第18話 高鳴る鼓動! 夫婦で巡る霧島温泉郷 【前編】

――鹿児島がごんまで、静養したらよか。


 伏見・薩摩藩邸にその身を匿われていた龍馬に、西郷吉之助はそういった。

 京にいるよりは、薩摩藩のお膝元・薩摩領内にいるのが安全だというのである。

 聞けば鹿児島は、いろいろな温泉があるという。


「特に塩浸温泉しおびたおんせんの湯は、傷によく効くと聞きもうす」


 西郷の言葉に、龍馬は決断した。

 現在の龍馬は歩けるまでに回復したが、左手は分厚く包帯が巻かれ、右手一本だけでは刀は使えない。もし襲われれば、今度こそあの世である。

 龍馬は、おりょうも鹿児島に連れて行くことにした。

 彼女にとっても、この京は危険であった。

 おりょうが坂本龍馬の妻だと奉行所などの人間が知れば、捕らわれ、厳しく詮議されるだろう。といって龍馬が全快したあとも連れ回すわけにも行かない。

 おりょうにとって安全な場所を、確保しておかねばならない。


「え……」

 龍馬が部屋におりょうを呼ぶと、彼女は瞠目した。

「――西郷さんがの、鹿児島に傷によく効くっちゅう、温泉があるそうじゃ」

「……そこに、うちも、どすか……?」

「そうじゃ」

 おりょうは、戸惑っていた。

 無理もない。彼女は、この京を出たことがないのだ。

「海を見てみたいと、いっちょっていたろう?」

「覚えていてくれはったん?」

「おまんには、苦労させちょってばかりやき」

「そないなこと、あらしまへん」

 おりょうはそういって頬を赤く染め、下を向く。

 龍馬のおりょうへの言葉は、本心からだ。

 所帯しょたいをもったとはいえ、一緒に過ごしたときは少なく、おりょうを寺田屋に置いたまま、龍馬は夢を追うのが必死だった。

 本来なら愛想を尽かされても、文句は言えぬ。

 怪我の功名とはよく言ったもので、龍馬の怪我がおりょうと過ごすときを作った。

 

 

 かくして龍馬とお龍は、薩摩藩士たちに護衛されつつ京を脱出、大阪に向かった。

 大阪港から薩摩藩軍艦・三邦丸みにくまるに乗船し、下関を回って鹿児島に向かうことになった。

 下関を回るのは、長州へ向かうという中岡慎太郎と三吉慎蔵が下船するためだ。

 

 初春の大海原――、空は晴れ、雲がゆっくりと流れている。

 この日の海は、青い畳を敷いたように凪いでいた。

 船は下関から長崎、鹿児島・浜之市港はまのいちこうへ。

 そこからは、霧島という地になるという。

 龍馬とお龍は、まずは日当山温泉ひなたやまおんせんに向かうことになった。

 日当山温泉は古くから鹿児島の奥座敷として栄えた温泉らしく、その歴史は神代にまで遡るという。伝説によると、イザナギとイザナミの二神が足の立たない蛭子命ヒルコノミコトをこの地に送り療養させたといわれ、温泉街の南西部にこのヒルコ伝説にちなむ、蛭児神社ひるこじんじゃがあるのだとか。

 そんな日当山温泉を目前にして、お龍が「あ……」と声をあげた。

 龍馬が彼女の視線を追えば、錦江湾きんこうわんの島影に注がれていた。

 桜島である。

 

「どうじゃ。大きいじゃろ。あれが薩摩が誇る桜島じゃ」

「煙を吐いてはりますえ?」

「そういう山じゃき」

 龍馬も、桜島を初めてみた時は、お龍と同じことを思ったのだから人のことは笑えない。

このとき龍馬は、長崎にて長靴ブーツ回転式拳銃リボルバーをグラバーから購入していた。

 長靴と回転式拳銃は高杉晋作から貰ったものだったが、長靴のほうは誰かのお古だったため、足先に穴が開いてしまい、回転式拳銃のほうは寺田屋遭難のどさくさで紛失してしまった。

 妻と湯治に向かう途中だというと、グラバーは「新婚旅行ですか? Mr.坂本」と歓喜した。なんでも異国では、祝言を挙げた夫婦が旅に出る慣習があるという。

 この日の本にそんな慣習はなかったが、どうやらお龍との旅はその新婚旅行というものになるらしい。

 さすがにこのことは、お龍がさらに戸惑ってしまう可能性があるため本人には言わなかったが、龍馬にしても女人と二人だけで旅をするのは初めての経験である。

 このとき龍馬は、改めてお龍という妻を得たのだと実感したのだった。

 

               ◆◆◆


 長崎・亀山――。

 長崎亀山社中の面々は、これからどうすべきか思案にくれていた。

 京・伏見にて、龍馬が襲撃されたという報が届き、その後の報せがまったくなかったからだ。

「あの龍馬さんに限って、まさかということはないっちゃ」

 池内蔵太は、渋面の仲間にそういった。

「君はいいなぁ。そんな単細胞で」

 陸奥宗光は相変わらずの毒舌で、さすがの内蔵太もキレた。

「陸奥、いつかは言おうと思っちょっていたが……」

 二人が衝突しかけたとき、龍馬が帰ってきたと千屋寅之助が駆け込んできた。

 だが――。

 

 龍馬が京で負ったという傷はまだ完治しておらず、社中復帰にはしばらくかかるらしく、これから湯治のために、鹿児島に向かうらしい。

 束の間の再会ではあったが、とりあえず龍馬の状態は確認できた社中の面々である。

 そんな亀山社中には、グラバー商会を通じて新たな船が届いていた。

 以前に薩摩藩名義で購入したユニオン号は、長州側の船となってしまったが、新しい船は社中の船となるらしい。

 その名を、ワイル・ウルフ号――。

 

「早う、動かしてみたいのう……」

 亀山社中に新規加入したての池内蔵太は、ワイル・ウルフ号を仰ぎつつ胸を弾ませた。

 ワイル・ウルフ号はプロイセンという国で造られた、木造小型帆船だという。

 ユニオン号のような蒸気船ではなかったが、自分たちの船となると、心は逸る。

 そんな内蔵太に、新宮馬之助が呆れる。

「おまんは、航海術を学んじょらんじゃろ」

 池内蔵太は土佐を脱藩後、長州にいた。

 馬関海峡での四国艦隊との海戦、蛤御門の変と、彼は長州藩士とともに戦っており、海軍塾生ではなかった。

「んじゃ、ちくっと教えとぉせ」

 この内蔵太の言葉に、新宮馬之助がさらに呆れた。

「あほ。ちくっばぁで、覚えられるもんじゃないがよ」

「ほんぢゃけんど……」

 内蔵太は、再びワイル・ウルフ号を見上げる。

 彼の心は、もう海の上にいた。

 これまで自分は、何度も危ない目に遭ってきていている。

 きっと、船の操船もやり遂げて見せる。

 内蔵太は、ワイル・ウルフ号の操船許可を、龍馬に頼む決意をしていた。

 

               ◆


 ――花は霧島 煙草は国分こくぶ 燃えて上がるは オハラハー 桜島。


 薩摩に伝わる、鹿児島おはら節の一節である。

 西郷吉之助と酒を飲むと、彼がよく唄ったのがこのおはら節だった。

何でも国分という地は、葉煙草の栽培が盛んらしい。

 煙草と言うと、龍馬の脳裏に蘇るのは、師・勝海舟である。

 彼の愛用の煙管は、吸い口に草花などの彫刻や鍍金装飾ときんそうしょくされた羅宇煙管めもうきせるで、煙をくゆらせながら国を論ずる姿は、今も鮮明に龍馬の脳裏に蘇る。


 ――勝センセ、どうしちょるんじゃろうの……。


 神戸で別れて以来――、龍馬は勝海舟のその後を知る術はなかった。

 塩浸温泉の湯に浸かりながら、龍馬はほっと息を吐く。

 この日の本を立て直したいと気は急くが、いかんせん傷のほうが完治しない。

 

「♪花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは オハラハー 桜島」

 龍馬は再度、口ずさむ。

 幸い湯場は龍馬だけで、唄ったところで咎めてくるものはいなかった。

 塩浸温泉は別名、鶴の湯とも呼ばれるという。

 この温泉で、鶴が傷を癒やしていたことから鶴の湯と呼ばれるようになったらしい。

 部屋に行くと、お龍が龍馬の羽織を手にしていた。

 

「なにしちゅうが?」

「この前、つくろうと思ってはったんどすけど、途中でやめてしまいましてな」

 だから繕うだと、お龍はいう。

 彼女は彼女なりに、妻として裁縫も頑張っているようだ。

 ある程度縫っては針を髪で擦り、曲がってしまったといっては糸を解き、そのなかなか進まぬ針仕事から、龍馬は目をそらした。

 縫い終わった後、袖と身頃が繋がっていないか祈るだけである。

 今は世情から離れ、この刻を楽しもう。

 龍馬は、そう思った。

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