。

「おまんは確か、あの時の巾着切きんちゃっきり」

 名は留吉、龍馬との出会いは江戸へ着く前の宿場でのことだ。

 龍馬は巾着を、この留吉にすられた。

 危うく取り返し押さえつけたが、番所に突き出すことはしなかった。

「旦那には、敵わねぇなぁ。もう足は洗ってやすよ」

 留吉は首の後ろを擦りながら、苦笑した。

「そりゃええことじゃの」

「旦那、品川に行くんで? なにね、ちぃと小耳にはさみましてね」

 

 留吉曰く、団子屋で土佐藩士と遭遇したらしい。

 と言っても小耳にはさむ程度だから、その距離はかなり近いはずだ。

 おそらく、留吉は昔の癖がでたのだろう。

 

「それがどうかしゆうか?」

「いやだねぇ、品川にはいい女がいるじゃありませんか? あっしのようなモンには、吉原はいけねぇが、岡場所にもいい女はいやすから」

 龍馬は、なるほどと思った。

 佐那子がなぜ、気をつけろと言った意味である。

 品川には岡場所という遊郭があるらしい。

 吉原が幕府公認の遊郭に対して、岡場所にいる遊女は非公認の私娼だという。

「わしは、遊びに行くんじゃないがよ」

「まる一日、その場所にいなさるわけじゃありますまい? なぁに、酒を飲むだけでさぁ。旦那」

 えらい男と知り合いになってしまったと、龍馬は悔いた。

 

                ◆◆◆


 品川宿は、東海道一番目の宿場である。

中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれているという。

 中でも品川宿は、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、他の江戸四宿と比べて旅籠屋の数や参勤交代の大名通過の数が多かったらしい。

 

 土佐藩下屋敷ともう一つの抱屋敷(土佐から送られて来る物資の荷揚げ地)は、その東海道を挟んで東西に建っていた。

 海に近いせいか潮の香りがしてくるが、警備は明日からということで、龍馬はふらっと藩邸の外に出た。

 するとそこには留吉がいた。

「おまん、しつこい男じゃのう」

 こうなると、どこまでもつきまとわれそうである。

 一杯だけ、酒を飲むだけということになった。

 

 そのくるわは、通りから奥まったところにあった。

 ついた早々留吉は、用足しをしたくなったという。

 一人にされた龍馬だが、なんとも居心地が悪い。

 隣の部屋には派手な夜具が用意され、行灯の色さえも艶めかしい。

 すると、障子が開いた。

  

「――明桜あけおと申します」

 艶やかな着物を纏った女が、三つ指をついた。

「ちくっと聞くが、わしの連れを知らんかのう? 厠に行ったっきり戻ってこんがじゃ」

「あの方なら帰りました」

「は……?」

 

 あの野郎――と思ったときは、既に遅しである。

 金はすられていなかったものの、留吉は龍馬を置き去りにして帰ってしまった。

「お武家さま、お酒はこのへんで終わりにして――」

 

 明桜がぴったりと龍馬に体を寄せて、龍馬から盃を取り上げた。

 明桜は美しかった。

 白塗りの肌はきめ細やかで、髪にも艶がある。

 白粉の匂いが鼻をくすぐったが、龍馬はこの道に関しては素人だった。

 

「ちょっと待ちぃや」

 焦る龍馬に、明桜はさらに迫る。

「ここは遊郭、男と女がすることといえばおわかりでしょう?」

「いや、いかん」

「女は、初めて?」

 明桜の手が、龍馬の顔を撫でる。

「初めてじゃが、これはいかんのじゃ」

 どうやら、易者の占いは当たったようだ。

「そういわず、お侍さまを一人前の男にして差し上げます」

 逃げる龍馬に、明桜も食い下がる。

「結構じゃ……! わしは、父上との約束があるがやき、破るわけにはいかんがじゃ」


龍馬が江戸に発つ際、父・八平は【修行中心得大意しゅぎょうちゅうこころえたいい】なるものを渡してきた。

 その一つに、こうある。


 ――色恋に迷うべからず。

 

「誰もみておりませんわ」

 明桜の手がとんでもないところに及んできたときは、龍馬の声は悲鳴に近かった。

「だめじゃと、いうちょろうが……!」

 結局――、龍馬は事に及ぶことはなかった。

 これ以降、龍馬は岡場所には足を踏み入れてはいない。

 明桜にせまられたとき、一瞬その気になりかけたが、いやはや女子おなごとは恐ろしいものだと、龍馬は思ったのだった。

 

逃げるように下屋敷に帰ってくると、同じ下士の男が龍馬に気づいた。

「坂本どの、どうかしゆうか? えろう、疲れちょった顔をしゆうが?」

「女じゃ……」

「こりゃ、羨ましいのう。ごがな時に、女とは、肝がすわっちょる」

 大声で笑う彼に、龍馬は「しっ」と指を立てる。

「上には、黙っちょてくれよ」

「わかっちゅう。して、どんな女なが?」

「どうでもええろう。わしゃ疲れたき、寝るがよ」

 まさか逃げ出してきたとは言えず、龍馬は部屋に入った。

 

                    ◆


翌日から、品川警備に就いた龍馬だが、品川沖を見つめつつ不謹慎にも欠伸をした。

 浦賀沖に現れた異国船対策のため、江戸湾警備にあたる川越藩などが出張っていたが、これといって異常はない。


 ――父上と兄やんはよく、晩までじっと立てちょったのう……。


 龍馬の父・八平と兄・権平は、土佐藩代々藩主の御陵番をしていた。

 陵墓の門に立ち、墓守をする務めらしい。

 龍馬は、このじっとしているのが苦手だった。

 土佐では四万十川の氾濫を避ける堤を築くため、その差配役をしたことはあるが、請け負った人夫は喧嘩ばかりで、じっとしている場合ではなかった。

 こうもすることがないと暇である。

 海を見るだけなら、土佐でも散々見てきた。

 

「なんじゃ。鯨はおらんが」

 品川沖には、それらしき影はない。

 鯨であれば海に潜ってしまったか、泳ぎ去ったかである。

「残念じゃのぅ。わしゃ、いっぺん鯨を見たかったがやき」

 皆が異国船に対して神経をとがらせいる中、龍馬は鯨に興味津々である。

 土佐藩中屋敷で同部屋の黒沢雄馬に「異国の鯨っちゅうがは、どんな《どがな》味じゃろぅ?」と聞くと、思いっきり嫌な顔をされた。

 季節は夏――、空は晴れていたが入道雲がもこもこと盛り上がっている。

 時化しけとなれば、いくら鯨でも品川まで来られないだろう。

 土佐のように、江戸湾にも黒潮が流れ込んでいれば別だが。

 聞けば異国船は、浦賀から動いていないらしい。

 鯨は海に潜ってしまうが、船は海の上だ。


「見てみたいのぅ……」


 龍馬は潮風に吹かれながら、そう思っていた。

 

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