第14話 火を噴くリボルバー! 寺田屋遭難!!

 人は心配ごとや悪い予感などを抱くと、不安で心が穏やかではなくなるらしい。まさに、彼女が心の中はだ。

 おりょうにとって夫である龍馬の再会は嬉しかったが、いまや龍馬は幕府側から狙われる身となった。彼女には世情や侍の世界はよく理解わからなかったが、あの西郷吉之助でさえ、龍馬の身を案じている。

 一時は、このまま何処かに逃げようと、龍馬に言おうとしたこともある。

 しかしおりょうは、そのことは言わなかった。

 言えるわけがない。

 龍馬の目は、おりょうの知らぬ広い世界を見ている。

 この日の本を、生まれ直すのだという。

 そう語る龍馬の顔は輝いており、生き生きとしていた。

 ゆえに、一緒に何処かに逃げようとは言えなかった。

 

 ――うちにできることは、龍馬はんを支えることや。

 

 たまにしか帰ってこない夫だが、文句をいわず、温かく迎えるのが自分の務めだと、おりょうは思った。

 必ず帰って来る――、龍馬ははっきりと、おりょうにそう言ってくれた。

 ならば待とう。

 彼の好物を用意して、すべてをやり終えた彼を出迎えるのだ。

 

 おりょうは胸騒ぎを抱えたまま、湯船に体を沈める。

 刻限は夜の九つ半を過ぎていたが、お龍が湯殿へ行こうと部屋を覗いたとき、龍馬と三吉慎蔵という男はまだ酒を飲んでいた。

「龍馬はん……、あとどれくらい、寺田屋ここにいてくれはるのやろう……」

 白く煙る湯殿のなか、おりょうは独りごちた。

 おりょうは、武士の妻がどのようなものかなど知らない。

 女として愛する男と一緒にいたいという想いは、龍馬を支えるという想いと変わらぬほど強い。

 不意に、おりょうは外に人の気配を感じた。

(なんえ?)

 与力窓よりきまどから外を窺ったおりょうは、愕然とした。

 いくつもの、御用提灯が目に入った。

 

 ――あかん! 奉行所の捕り方や……!

 

 寺田屋から一番近い奉行所は、伏見奉行所である。

 狙いはおそらく――。

 おりょうは、肌襦袢を羽織ると湯殿を飛び出した。


             ◆◆◆


「――ところで三吉さんは、他の地に行っちょったことはあるかえ?」

 寺田屋の二階で、その酒宴を続いていた。

「いいえ。長府からあまり離れたことは……」

 

 長府藩士・三吉慎蔵は、龍馬の酌を受けつつそう答えた。

 長府は長門・下関の南部に位置し、東は周防灘すおうなだに面しているという。

 この長府を納めていたのが、長州藩の支藩・長府藩であった。藩主は同じ毛利家、馬関海峡での異国との戦いでも、長府藩は戦ったという。

 

「わしはいろいろ行ったが、今思えば、海に近いところが多かったの」

「海はお好きで?」

「わしは、海を見て育ったがじゃ」

 

 土佐の桂浜――、なにかあったときは、龍馬はいつもそこから海を眺めていた。

 挫けそうな心に、引いては寄せる潮騒は何も答えてはくれなかったが、海の広さに比べれば、人に虐められて泣いている龍馬の悩みなど、ちっぽけなものなのだろう。

 これからの長い人生、辛いことはもっとある。

 後ろばかり見ていては、お前はいつまでも弱虫のまま――、今思えば、海はそう言っていたような気がする。

 もちろん姉・乙女の助言もあったが、桂浜から海を眺めると、なぜか気持ちが落ち着いた。その海が、のちに龍馬を海上へ導くとは、子供の頃の龍馬は知る由もなく――。

 


「龍馬はん!」

 障子がいきなり開いて、そこに立つおりょうを見た龍馬は口に含みかけた酒を吹き出しかけた。なんとお龍は、肌襦袢を纏ってはいたものの、ほとんど裸だったのである。

 三吉慎蔵はすかさず視線を逸らし、どうしていいのかわからない様子である。

「おりょう、なんちゅう格好をしちゅう……!?」

「そないなことを、言っている場合やおへん! 表に奉行所の捕り方が来てますえ」

「坂本どの……」

 三吉も奉行所の連中が誰を捕まえに来たか、わかったらしい。

 龍馬はすぐに、刀掛けからつのかみよしゆきを手に取り、行灯の灯りを吹き消した。

 だがその座敷はすぐに、乗り込んできた奉行所のがんとうぢょうちんに照らされる。

 

「我らは伏見奉行所与力・ようぞうである! 土佐浪人・坂本龍馬だな? 神妙にいたせ」

「はて、わしはさっしゅうの才谷梅太郎じゃが?」

「ほぅ……、薩摩藩士をよく知っているが、貴公はなにゆえ薩摩訛りがないのだ?」

 どうやら、龍馬の嘘は彼らには通じないらしい。

 龍馬は、三吉に向かって叫んだ。

「――逃げろ! 三吉さんっ」

「そうはいかん。わしは桂さんから、坂本どのを守れと言われております」

 三吉は得意の槍を構え、龍馬と背中合わせにして答えた。

「やはり、長州の桂と通じていたか……。捕らえよ!!」

 伏見奉行所与力・津田養蔵と名乗った男は、唇を噛んだ。

 

 龍馬は陸奥守吉行を鞘から抜くと、向かって来た捕り方のろくしゃくぼうを受け止めた。

 ほとんど灯りもなく、狭い座敷の乱闘では、龍馬たちの圧倒的不利であった。

 そんななかで捕り方が、おりょうまで捕らえようとした。

 龍馬はすかさず、割って入ると懐から短筒を出して威嚇する。

 それは高杉晋作から贈られた、米国スミス&ウェッソン社製第二型、中折れ式の銃であった。

「ここから先は、行かせんがよ」

 照準を合わせる龍馬に、捕り方が一歩後ろに下がる。

「――なにをしている!? 捕らえよ!」

 津田養蔵の声に、捕り方が動く。

 そんななかで、ついに龍馬の銃が火を噴いた。

「ぐぁ……っ」

初めて撃ったにも関わらず、弾は捕り方に命中した。

「おりょう、他に出入り口は……?」

「待っといておくれやす」

 おりょうには、心当たりがあるらしい。

 龍馬たちが応戦している間を抜けて、お龍は座敷を出た。


「坂本どの」

 三吉も息が上がっていた。

「三吉さん、わしは逃げるのは好かん。けんど、わしにはやりたいことがまだあるがよ。ほうやき、ここは逃げるがじゃ」

「はい」

「それにしても、どっさりいるのう……」

 多勢に無勢とは、まさにこのことである。

 龍馬は再び、銃を構えるが、捕り方は今度は刀で向かってきた。

「――っ!!」

「坂本どの!?」

 捕り方の刀は、龍馬の指先を掠め、鮮血が迸った。

「……な、なんちゃあない……」

 とは言っても、である。

 負傷した手ではもう、銃は撃てない。

 血で指先が滑り、おそらく刀に切り替えても同じだろう。

 

 ――わしはここで、終わってしまうがか?


 ジリジリと間合いを詰めてくる捕り方に、龍馬が覚悟をした時――、


「龍馬はん! こっちどす!!」

「おりょう!」

 龍馬は三吉慎蔵ともに駆けた。

 裏階段から庭に出ると、裏木戸には大きな漬け物石があった。なんとおりょうはその石を一人で退かしたのだ。

「おりょう、おまんに頼みがある。薩摩藩邸に行って、報せちょってくれ」

「おりょうさん、それがしからも頼みます。坂本どのを救えるのは、薩摩じゃ」

 龍馬と三吉の依頼を受けて、おりょうは、再び走っていく。


 ――頼むぜよ、おりょう……!


 この間にも、龍馬の出血は止まらない。

 意識も、朦朧もうろうとしかけている。

 それでも、彼らは駆けた。

 月のない、暗い夜であった。

 刻限は丑の刻を、とうに過ぎているだろう。

 やがて伏見の支流・濠川ほりがわに達し、二人は材木小屋に逃げ込んだ。

「探せ! なんとしても捕らえよ!!」

 龍馬を追う奉行所の連中の声が、小屋の中に聞こえてくる。


 ――まっこと、しつこいのう……。


 するとなにを思ったか、三吉慎蔵が脇差しを抜いた。

「――坂本どのを守れなかったのは、某の失態。ここは腹を斬ってお詫びいたす」

「待ぃや。わしゃ、生きとるきに」

「いいや。ここは潔く――」

 脇差しを己の腹に向ける三吉を、龍馬は止めた。

「まっこと、おんしは、せっかちいられじゃのう? こげなことで、腹を斬るなや。わしがここにいることを報せるもんがいなくなるがやき」

「あ……」

 三吉はようやく、切腹を思い留まる。

「伏見の薩摩藩邸に――、西郷さんがいちゅうき、報せとぉせ」

 三吉は頷くと、小屋を飛び出していった。

 

 あとは薩摩藩士たちが駆けつけてくる間、捕り方に見つからないことをいるのだけである。

 龍馬に、もう走る体力はない。

 発見されれば、今度こそお手上げである。

 龍馬は、深く息を吐いた。

 逃げ込んだ材木小屋は少々傷んでおり、割れた板塀から外気が流れ込んでくる。

 なにしろ、真冬の京である。

 失われていく血で体温は下がり、そこにこの外気である。


 ――乙女……姉やん。


 龍馬は、仰向けに倒れた。

 薄れゆく意識の中、頭に浮かんだのは、最愛の姉・乙女だった。

 

 

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