第20話 勝海舟の教え

  ――海を、舐めちゃいけねぇ。


 いつものように煙草盆を抱え、煙管を吹かしながら勝海舟がそういった。

 それは龍馬が、彼の弟子となって間もない頃の話だ。

 勝は軍艦操練所教授方頭取時代、幕府艦・咸臨丸にて米国にいったという。

 彼から聞く船の話は、龍馬にとって心が躍る刻だった。

 当時は蒸気船など、幕府か一部大名が所用しているだけに過ぎず、龍馬も浦賀の地で遠くから米国解隊を見たに過ぎない。

「ほんぢゃけんど、センセは米国までいっちょったが?」

「幕命だからな……」

 

 万延元年、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節を米国へ派遣したという。この時、護衛と言う名目で随行することになったのが、咸臨丸らしい。

 その途上、勝は酷い船酔いに苦しんだという。

「現在では、笑い話よ」

 勝はそう嘲笑った。

「わしも乗ってみたいのう……」

「乗るのは簡単だぜ。だがよ、乗るのと動かすのはわけが違う。あのデカブツを動かすんだぜ? それに――」

「それに、なんじゃ? センセ」

「海には魔物がいるって話だぜ」


 ゆえに、海を舐めるなと勝はいう。

 その魔物は、彼も見たことはないという。

 一度沖に出てしまえば、周囲はどこまでも続く大海原となる。

 その魔物は気まぐれで、晴れた日には姿を見せないという。


 その後――、神戸海軍操練所ができ、勝はこういった。


「いいか? ただ船を動かせばいいってわけじゃねぇ。風と海の状態を見極めねぇと、海に喰われちまうぜ。これだけは肝に銘じるこった」


 

 いまになり――、なにゆえ勝の言葉が蘇るのか。

 龍馬は廊下に出ると、空を見上げた。

 からりと晴れた空に雲はなく、清々しいかぎりである。

「そういえばわしは、まだ船を動かしたことがなかったのう……」

 亀山社中を旗揚げして一年――、龍馬が乗った船といえばいつも他人の船だった。

 どちらかというと、乗せてもらっているという形に近い。

 龍馬が今度船に乗るとすれば、桜島丸ことユニオン号だろう。


 ユニオン号は長州藩が資金五万両を出し、グラバー商会から薩摩藩の名義で今は亡き近藤長次郎が購入した船だが、それを亀山社中が操船するという「桜島丸協定」が長州藩との間で結ばれた。

 この協定は船の旗は島津家のものを借用し、乗組員は「社中」の士官と水夫・火夫のほか、長州藩の士官二名が乗務し、長州藩が使用しないときには薩摩藩が使用可能で、経費はすべて長州藩の負担とするとする薩摩藩に有利な内容だった。

しかしこれが、長州側の気に障ったらしい。

 自分たちが金を出して買った船なのに、自由に使えないのは如何なものかというのだ。

よって協定は修正された。

 船は長州藩籍とし、乗務する「社中」関係者は長州藩の指示に従う、経費は薩摩藩が負担するというものだ。

 

ゆえに、ユニオン号こと桜島丸が鹿児島に入港したあと、その引き渡しのため、龍馬が行くことになる。

 わずか一時の航海だが、その間の船の指揮は龍馬が取ることになるだろう。

 そう思うと不安は消えて、心が弾んだ。

 その桜島丸が鹿児島港に入ったと聞いて、龍馬は草履に足を入れた。

 すると、お龍が顔を覗かせた。

「龍馬はん、どちらへ?」

「港じゃ」

 龍馬はそういって、西郷邸をあとにした。

 この日も錦江湾では、桜島が噴煙を棚引かせていた。

 

 桜島丸はワイル・ウルフ号を曳航してくる。

 ワイル・ウルフ号の操船を名乗り出た池内蔵太はさぞ鼻高々で、また仲間たちに自慢話を披露することだろう。

 

              ◆◆◆


 青空の下、ユニオン号が港に停泊していた。

 だがそこに、ワイル・ウルフ号の船体はない。

「――ワイル・ウルフ号は、来なかったのかえ?」

「それが……」

 龍馬の問いに、ユニオン号を操船してきた者たちは視線を逸らした。

「内蔵太は、どこじゃ?」

「あいつは、もうおらん……」

「どういう意味じゃ?」


ワイル・ウェフ号に乗っていたのは、船長に鳥取浪士・黒木小太郎、副将には土佐出身の池内蔵太と、塩飽佐柳島出身の佐柳高次があたり、他に塩飽出身の水夫が十人余り乗り組んでいたという。

 ワイル・ウェフ号は、荒鉄あらてつ銅地金どうじがね、大砲、小銃等の積み荷と、乗組員十五名に便乗者一名の合計十六名を乗せ、僚船りょうせんである大型蒸気船のユニオン号に曳航えいこうされて、四月二十八日、長崎を出港したらしい。

 当初は順調な航海をして一路南下し、一旦は薩摩領の甑島こしきじまに辿り着いたが四月三十日夕方、おりからの暴風雨に巻き込まれ、曳航していたユニオン号は危険を感じ、やむなく引き綱を解いたという。


「それでワイル・ウルフ号は……」

 黙り込む面々の中、ワイル・ウルフ号に乗っていた佐柳高次さやなぎたかつぐが口を開いた。


 単独行動となったワイル・ウェフ号は、当初は天草に避難しようとしたが果たせず、その後は想像を絶する暴風雨の中、為す術もなく漂流を続けていたが、上五島の潮合崎しおあいみさき近くまで押し流され、暗闇の中微ずかに島影を認めたと思った瞬間の五月二日の未明、激しい東風に煽られて、浅瀬に乗り上げ転覆し、船体は一瞬のうちに破壊してしまったという。

 生存者は佐柳高次と、村上八郎、そして水夫の市太郎、三平の僅かに四名で、その他の者は荒鉄や銅地金、大砲、小銃等の積み荷もろとも海に沈んだと語る。


「内蔵太が……、死んだ……?」

「…………」

 いつも自慢げに、武勇伝を語っていた池内蔵太。

 もうあの顔は、二度と見られない。 


 ――風と海の状態を見極めねぇと、海に喰われちまうぜ。これだけは肝に銘じるこった。


 勝海舟の言葉が、龍馬の胸に刺さる。

 航海術を短期間で覚えようなど、そもそも無理な話であった。

 池内蔵太のことも、ワイル・ウルフ号の引き綱を断ち切ったユニオン号の乗組員のことも、龍馬は責められない。

 彼を行かせたのは、龍馬なのである。

 海を舐めていたのは――。

 

 龍馬は、こぶしを握りしめた。


 ――わしは勝センセから、なにを学んじょっていたんじゃ……!


 嵐に巻き込まれ、何日も漂流してその後、米国船に救われたというジョン万次郎のような奇跡は、そう起こるものではない。

 海は時として、試練を強いてくる。

 熟練の船乗りでも、難破するという海の恐ろしさを、龍馬は経験していない。

 だからといって――。

 激しく揺さぶれる中、内蔵太はなにを考えていたのだろう。

 彼は、海に住む魔物を見たのだろうか。

 龍馬は、またも仲間を失った。

 救おうと思えば救えた男を、彼のやる気に負けて、海に出した。


 ――勝センセ、わしは船のことをわかっちょっていたつもりじゃった。けんど、本当はなぁんもわかっておらんかった。


 自身の責任を、痛感する龍馬であった。

 しかし、このワイル・ウルフ遭難が、亀山社中の台所事情に拍車をかけた。

 もともとユニオン号も、社中の運用船である。

 しかし協定の改正によりユニオン号は長州藩に渡すことになり、新しく購入したワイル・ウルフ号は海の藻屑もくずと化した。

 社中に残ったのは、莫大な借金である。

 下関の豪商で支援者の伊藤助太夫にだけでも、八〇〇両もの借金をしていた。

伊藤助太夫は慶応元年の初対面以来、龍馬の止宿先であった。

 いくら土佐豪商・才谷屋の流れを汲む坂本家の末っ子とはいえ、算盤は苦手な龍馬である。そもそも、商人になろうと思っていないのだから当然である。


 ところがここで、思わぬことが起きた。

 ユニオン号が長州から積んできた兵糧米を、薩摩藩が固辞してきたのである。

 長州藩が大変な時に、そんな藩からもらえないと言うのである。

 仕方なく、米は社中のものとなり、龍馬はユニオン号に乗り込んだ。

 慶応二年六月十四日のことである。

 龍馬は鹿児島より馬関に赴く途中、亀山社中の同志を連れて五島に立ち寄り、自らが碑文を書き、土地の庄屋に金を渡して碑を建てさせることにした。

 志半ばにして散っていった、池内蔵太ら同志の霊を慰めるためだ。


 ――おまんらの死は、絶対無駄にせん!


 龍馬はそう、彼らが沈んだ海に誓った。



           -----------------------第四部 完 

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