第17話 朱文字の証明
慶応二年二月三日――、京・伏見。
昨夜から振り始めた雪が、庭の植え込みや石灯籠にこんもりと積もり、雲間から覗いた日差しがその雪を輝かせている。
伏見・薩摩藩邸の一室にて、左片手を首から
思えば神戸海軍操練所建造前から他国を巡ってばかりで、一箇所に長く留まることはなかった。その海軍操練所が廃止となっても、今度は鹿児島と長崎である。
こんなに長くじっとしているのは、いつ以来だろうか。
傷のほうはかなり深く、刀を抜けるようになるのは、まだかかるらしい。
「龍馬はん、体に触りますさかい、もう閉めますえ?」
側にいたお
「お
「病人も怪我人も同じや。またなにかあったら――」
「おまんには、感謝しちょる。あん時におまんが報せちょうてくれんかったら、わしらはあの世やき」
寺田屋にて伏見奉行所捕り方に踏み込まれたとき、いち早く危機を報せてくれたのは、
「うちは、当然のことをしただけどす」
「ほんぢゃけんど、あの格好はあれでしまいにしとぉせ。いくら見慣れちょるわしでも、焦るがよ」
「うち――、そないに裸になっておへんえ?」
首を傾げたお
「あ――……」
口は災いの元とは、まさにこのことである。
土佐にいる頃、龍馬は姉・乙女とよく取っ組み合いとなった。
その頃には龍馬は逞しく成長しており、乙女が転ばされることもしばしばで、着物の前裾が大きく開いた。
見るつもりはなかったが、なにしろあの姉である。
悲鳴をあげて恥ずがしがれば、まだ可愛げがあったが、その後げんこつで頭を叩かれた。
「龍馬はん……」
お
「ゆ、夢じゃ……、ははは……」
ごまかしたつもりが、お
やれやれ――。
龍馬は苦笑して、嘆息する。
一時は、三途の川を渡りかけた。
友を失い、その後悔の念が、幻の世界を作り上げた。
己のなすべきを思い出さなければ、龍馬は永遠にその世界の住人となっていたことだろう。
そんな龍馬の耳に、廊下を渡ってくる足音が聞こえてくる。
本人は意識してはいないのだろうが、かなり荒っぽい足音だ。
おかげで、誰が来たかわかったが。
――西郷さんじゃな……。
龍馬は苦笑した。
ほどなく西郷がやってきて、開口一番こう言った。
「坂本さぁ、長州の桂どのが、薩摩を疑いっちょいもす」
◆◆◆
薩長同盟というと、薩長が力合わせ、幕府を倒す約束と思われがちだが、実はそうではない。
先ず幕府と長州との戦いが起きた場合、薩摩藩は京都・大坂に兵を送り守護に回ることとし、長州藩に勝機があれば、薩摩藩は朝廷に働きかけて長州藩の冤罪を晴らすようにし、
長州藩の敗色が濃厚な場合も同様に、薩摩藩は朝廷を工作するとある。
ある意味――、長州寄りの同盟であった。
だがこれでなければ、薩摩を憎む頑な長州は同盟に応じなかったであろう。
倒幕の約束と思われるのは、一橋慶喜、京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬が、これまでの政治姿勢を改めない場合の彼らとの決戦ととの決戦の覚悟と、長州藩の朝敵の汚名が晴れた際の、朝廷のもとで諸大名が国政に参画できる新体制への移行を匂わせている点だろう。
しかしこの時点で薩摩藩の藩論は、まだ公武合体派である。
幕府の行き詰まりを感じていても、西郷吉之助だけでは藩は倒幕に動かない。
「――オイは、そげん使用なかか?」
西郷吉之助は太い眉をぐっと寄せ、渋面になった。
「わしは西郷さんを信用しちゅう」
「そんた、あいがとごわす。じゃっどん、あの桂どのにこうも疑われては……。薩摩隼人はこうと決めたこつは曲げもはん」
西郷がへそを曲げているわけはこの前日に、三吉慎蔵に届いた桂小五郎からの文らしい。
桂は、龍馬の身に起きたことを知らない。
彼に報せたのは、三吉だろう。
その文には、薩長同盟の盟約書も入っていたらしい。
桂いわく、同盟が間違いないことを、龍馬に証明してほしいという。
そもそも、同盟締結の折に書面にしてほしいと言ったのも桂であった。
あの場には桂と西郷、龍馬と中岡慎太郎など数名がいたにも関わらず、あとあとになり、桂は不安になったらしい。
「西郷さん、長州は今が瀬戸際やき、確かなものがほしいんじゃ」
「坂本さぁは、幕府のこつ、どう思ってごわす。瀬戸際なのは、幕府も同じじゃ。こん再討伐で、幕府の威信を回復しようという妊が見えもうそ」
「西郷さん、もう幕府にそげん力はないじゃろ。ほうやき、幕府は幕を引くがいいと思っちゅう。これ以上――、傷が深くなる前に、の」
現在の幕府に、存在が大きくなり始めた朝廷と有力大名、西洋列強を抑える力はない。
長州藩が倒幕に傾いた今、呼応する諸藩がいずれ出てくるだろう。
だが龍馬は、戦は望まぬ。
今回の長州再討伐は武力衝突は避けられそうもないが、これ以上の戦は回避したいというのが、龍馬の本音である。
龍馬が西郷から視線を流すと、障子の陰にお龍がいるのが見えた。
「お
彼女は、まだ怒っていた。
龍馬が呼びかけにお龍は、ぷいっと横を向く。
「さっきのことは謝るきに、筆と
はたして許してくれたのかわからないが、お龍は来た廊下を戻っていく。
「夫婦喧嘩――、でごわすか?」
「いや……、ちくっと誤解があっちょっただけやき……」
「オイにも妻がおっどん、まことに人の心は難しかこつごわす」
西郷はため息交じりに、そう苦笑した。
◆
桂が同盟に不安になるのは、龍馬はわからぬわけではない。
口約束では、将来状況が変われば、その実行が保証されないと思ったのだろう。ゆえに盟約書の作成を、彼は希望した。
それでも不安は消えなかったようで、盟約書を送り返してきた。
はたして一介の土佐脱藩浪士の龍馬が証明して何になるかと龍馬は思ったが、せっかく実現した同盟である。
龍馬は妻・お龍に支えられ、裏返しにした盟約書に朱墨でこう書いた。
――西郷吉之助、桂小五郎、坂本龍馬らが同席し、意見を述べ合ったものは間違いはない。今後も変わらないことは、神仏も御存じの所である。
実はこの同盟に関わった龍馬と同郷の志士は中岡慎太郎の他に、もうひとりいる。
彼いわく、長州に戻り、幕軍と戦うという。
さて――、龍馬が裏書きした同盟の盟約書だが、桂のもとに届けることになったのは、薩摩藩士の村田新八という男だった。
「――坂本さぁ、オイも向こうを疑うわけじゃなかが――」
西郷が危惧したのは、蛤御門の変での村田新八の行動である。
蛤御門で薩摩・会津と衝突した長州藩兵の一部は、天竜寺に敗走したという。
これを追討すべく薩摩藩兵を率いていたのが、この村田新八だったらしい。
長州藩兵はいち早く天龍寺から退去し、両軍が衝突することはなかったそうだが、かつての仇敵を前に、長州の心はどう変化するかわからないと、西郷はいうのだ。
「西郷さん、こん同盟には長州の命運がかかっちゅう。桂さんを、信じとぉせ」
龍馬の言葉に、西郷はそれ以上は疑ってこなかったが、ふと話題を変えた。
お龍とともに、鹿児島に来ないかというのだ。
「この京は危険じゃ。
西郷は、龍馬に鹿児島で静養してはどうかと、提案してきたのだった。
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