最終話 蟠龍飛騰(ばんりゅうひとう)

 慶応四年四月――。

 この日――、江戸の空は晴れていた。

 徳川の世が終わり、新たに立った明治新政府。

 しかし幕府や将軍が消えても、新政府側と旧幕府側の戦いは止むことはなかった。

 慶応三年――、大政奉還から二ヶ月後、王政復古の大号令にて徳川幕府は事実上の消滅となった。

 しかし新政府内に徳川の参画さんかくは認められず、それに反発した旧幕府側と新政府側が鳥羽・伏見でぶつかった。

 俗に言う、戊辰戦争ぼしんせんそうの始まりである。

 この戦いにて朝廷よりにしき御旗みはたが出され、新政府軍は官軍、旧徳川幕府側は朝敵となった。官軍こと新政府軍は、江戸総攻撃を開始するという。


 江戸・元赤坂の自邸に引き籠もっていた幕臣・勝海舟は、江戸まで戦場となりつつあることに、半ば呆れていた。江戸の町が火の海となれば、邸に籠もっている場合ではない。

 そんな矢先、勝は老中・板倉勝静いたくらかつきよによって陸軍総裁として復帰する。

(おいおい……、のんびりとさせてくれるんじゃあなかったのか?)

 罷免ひめんしたり復帰させたりと、人を何だと思っているのだと聞きたくなる勝だったが、こういうときは、厄介事を押し付けてくるに決まっている。

 案の定、江戸総攻撃を回避すべく、新政府軍・大総督府下参謀だいそうとくふしたさんぼうだという男と会談せよという。

 しかもその大総督府下参謀が、西郷吉之助だというから驚く。

 正式に将軍・徳川慶喜への追討令が下ったのは、一月七日のことだったらしい。

 慶喜の官位は剥奪となり、さらに新政府は、東帰した慶喜および旧幕府勢力との対決を前提とした諸道への鎮撫総督の派遣を決定し、東征大総督とうせいだいそうとく有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのうに率いられた政府軍が東征を開始したという。

 その目的のひとつに、江戸総攻撃があった。



「まさかお前さんと、こんな形で再会するなんざ、思っていなかったぜ」

 江戸・田町――、薩摩藩蔵屋敷を訪れた勝は苦笑した。

 目の前には西洋式軍服に身を包んだ、西郷吉之助がいる。

 まげを落とし、すっかり洋装も板についているようだが、その顔に再会を喜ぶ笑みはない。

 勝が西郷と会ったのは、神戸海軍操練所の廃止が決まり、当時軍艦奉行だった勝も罷免され、江戸に帰らなければならなくなったときである。

 ただそのときは、幕府の終わりは予期できても、激しい戦いに発展しようとは、勝は思わなかった。

 

「勝安房どの、速やかに江戸城を明け渡してくれやんせ」

おいらに言われてもなぁ」

「徳川は朝敵でごわんど」

 新政府討伐軍は慶喜切腹を以て、江戸城開城を求めてきた。

 勝たちに、新政府と争う意思はない。

 どう足掻あがいても、旧幕府軍に勝ち目のない戦である。

 徳川慶喜はもう将軍ではなく、一大名となった。

 ごねているのは一部幕臣と、会津などの東北列藩である。

 されど――。

 

「もういいんじゃねぇか?」

 勝は、西郷を見据えた。

 将軍・徳川慶喜は新政府に対し、恭順の意を示している。

その慶喜は江戸城を退出し、上野寛永寺で謹慎中である。

「もういいとは?」

「慶喜公は、そっちの条件を飲むんだぜ? もう、お前さんたちとやり合う力はねぇよ。それとも新政府は本気でこの江戸を、戦場にするつもりかい?」

 勝の言葉に、西郷が押し黙った。

 西郷とて、以前は武士だった男である。

 武士の情けという言葉を借りるなら、無抵抗な相手をさらに追い詰めることはしないだろう。

 こうして一回目の会談が終わり、二回目の会談となった。


 慶喜の処遇は水戸での謹慎となり、江戸城開城の話は決した。

 一通りの会談を終えて、勝の脳裏にある男が蘇る。

「あいつの望みは……、平和でかつ、強い国となることだった」

「あいつ……?」

 西郷が目を細めた。

「坂本龍馬さ」

「坂本さぁー……」

 西郷は目をカッと開き、息を呑む。

「俺らは、あいつらをお前さんに預けたことを後悔はしていねぇ。あいつがいなかったら、世はここまで変わってなかっただろうよ」

 神戸を去る時――、海軍塾生の龍馬たちを西郷に託した勝。

 いずれ広い海に出ていくだろうとよんだ勝の勘は、間違ってはいなかった。

「勝さあーは、坂本さぁーんこつ、現在でも想っちょっと?」

「俺らの、最初で最後の弟子だからな……」

 勝は、ふっと笑った。

 


「勝センセ、こん国は弱虫じゃ」


 

 江戸・元赤坂の勝の邸にやってきた龍馬は、そういって勝の弟子となった。

 風変わりな男だったが、龍馬に現在のこの国はどう見えているだろうか。

「あんお人は――龍になりもうした」

 西郷が、そんなことをいう。

「お前さんの口から、そんな言葉が出るとは意外だぜ」

「坂本さぁーから、聞いちょりもした。彼の姉上は、坂本さぁーが天翔ける龍となる言ってもしたと。坂本さぁーは、それは可笑しそうに笑ってもした」

「お前さんは、その話、信じるかい?」

「坂本さぁーは、現在も何処かで見とりもうそ」

 真実は異なるが、親交を深めたものにとっては龍馬は現在も何処かを飛んでいると思える。地上から海へ、そして天へ駆け上がった男は伝説になった。

 勝も龍馬本人から、一度聞いたことがある。



「勝センセ、わしは龍になるかえ?」

 龍馬の言葉に、煙管を口に運ぼうをしていた勝は虚をつかれた。

「は……?」

「うちの姉やんが、わしは龍になりゆうと言うがじゃ」

 渋面になりつつ照れ笑いする龍馬に、勝も

「お前が、龍にねぇ……」

 と、笑った。

 


 人間がどうしたら龍になるのか――。

 当時の勝は本気にしなかったが。

 この日の空も、青かった。

 勝は視線を、空に移動させた。

「なぁ? 龍馬。お前に現在のこの国は、どう見えてんだい? 強い国になったか?」

 勝のところにやってきたときは、異国船に興味津々だった青年。

 そんな彼が、明治維新へ繋げたことは間違いないだろう。

 隣国では、地上にうずくまって力を蓄えていた竜が、天に向かって飛び立っていくということを蟠龍飛騰ばんりゅうひとうというらしい。

 まさに、彼にふさわしい言葉である。

 すべての束縛から解き放たれた彼は、その高い空からこちらを笑っているかも知れない。


 この国はまだまだだ――、と。


 

 坂本龍馬――、どうしようもない泣き虫で弱虫だった土佐の少年は、龍となって地を駆け、海を駆けた。

 そんな馬鹿なと嗤う者もいたが、勝も信じる。

 彼はまさに龍となった――、と。

 現在彼は、どこを飛んでいるのだろう。

 彼のことである。

 また妙なことに首をつっこみ、頭をかいているかも知れない。

 勝は、そう思う。



 西郷との和平交渉は二回――、徳川家の存続は叶い、慶喜は寛永寺を出て、水戸にて謹慎となった。

 江戸城が開城したのは二十一日、東征大総督・熾仁親王が江戸城に入り、ここに江戸城は正式に大総督府の管下に入り、江戸城明け渡しが完了した。

 しかし――、戊辰戦争の火は消えず、それが鎮火したのは明治二年のことだった。


               ◆◆◆


 土佐・桂浜の松原。

 その松の一本に、海に向かって枝を伸ばす木がある。

 その枝も一本だけで、嵐も耐えて、折れずに海に向いていた。

 この枝は、いずれ龍となって飛んでいくのだ。

 少女は幼い弟の手を引いて、そう語る。

 桂浜の南端、龍王岬の上に立つ海津見神社の力を借りて、龍になるのをじっと待っている。

 何事も後ろ向きで、弱虫で泣き虫の弟に、少女は懇懇と聞かせる。

 お前も龍になれ――と。

 厳しい風に折れることがなかったこの枝のように、逞しくなれ。

 負けてなるものかと、歯を食いしばれ。

 強くなって、馬鹿にするものを見返せ。

 少女の言葉を、彼女の弟は泣きはらした顔で聞いていた。

 

 ときは明治――、彼女は松原で上を見上げていた。

 彼女が立った位置から上を見上げれば、ちょうど例の枝が見えるはずである。

 かつて幼い弟と見上げた、はぐれ松。

 おまんもこん枝のように逞しく強くなれと、弟を励ました場所に、彼女は再び立った。

 坂本乙女――、お仁王様と言われ強い女と言われてきたが、乙女とて普通の女と変わりしない。

 本当は寂しくて仕方がないのだ。


 乙女が見上げた先に、その枝はそこにはなかった。

 台風にも耐えた枝である。

 人の力でも、折れるような細さではない。

「おまんも、ついに龍になっちょたが?」

 乙女はかつてその枝が存在した場所を見つめ、語りかけた。

 まるでもともとそこになかったように、消えた枝。

 龍王岬の祭神は、枝を龍に変えたのだろうか。

 乙女の頬を、涙が伝う。

 彼女の弟も、龍になった。

 龍となって、誰も届かぬ高い場所に飛んでいってしまった。

 

「龍になったからと、そこにおることはならろう? 馬鹿タレ」

 抜けるような青い空であった。

 乙女は弟に龍になれとは言ったが、あまりにも遠いところに行き過ぎた。

 だが乙女にとって、自慢の弟である。

 真実などどうでもいい。

 彼は、間違いなく龍になったのだ。

 乙女はそう信じる。


 

 そんな彼女の弟の名を――、坂本龍馬という。

 

【完】

   

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蟠竜飛騰(ばんりゅうひとう)~坂本龍馬 斑鳩陽菜 @ikaruga2019

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