第16話 邯鄲の夢(かんたんのゆめ)
そこは、まったくの闇であった。
足元すら見えぬその場所で、龍馬は進むべきか思案した。
ここが何処なのか、いま
うっかり足を進めて、奈落の底という危険もある。
だが、帰らねばならぬ。
みんなが待つ、所へ――。
龍馬は決心して、足を踏み出す。
幸い落下することはなく、さらに歩を進める。
帰ったら、みんなと酒を飲もう。
なのに体は鉛のように重く、歩を鈍らせる。
早く――、帰らなければならないのに……。
◆
「ありゃ……?」
龍馬は布団の中で、
最初に目に入ったのは、
ぽりぽりと頭を掻いていると、障子が勢いよく開いた。
「龍馬! まったくおまんという奴は、いつまで寝ちゅうが!?」
両手を腰に当て、姉・乙女が怒ってくる。
「乙女姉やん、どういてここにいるが?」
龍馬の言葉に乙女は、ポカっと彼の頭を叩く。
「アホ。自分の家がやき、当たり前じゃろ」
龍馬は頭を擦りながら、再び視線を天井に運ぶ。
やはりここは間違いなく、土佐の坂本家であった。
「変じゃのう……」
「おまん、またおかしな夢を見ちゅうが?」
夢――、漆黒の闇の中、自分は何処へ向かおうとしていたのか。
廊下に出ると、朝日が眩しい。
鶏が地を啄み、魚の焼ける匂いが
部屋を出て囲炉裏に向かうと、父の八平、兄の権平、三人の姉、千鶴・栄・乙女が座っていた。
朝餉の膳には菜っ葉の味噌汁にたくわん、今朝は珍しく、焼き魚が膳に載った。
「――龍馬。おまん、道場で上士の頭を打ったそうじゃの?」
兄・権平が渋面で、嘆息した。
龍馬が通う高知城下・築屋敷――、日野根道場。
そこには、上士の子弟も出入りしていた。
なるべくなら上士と当たりたくなかったが、運悪く手合わせとなった。
問題は龍馬の振り下ろした木刀が、この男の頭に当たったことだ。
防具をしているにも関わらず、相手は痛いと叫びまくった。
大袈裟じゃのう――と龍馬は思ったが、上士のすることはあいも変わらず、下士の癖に無礼と父・八平と兄・権平に文句を言ってきたらしい。
こうなるから龍馬は上士と立ち合いたくなかったのだが、二人が
「喧嘩じゃないきに」
「そがなことはいっちょらん。剣術の稽古とはいえ、相手は上士じゃぞ。幸い大事にはならんかったが、分をわきまえよ」
「龍馬、権平の言う通りじゃ。わしら下士は、上士に逆らっちょってはいかん」
父も兄も、上士には逆らうなという。
徳川の世となってから二百余年――、この土佐に根付く上士と下士の身分差。
下士は上士に比べ、足袋も穿けぬ。
真冬でも素足に藁草履で、路で上士と会えば土下座をするのが下士の習い。
罵られようと黙って耐え、逆らうものなら無礼討ちされる。
一般的に仇討ちがあるが、下士にはそれは許されぬ。
上士に家族が殺されようと、なにも言えぬのである。
そんな理不尽な土佐の武家社会で、坂本家は生きていた。
外に出ると、龍馬は陽の光が眩しい。
――平和じゃのう……。
上士と下士の差別はあるものの、土佐は平和だった。
どこまでも続くでこぼこ道も、白い煙を棚引かせる茅葺きの民家も、生まれ育った故郷はいつもと変わりはない。
鏡川の土手では、饅頭屋長次郎が書を読み耽っている。
どうやら今日の饅頭は完売したらしい。
「長次郎――」
「武市さんのところに行くが?」
龍馬の呼びかけに、長次郎は顔を上げることはない。
「おまんも来るかえ?」
「わしは、ええ。行くところがあるがやき……」
「そうかえ」
武市道場に向かうには、鏡川に架かった橋を渡らねばならないのだが、
「龍馬さんは――、帰らんといかん」
橋を渡そうとした龍馬を、長次郎がそう止めた。
「橋を渡らんと、武市さんたちに会えんがよ……?」
「こん橋を渡っちょったら、こん国は
「恐ろしいことをいうのう……」
「嘘は言っちょらん。ほうやき、龍馬さんは帰らんといかん。本当の世界に――」
それは、霧が晴れるがごとく、龍馬の記憶を呼び起こした。
目の前にいる長次郎はもちろん、武市半平太や岡田以蔵、平井収二郎に望月亀弥太、そして北添佶磨は黄泉の国へ渡っていたことを。
「長次郎、わしは――……」
「元の世界に帰っても、誰も龍馬さんのことを責めちょらんよ」
長次郎が
◆◆◆
土佐・桂浜――、暮れゆく夕日が海を朱に染めていた。
まだ異国船騒ぎが起こる以前の日の本――、龍馬は過ぎし日々の中にいた。
これが現実世界ではなく、夢の中とは――。
危うく三途の川まで渡りかけたが、長次郎が助けてくれた。
彼の早すぎる死を、止められなかったというに――。
土佐の多くの友を救えなかった後悔が、この世界を生んだだとしたら、踏ん切りはつけねばなるまい。
世の中すべての人や物事には、繁栄と衰退があり、儚いという。
人の一生にも、時代にも、始まりがあれば終わりが来る。
このままでいたいというのは、エゴというものなのだろう。
「――龍馬」
背後から駆けられる
「乙女姉やん……」
「なかなか帰んてこんからなにしちゅうと思えば、道草か?」
そこには、いつも変わらぬ姉・乙女がいる。
夢の中とはいえ、目覚めてしまえばいつ逢えるかわからぬ。
「乙女姉やん、わしは帰らんといかんがよ」
龍馬の言葉を、乙女は黙って聞いていた。
「皆が心配しちゅうき、わしは帰らんといかんがじゃ。ここにいちょったら、わしはまた後ろを見ちゅう」
この世界は、懐かしい友がいる。
しかし龍馬が見たその友は、もうこの世の人ではなかった。
まだ何も起こらぬ前の土佐――、このまま留まれば厳しい現実と向き合わなくてもすむ。
だが、それは許されない。
こうしている間にも、この日の本は崩壊へ向かいつつある。
そう、長次郎がいったとおり、この国は壊れてしまうのだ。
そんな龍馬に、乙女が口を開く。
「龍馬、おまんは龍になる男やき、飛んでいこうっちゅうおまんを、うちは止められん」
「乙女姉やん……」
「けんど……」
乙女は言葉を区切ると、最後にこういった。
「途中で諦めて帰って来ちょったら、承知せんぞ」
「おおきに。乙女姉やん……」
懐かしき土佐の景色は消え、龍馬は再び闇の中に放り出された。
だが、今度こそはその一歩は躊躇わぬ。
この先――、辛く厳しい現実が待っているかも知れぬ。
しかし、たとえ儚い世であったとしても、悔いなく生きよう。
胸を張って、土佐に戻るその日まで。
◆
土塀に積もった雪が、どさりと落ちた。
はっとして顔を上げたお
薩摩藩伏見藩邸――、本来なら
膝の上には、龍馬の羽織がある。
黒羽二重の生地に、組み合い角に桔梗という坂本家の紋を五つ配してある。
綻んでいた箇所があったため繕うと思ったのだが、お
しかし、なにかせずにはいられなかった。
龍馬が負った手の傷は、直ぐに処置しなかったためか膿んでしまった。
龍馬は高熱を発症し、意識不明となった。
以前――、お
――うちは看病できますさかい、ええのどすけど。
それは龍馬が風邪を引いたときの言葉だったが、側にずっといたいという本心からである。願ってはいけないと想いながら、思わず口に出た。
お
――頼むさかい、龍馬はんを助けておくれやす。
お
「お
床板を騒がしく踏み鳴らし、西郷吉之助がやってきた。
「……西郷さま?」
「坂本さぁが、目を覚ましもうした」
お
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