第15話 それぞれの葛藤
薩長同盟締結から七日後の慶応二年一月二十七日――京・伏見薩摩藩邸。
この日も朝から冷え込み、小雪が舞った。
西郷吉之助は巨体をどんと畳に置き、両腕を組んだ。
彼の前には伏見奉行所与力・津田養蔵が、険しい顔で座っていた。
なんの先触れもなく、突然やってくる辺りは彼ららしいが、西郷にしてみれば、彼らの訪問は予知していた。
半分怒りを滲ませて、西郷は口を開いた。
「伏見奉行所のもんが、この薩摩藩邸になんのようでごわんど」
「――土佐の坂本龍馬をこちらに引き渡していただきたい」
やはりな、と西郷は思った。
この四日前――。
「――坂本さぁが、襲われた!?」
刻限は夜の四つ半――、伏見薩摩藩邸にて、すでに
「伏見奉行の連中が、寺田屋に踏みごたってごわす」
「直ぐに兵を集めやんせ。坂本さぁを、助けにいっど」
聞けば二本松藩邸にも、報せは行っているらしい。
しかしこの西郷の行動を、一部の藩士が止めにきた。
「
「文句を言いたかれば言わせておけばよか。坂本さぁに万一のこつあれば、
彼から龍馬たちを預かってほしいと頼まれた西郷は、その約束を守った。
薩摩藩家老・小松帯刀も、彼らの知識を薩摩の海防に活かしたいと望んでいる。
だが西郷はそれ以上に、龍馬を重んじた。
彼もまた、
西郷は藩兵を率い、
龍馬は材木小屋で、倒れていた。
その顔色は白く、体温も低い。
伏見藩邸に龍馬を運び込んだ西郷は、医者に向かって叫んだ。
なんとても救え――と。
水路を辿ったため、
「それはお断りもうそ」
西郷の返事に、津田は目を細めた。
「なんと、罪人を
「あんお人は罪人じゃなか。こん国に必要な人じゃ。それをどうしてもというなら、この西郷吉之助にも覚悟がごわす」
睨み合いは、西郷のほうが上だった。
苦虫を噛み潰した顔の津田は、去って行った。
「吉之助さぁ、あれでよかと?」
西郷の隣にいた大久保一蔵が、眉を寄せた。
「一蔵どん、薩摩も覚悟しなければならん」
「まさか、幕府に反旗を翻すっと? そげんこつすれば、また久光公に睨まれもうそ」
西郷は薩摩藩国父・島津久光と因縁がある。
かつて率兵上京を計画していた久光に、西郷は強い言葉で反対の意を伝えた。
「恐れながら、田舎者が上洛してなんになりもうそ」
久光はずっと薩摩にいて、江戸も京も知らず、政治の表舞台で活躍したこともなかった。この久光に、田舎者と言ったのだ。
久光は藩主ではなかったが、薩摩藩の実力者であることには違いない。
西郷の暴言は、本来ならまちがいなく切腹だったであろう。
西郷が本格的に罰せられることになるのは、久光のこの上洛の際、彼から発せられた「下関で待機せよ」との命令を聞かなかったことによる。久光上京に呼応し、尊皇攘夷派が京都で暴発するとのうわさを聞いた西郷は、全くの独断で大坂に向かったのである。これによって、西郷は徳之島に流されることとなった。
島津久光は現在も、公武合体派である。
当然藩論も、幕府寄りである。
そんな最中に、長州征伐である。
今回の長州再討伐は、どう見ても無謀だった。
徴収された諸藩は、どうもこの再討伐に乗り気ではないらしい。
朝廷ですら、突然兵を率いてきた将軍・家茂たちに、眉を寄せたという。
「一蔵どん、幕府が
龍馬はこの日の本を立て直すという。
それがたとえ、徳川の世に終止符を打つことになることでも、この国が強く生まれ変わるなら、幕府に睨まれようが怖くはないという。
――ほんこて、凄かぁ、人じゃ。
あれから龍馬は、怪我が悪化し、意識不明に陥っていた。
枕元には妻のお龍、長府藩士・三吉慎蔵が心配そうな顔でついている。
「早う、目覚めてもんせ。坂本さぁ」
西郷は、固く目を閉じる龍馬に、そう語りかけた。
◆◆◆
長州藩を再討伐すべく、江戸を発った幕府討伐軍だが、思わぬものがその前途に立ちはだかった。
しかも艦隊はすでに横浜を出港しており、
艦隊には、
幕府軍は
このとき、
慶喜は将軍後見職を辞任し、御所を警護するための
「――一橋さま、各国公使は、朝廷との交渉に踏み切ると息巻いておりまする」
二老中・
「それはならぬ。我らが帝からご
「ですが、諸外国が幕府を越して朝廷と交渉をはじめれば、幕府は崩壊しましょう」
確かにこれ以上朝廷の力が増せば、幕府の権威はさらに落ちる。
二人の老中は無勅許で、開港を許すという。
だが、京に近い兵庫津開港を、異人嫌いという帝が認めるだろうか。
しまいには、将軍・家茂公が将軍職返上を朝廷に願い出る始末だ。
慶喜は、守護職の松平容保、所司代の
残る問題は、朝廷である。
異国の勢いに帝は、条約の勅許は考えていよう。
ならば障害となっているのは、
「――一橋どの。
議論は夜更けまで及び、関白は朝議を打ち切ろうとした。
「ならば、致し方ありませぬ」
「一橋どの……?」
「これほど申し上げても朝廷が条約を許可しないならば、
はっきりいって、これは脅しだ。
この脅しが利いた。
条約の勅許が、出たのである。
ただやはり、京に近い兵庫津開港の勅許までは得られなかったが。
結局、徳川家茂が朝廷に出した将軍職返上願は却下され、討伐軍はようやく大阪から動ける状態となった。
だがいかんせん、徴収した諸藩の士気が低い。
しかも、薩摩が討伐軍に加わることを拒否してきた。
そもそも薩摩は、慶喜が将軍後継となるかならないで取り沙汰されたとき、慶喜を後継に推していたのが、薩摩藩前藩主・島津斉彬である。
慶喜が将軍後見職となってからは、今度は島津久光が幕政改革を幕府に求めてきた。
――なにを考えているのだ? 薩摩よ。
突然背を向け始めた薩摩に、慶喜は
空を見上げると、今にも雪がちらつきそうな雲行きであった。
嫌な、予感がする。
しかしそれがなんなのか、このとき慶喜はわからなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます