第13話 長次郎、無念
龍馬が京にいるこのとき――、この男はグラバー商会を訪ねていた。
ユニオン号購入をきっかけに、トーマス・ブレーク・グラバーと親しくなった亀山社中・近藤長次郎である。
「Mr・近藤、英国渡航の話ですが――」
グラバーは、机の上で手を組み、長次郎を見据えた。
ユニオン号購入で長州藩とは揉めたものの、それも一件落着し、長次郎の中では抑えきれぬ夢が込み上げた。
長次郎は龍馬たちと違って、生まれは高知城下の饅頭屋・大黒屋である。
そんな彼が学問を本格的に学び始めたのは、土佐藩士・
土佐藩士となったのである。
そんな長次郎には、夢がある。
遥か異国に渡り、もっと学問を学ぶこと。
土佐には米国に渡った男、ジョン万次郎がいる。彼の話は、土佐のものなら知らぬ者はいない。あいにく万次郎と会う機会はなかったが、長次郎にとって密かに憧れる存在となった。
士分となったとはいえ彼は、ただの饅頭屋の息子では終わりたくなかったのである。
彼はまもなく、土佐を脱藩する。
龍馬と再会し、勝海舟門下となったことで、長次郎の異国への夢が再び動き出した。
そしてその機会が、ようやくきたのだ。
「費用のことなら心配ないがよ。こじゃんと持っちゅうき」
渡航費用を懸念するグラバーに、長次郎は笑んだ。
その費用となる
「
グラバーはそう、長次郎の英国渡航を快諾した。
だが――、天は長次郎に味方してはくれなかった。
天候不良により、船が出られなくなったのである。
「――長次郎どの、これはいったいどういうことことか?」
亀山社中に帰ってきた長次郎を、陸奥宗光を先頭に仲間たちが険しい顔で見つめてくる。
「え……」
「わしらがなぁんも知らんと思っちゅうが? わしらの決まりを忘れちょらんかえ?」
長次郎は、その場に座り込んだ。
自分がなにをしてしまったか、きがついた。
もちろん、その掟は知らぬ長次郎ではない。
長次郎がしようとしたことは、亀山社中では許されないことだったのである。
◆◆◆
薩長同盟成立の翌――、龍馬は
長府藩は長州藩の
二人を引き合わせたのは長府藩士・
桂小五郎に遅れること京入りした三吉は、そのまま龍馬と行動を共にしていた。
桂が龍馬の護衛にと、置いていったのである。
「――いい風じゃ……」
「坂本さん、また京に戻るのは危険じゃ」
三吉には、龍馬が呑気に見えるらしい。
長州藩と薩摩藩を結びつけた龍馬は、幕府から目をつけられる存在となるだろう。
ゆえに身を案じた桂が三吉を置いていったのだが、龍馬としてはそんな恐れよりも、二藩が結びついた喜びのほうが強かった。
「三吉さんは、心配性じゃのう」
龍馬は苦笑した。
「坂本さんが、呑気すぎるんですよ」
そんな二人がいる座敷に、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
「龍馬はん、長崎から文が届きましたえ」
声はお龍である。
「なんじゃろうの?」
龍馬は文を受け取ると中身を開いた。
「な……」
文を持つ手が震える。
「どないしはりました?」
お龍が首を傾げた。
「――長次郎が……」
それは、近藤長次郎の死を報せるものだった。
この衝撃は、同盟設立に浮かれる龍馬の気分を一瞬で吹き飛ばした。
近藤長次郎――、彼もまた龍馬の古くからの友であった。
書を読むのが好きだという彼は、高知城下で饅頭屋を売り歩いているときも、書を携帯しているほどだ。
そんな長次郎を、龍馬は何度か遊びに誘った。
「おまん、こがなときぐらい、書を読むのはやめちょき」
鏡川で魚捕りをしていても、長次郎は書を読んでいた。
「わしには、こっちのほうが面白いがよ」
土手に座り、書を熱心に読み耽る長次郎に龍馬は呆れた。
「まっこと、おまんは書の虫じゃの」
龍馬は、長次郎の想いを知らなかった。
友だといいながら、彼が追っていた夢に気付けなかった。
「わしは饅頭屋の息子やき……」
長次郎の口癖である。
神戸海軍塾でも、彼はその口癖を口にしていた。
他の海軍塾生との差を、彼は何処かで感じていたのだろう。
いつしか、彼は一人でいることが多くなった。
所詮は饅頭屋の子、そんな自分が彼らと対等にいるためには学問しかないと思ったのだろう。彼は社中でも隅の方で書をよく読んでいた。
グラバー商会から初めて武器を購入するとき、長次郎の英語力には、龍馬は驚かされたものだ。ユニオン号購入に当たったのも、長次郎である。
長崎からの文には、長次郎が社中の仲間に無断で、英国渡航をしようとしていたらしい。
亀山社中には、およそ事大小となく
つまり、どんなことでもみんなで相談し、自分の利益のために、掟を破ったものは、切腹して罪を
龍馬はまたも、同郷の友を失った。
――長次郎、なぜわしにいわん。おまんの夢知っちょっていたら、叶えちょったがよ。
饅頭屋長次郎――、最期は武士としてその人生を終わらせた。
「龍馬さん、わしは学問で成功したいがじゃ」
ユニオン号を購入した時、長次郎はそんなことをいった。
おそらくあれが、長次郎の本心だったのだろう。
彼に、海の向こうの異国はどう見えていたのだろうか。
身分など関係なく、自由に学問を学べる国と移ったのだろうか。
ただ彼の死は、相談してくれれば死なずにすんだのだ。
だが龍馬に、悲しんでいる暇はなかった。
まだ、しなければならないことがある。
この日の本を、強い国にする。
それはいま、ようやく動き出したばかりなのだから――。
◆
京・伏見、
讃岐町は、西側が
讃岐町の由来は、讃岐守屋敷にちなんで名付けられたという。
そんな讃岐町の東側――、今はなき富田讃岐守屋敷跡に伏見奉行所がある。
慶応二年一月二十二日――、刻限は夜の六つ半。
伏見奉行・
「――お奉行」
立ち上がりかけた林忠交は、膝をついた与力・
「何事か」
「かの浪人者ですが、土佐脱藩浪人・坂本龍馬という男でございました」
長州の動きを探っていた密偵が、下関で見かけたという男。
それだけなら気にならなかったが、土佐と聞いて合点がいった林である。
この京において長州尊攘派に混じり、土佐の尊攘派も活動していたことは林も知っていた。その男が長州と結びついても、なんら不思議ではない。
そのとき林は、薩摩藩の動きが気になっていた。
長州征伐において、独自の動きをしたという薩摩。
この伏見には、薩摩藩邸もある。これといった怪しい動きはなかったものの、かの藩を幕府も警戒していた。
公武合体派とはいえ、薩摩の力は幕府を脅かす存在となりつつあったからだ。
坂本龍馬という男――、長州だけではなく、薩摩とも繋がっているとなると、ただの浪人と放っておくわけにはいかぬ。
「津田、すぐに捕り方を率い、やつを捕らえよ」
林の指示に、与力・津田は低頭した。
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