第19話 高鳴る鼓動! 夫婦で巡る霧島温泉郷 【後編】

 慶応二年五月――、このとき高杉晋作は長崎にて、英国貿易商トーマス・ブレーク・グラバーと会っていた。

 幕軍の長州再討伐が迫る中、この行動はやや危険だったが、彼が長崎に来た目的は軍艦購入である。

 

 彼は以前、オランダが売りに出していた蒸気船を購入しようとしたことがある。

 しかしこれは彼の独断で、さらに高額だったため、長州藩内は大反対であった。

 高杉にとって長崎は、慣れ親しんだ地であった。

実は一度、英国エゲレス行きの話が藩から出たことがあった。

 伊藤俊輔とともに、長崎に向かうことになった高杉は、馬関に寄港した英国商船ユニオン号に便乗し、長崎に向かった。

 そのユニオン号がのちに、薩摩藩名義で購入することになる船である。

 長崎に着いた高杉と伊藤は、グラバーと邸宅で接触し、英国渡航を頼んだ。

 元治二年三月の、ことである。

 だが幕府との長州の武力衝突が近いと知るグラバーは「長州が大変な今、洋行すべきでない」といい、高杉たちは渡航を断念した。

 

「Mr.高杉、お役に立てるのなら努力はしますが……」

 グラバーは、またも英国渡航を頼みに来たかと思ったらしい。

「今回は、船を買いに来た。上には、今度こそ文句は言わせぬ」

 

 高杉は今回も、独断で軍艦購入に踏み切った。

 もちろん代価を支払うのは藩だろうが、長州藩存亡の危機にある現在、最新鋭の武器や軍艦は必須なのはわかるだろう。

 藩内には、いまだ倒幕に二の足を踏む者もいる。

 しかしこれ以上、幕府に歩み寄ることはできない。

グラバーとて、儲かる話を自ら捨てはしないだろう。

 戦となれば、彼が裏で商う銃器や軍艦は高く売れるのだから。


「わかりました。ご用意致しましょう」

 案の定、グラバーは承諾した。

 

 幕軍との対決材料は揃った。

 長州藩の命運をかけた戦いに、高杉は挑もうとしていた。

 だがこのとき高杉は、自身を脅かしつつもう一つの脅威とも彼は戦っていた。

 不意に胸なら込み上げてくるものを感じて、高杉は咳き込む。

 たんに混じる血に、彼は目をみはる。

 高杉は医者に言われるまでもなく、自身を蝕み始めているものの正体がなんなのか知っている。死病といわれている、労咳ろうがいだろう。

 医者は、療養を勧めてくるだろう。


 ――まだだ……! 俺はこんなときに、くたばるわけにはいかん。


 休む暇などない。

 長州藩のため、彼はその身を捧げる覚悟をしていた。

 

                      ◆


 薩摩領内・塩浸温泉しおびたおんせんにて静養中の龍馬は、おりょうを誘って犬飼滝いぬかいのたき」を訪れていた。

 犬飼滝は、霧島山を源流として西南流する、中津川の中流部にある高さ二十けん、滝幅十三けんの滝だという。

 近くには、奈良・平安にかけての貴族、和気清麻呂わけのきよまろが京から流された地があるそうだが、そこにあるのは嘉永六年に、薩摩藩前藩主・島津斉彬が手植えした松があるだけだという。

 犬飼滝は柱状節理ちゅうじょうせつりに覆われた滝壁を垂直に流れ落ちる直瀑で、古くから名瀑として知られるというが、蒼くそびえる高千穂峰を背景に、豪快に流れ落ちるその姿はまさに壮観で、滝壺に虹が出来ていた。

 

「ほんに、見事どすなぁ」

 お龍が素直に感想を述べる。

「いくら鯉でも、あの滝は昇れんのう」

「ここに鯉が?」

 龍馬の呟きに、お龍が首を傾げた。

「いや……」

 隣国では、黄河の上流にある滝・竜門を登ることのできた鯉は、竜になるという。

 はたしてこの国の鯉も、龍になるのだろうか。

 いや、人間が龍になると言っている人間もいる。

 龍馬の姉・乙女である。


 ――おまんはいつか、龍になって飛びゆう。


 それが龍馬が幼い頃からの、乙女の口癖だった。

 もののたとえにせよ、龍馬は姉の期待に応えられたか今のところはわからない。

「龍馬はん……?」

「なんちゃない。こん滝に、圧倒されちょっただけやき」

 龍馬は頭をかきつつ苦笑すると、長靴ブーツを脱いで袴をたくしあげた。

「なにをしまりますのえ?」

「魚捕りじゃ」

「そないな体で、危のうおす。やめておくれやす」

「土佐にいた頃は、ようやってたきに、ほれっ」

 撥ねた水がお龍にかかり、彼女は可愛らしく悲鳴を上げた。

 川の水はまだ冷たく川魚はいなかったが、龍馬は子供の頃に戻った気持ちで川の中を歩き回ったのだった。


               ◆◆◆


日当山温泉、塩浸温泉と巡った龍馬とお龍は、栄之尾温泉えいのおおんせんに滞在中の薩摩藩家老・小松帯刀を見舞ったあと、高千穂峰を目指した。

 霧島山の主峰である高千穂峰は、天照大神アマテラスオオミカミの孫である瓊瓊杵尊ニニギノミコトが降り立ったという天孫降臨の霊峰らしい。

 しかしその山はかなり険しく、急な斜面なうえに、行く手には石が大量に転がっているらしい。龍馬はお龍を振り返ると、手を差し出した。

 これに、お龍が瞠目どうもくした。

「え……」

「ここは危険やき、手を繋いじゃる」

「そ、そないな……、恥ずかしゅうおす……」

 お龍は顔を赤くして、恥ずかしがる。

「誰も見ておらんがよ」

 戸惑うお龍を他所に、龍馬は彼女の手を引いた。

 しかしそんな険しい荒れ地でも、紅紫色の霧島躑躅きりしまつつじ(のちのミヤマキリシマ)が咲き誇っていた。

 そんな高千穂峰山頂に、長く突き出たものがある。

 天逆鉾あまのさかほこである。

 伝承では、瓊瓊杵尊が天から降臨の際、使っていた鉾を逆さに立てたものらしい。

 ここで、またも龍馬の癖が出た。

 抜いてみたくなったのである。

 今度は袖をまくり始めた龍馬に、お龍は慌てた。

「なれまへん! 罰が当たりますえ!?」

「ちくっとだけじゃ」

 一つのことに興味を持ち出すと止まらなくなるのが、龍馬の癖である。

 青銅製の鉾は片手だけの龍馬に対し、意外にもあっさりと抜けて、天狗のような顔の意匠いしょうに唖然とした二人である。

 龍馬は何事もなかったように鉾を元通りにすると、頭をかいた。

「案外――、大したことなかったのう……」

「ほんに、罰が当たっても知りまへんえ」

「わしが怖いのは天罰より……」

 言いかけて、お龍と視線が合った。

「なんです?」

「いや――、ええ」

 まさか、お前だと言うわけにもいかず、龍馬は視線を上に運んだのだった。

 楽しい日々はあっという間に過ぎ――、二人が鹿児島城下、西郷家に戻ったのは四月半ばのことであった。

 


「――坂本さぁ。下関にいっちょっていた桜島丸が、長崎に向かってごわす」

 いつものように荒っぽい足取りで、西郷吉之助がやって来た。

 桜島丸とはあのユニオン号のことで、薩摩側では桜島丸と呼んでいた。

 その桜島が下関を出港し、長崎に向かっているという。

 積み荷は薩長同盟の前に、薩摩藩は薩摩名義で武器の購入する代わりに、長州から兵糧米を受け取ることをきめたその兵糧米を積んでいるらしい。

 このとき、龍馬の元には長崎の社中から文が届いていた。

 

「それはええ報せじゃ。こちらはちくっと厄介じゃ」

「なにかあっと?」

「社中に池内蔵太いけくらたという男がいるんじゃが、船を動かしたいといっちょるそうじゃ」

 現在の社中には、ワイル・ウルフ号という船がある。

 亀山社中が薩摩藩の後援で、英国商人グラバーから六三〇〇両で購入したばかりの木造小型帆船である。

 実はこの船も鹿児島に来る予定になっており、桜島丸が長崎へ向かったのはこのワイル・ウルフ号を曳航えいこうするためだった。

「よか話じゃと、思いもんそ」

「ほんぢゃけんど、内蔵太は社中に迎えたはいいが、航海術がさっぱりでのう。仲間たちがどうすればええかっちゅう話じゃ」

 池内蔵太は龍馬が社中に入れたが、彼は航海術を学んでいなかった。

 文によれば、彼はなんとしてもワイル・ウルフ号を操船するのだと言っているらしい。

 結局――、龍馬は内蔵太に操船を任せてみることにした。

 単独で航行するのなら反対するが、桜島に曳航されてくるのだ。

 問題はなかろう。

 龍馬はそう思っていた。

 

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