第1話 乾退助の思惑

 幕府の長州藩再討伐が迫る中、全く別の動きをした藩がいた。

 といっても、動いたのは参政に就いていた男だったが。

 その藩の名は、土佐藩――。

 これに、江戸にいた乾退助いぬいたいすけは驚いた。

 

 土佐藩参政は以前まえは吉田東洋だったが、彼が亡くなり、参政に就いたのが乾の幼馴染みだったのである。

 あいつが参政とは――と、乾は彼の出世に苦笑したものである。

 乾は土佐藩上士にして馬廻格うままわりかく・三百石の生まれだが、乾が他の上士と違うのは偉ぶらず、相手が藩主だろうと平然と揶揄やゆすることだろう。

 乾は清廉潔白せいれんけっぱくで曲がったことを嫌い、正論を忌憚きたんなく話し、相手を論破するのが得意であった。口論から喧嘩となることもしばしばあり、藩から譴責処分けんせきしょぶんを受ける事が度々あったが、乾は全く懲りることがなかった。

 乾が江戸にいるのは、藩から洋式騎兵術修行を命ぜられ、幕臣・倉橋長門守らにオランダ式騎兵術を学ぶためである。

 さて、土佐藩参政の男だが、乾が驚いたのは、その男が訪ねてきたことだ。

  

「こがな時に、おまんが来るとはの……」

 乾は、やって来たその男を見据えた。

 土佐藩参政・後藤象二郎ごとうしょうじろう――、子供の頃は遊び仲間であったが、大人になると思想は別れた。乾が勤王攘夷だったのに対し、後藤は公武合体派だったからだ。

 

「我が藩もそろそろ、考えねばならんと思うちょる」

 後藤は渋面で、答える。

 ようやくか――と、乾は思った。

 幕府の現状は危うい。

 威信は失墜を辿り、今回の長州藩再討伐でさえ、朝廷の勅許をこちらから強引に得に行くという暴挙に出た。

 土佐藩の藩論は、公武合体である。

 だがその公武合体も、朝廷の存在が大きくなりつつある現状では、幕府が目指す威信回復がなるかどうか。

 

「土佐も、幕府と戦うかえ?」

「イノスっ!」

 乾の昔の呼び名をいう後藤に、乾は苦笑した。

 乾は幼名を猪之助といい、対し後藤の幼名は保弥太である。

 イノス、ヤスと呼ぶ合う親しい仲だったが。

 このとき乾の頭の中にあったのは、倒幕である。

 だが土佐藩主を代々輩出する山内家は、藩祖・一豊公からの徳川への想いが強い。

 関ヶ原の戦いで功を上げ、土佐一国の主となった山内家。

 そんな徳川に背を向けるなど、しはしないだろう。

 乾は嘆息した。

「できんじゃろうの……。あの容堂公が、そう簡単に首を縦に振るとは思わんちゃ」

「おまんは、かわらんの。悪戯小僧わりことしのまんまじゃ」

「おまんが、堅物すぎるんじゃ」


 少年時代の後藤は、蛇が苦手であった。

 これを知った乾は、紐で縛った青大将を棒の先にぶら下げて、後藤を驚かせた。

 逃げる後藤を追いかけるが、怒った後藤は道端に落ちていた犬の糞を躊躇なく手で掴むと、なんと乾の顔へ目掛けて投げつけてきた。

 後藤を怒らせると、とんでもない目に遭うことはあれでわかったが、果たして今はなにを考えているのやら。


「ほいたら、妙じゃの。なにをしにわしのとこに来たが?」

「おまん――、坂本龍馬を知っちょるか?」

 はて、何処かで聞いた名だなと、乾は視線を天井へ運ぶ。


 あれは確か文久三年一月十日、容堂に随行して上洛のため品川を出帆したときである。 悪天候により翌日、下田港に足止めとなった。その折に、容堂公を訪ねてきた勝海舟から、坂本龍馬の話が出た。

 乾は、その場に同席していたのだ。


「おまんまだ、勤王党の人間を弾圧しちゅうが?」

 乾は、そう聞いた。

 実は乾は、土佐勤王党とは少なからず親交があった。

 まさか子供の頃からの遊び仲間である後藤が、勤王党弾圧に乗り出していたとは、これも驚かされたのだが。

 坂本龍馬という男が土佐勤王党にいたかどうかはわからないが、後藤が人を探しているとなるとまだ勤王党の残党狩りでもしているのかと思ったのだ。

「いや、そうではない」

 後藤は軽く嘆息した。

「勝安房どのなら、奴の居場所、知っちょるじゃろ」

「神戸海軍操練所に、いたとまでは掴んじょる」

 

 後藤いわく、土佐藩も諸藩に習い、海の備えをしておきたいという。

 勝安房は乾が会ったとき、確か軍艦奉行並であった。

 弟子にしたと彼が言っていたことから、おそらく神戸海軍操練所でそれなりの技術を得ているのだろう。

「以前は下士を侮っていた土佐藩が、変わるもんじゃ」

 乾の遠慮ない皮肉に、彼は渋面になった。

 こういうところは、昔から変わっていない後藤であった。


 懐かしき友との邂逅かいこうを経て、乾は屋敷の廊下で空を見上げた。

 世の中は、刻々と動いている。

 このとき、乾の中でひとりの男の名が浮かぶ。

 元土佐勤王党で乾に最も接してきた男に、中岡慎太郎がいる。

 彼もまた、倒幕を考えていた。

 


「長州藩が倒幕に傾いた現今、わしらも肚を決めんとの」

 最初の長州征伐を受けて、長州藩が倒幕に傾いたかも知れぬと中岡から聞いた乾は、そう返した。

「ほんぢゃけんど、わしらだけでは勤王党の二の舞いになるがよ」

「ふん。公武合体などもはや形だけじゃろうに」

 土佐藩主は山内豊範やまうちとよのりだったが、実権は前藩主の山内容堂にあった。

 この山内容堂が、公武合体派なのである。

 しかも土佐勤王党を弾圧したのも、彼だ。

「以前――、西郷吉之助のことを文に書いたが、覚えちょるか?」

「薩摩藩の?」

 以前乾は、中岡から西郷吉之助という男を文にて紹介されていた。

「もし薩摩が倒幕に傾けば、どうなるかの」

 中岡はそういって、ふっと笑う。

「中岡、薩摩も公武合体派じゃぞ」

 薩摩藩国父・島津久光は、公武合体派推進者だという。

 だが妙に自信たっぷりな中岡は、

「ほんぢゃき、西郷吉之助なんじゃ」

とニヤリと笑う。

 

 このとき乾は、中岡がなにを言いたかったのかわからなかった。

 公武合体派なのは、土佐藩も薩摩藩も同じである。

 その藩論を倒幕へ覆すには、土佐藩前藩主・山内容堂と、薩摩藩国父・島津久光の考えを切り替えさせねばならない。

 果たして西郷吉之助に、薩摩藩の藩論を変える力があるのだろうか。

 この中岡との会合からひと月後――、長州藩と薩摩藩が手を結んだという。

 乾はてっきり、薩摩も倒幕に動いたかと思ったが違うらしい。

  

 ――薩摩の、西郷吉之助……か。


 顔も知らぬ相手だが、今になり、心惹かれるものがある。

 だがこのときの乾は、倒幕の意思はあれど、江戸から離れる意思まではなかった。


               ◆◆◆


 慶応二年六月――。

 兵庫開港問題が落ち着き、幕府は再び長州征伐に取りかった。

 長州処分の幕命を伝えるため、老中・小笠原長行が広島に向かったのは二月のことである。広島藩を通じて、長州藩家老と支藩藩主らに召喚命令を出したそうだが、病として拒絶されたという。

 さらに彼は長州藩藩主・毛利敬親父子、家老、支藩藩主らが出頭するように命令を出したそうたが、これも長州藩側は命令に従わなかったらしい。

口で言ってわからぬのなら――。

 大阪には将軍・家茂がいたが、このところ体調が優れないとみえて、二人いる老中は京にて禁裏御守衛総督に就いていた、一橋慶喜に判断を仰ぎに来るのだ。

 だが、またも藩が絡んできた。


「――薩摩が出兵を拒否した……?」

 老中・板倉勝静いわく、薩摩藩の大久保一蔵という男が、薩摩藩は出兵を拒否するという建白書を提出してきたというのだ。

 板倉は、勅命により長州征討を起こした幕府の正当性を主張し建白書を拒絶したそうだが、幕府がこれまで勅命を無視してきた事実を列挙した大久保と論戦となったという。

 

 以前から、薩摩の存在は気になっていた慶喜である。

 西国の外様が幕政にも口を挟み、朝廷をも動かす力を持つ薩摩藩。

 前回の長州討伐でも、薩摩藩は異なる動きを見せた。

 厄介な存在となると思っていたが、これは島津久光の意思か否か。

 

「一橋さま……」

「上様は、なんと仰せか?」

「すでに勅許も下りたゆえ、進軍はやむなし――と」

「左様か」

 慶喜は薩摩藩の存在を気にしつつ、瞑目した。 

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