第9話 勝海舟という男

 文久二年師走――江戸京橋桶町・千葉道場では、ちょっとした変化があった。

 千葉佐那子いわく、兄・重太郎は鳥取藩・周旋方しゅうせんかたとなったという。

 既に彼女らの父・千葉定吉も、嘉永六年には鳥取藩・江戸詰の藩士として召し抱えられ、剣術師範に任じられていたそうで、重太郎が鳥取藩士となったのは、万延元年のことらしい。


 龍馬が越前・江戸福井藩邸から戻った翌日――、松平春嶽から紹介されたという勝海舟の名に、重太郎の顔が険しくなった。

「勝はいかん。あの男は、開国に前向きだぞ」

 重太郎は龍馬に、そういった。

 勝海舟は軍艦操練所教授方頭取ぐんかんそうれんしょきょうじゅかたとうどりとして、新たに造られた軍艦操練所で、海軍技術を教えていたという。

「重太郎さんまで攘夷論者じゃったとは、知らんかったぜよ」

「俺は異人を襲撃する真似はしないが、彼らの横暴には憤慨してるのだ」


 開国以降――、地方・農村に拠点を持つ在郷商人ざいきょうしょうにんは品物を江戸には通さず、異人たちの住む居留地へ直送し、取り引きするようになったらしい。

 結果江戸に品物が出回らなくなり、物価が上昇したようだ。

 幕府は五品江戸廻送令を発令したそうだが、在郷商人たちの反発により失策だったらしい。

 さらに日の本と異国では、金と銀の交換比率が異なっていたようで、日の本では、金一と交換するのに銀五が必要という交換比率だったが、異国では金一と交換するのに、銀は十五も必要だったらしい。お陰で日の本の金が異国へ大量に流出したらしい。


「――異国にとって、これほど儲かる国はなかろう……」

 重太郎は軽く鼻を鳴らして、幕府と異国を揶揄やゆした。

 

 幕府は金の流出を食い止めるべく、金の含有量を三分の一に減らした万延小判を鋳造したらしいが、今度は物価が上昇してしまったようだ。

 金の含有量を減らすということは、貨幣の価値を落とすということだからだ。

 勝海舟はその異国から、海防技術を取り入れようとしていると重太郎はいうのである。

「この国には天孫・帝がおわす。その神国を穢す異国に靡くなど――」

「松平さまは、そんなそげなことは言っちょっとらんかったがのう……」

 果たして勝海舟という男は、重太郎の言う通り異国に靡いているのか、そうではないのか。

 その勝海舟は、赤坂氷川神社近くに住んでいるという。

 このとき重太郎は、勝を斬る気満々だった。

 いつもは冷静な男が一旦奮起すると止まらないところは、武市半平太とよく似ている。

 

「重太郎さん、おんしはもう千葉道場の若センセだけじゃないがやき」

 龍馬は勝の邸に一緒に行くと重太郎に、そう彼を制す。

 龍馬は吉田東洋を斬る決意をした武市を止めることはできなかったが、人を斬っても解決しないという考えは、今でも変わらない。


 赤坂には江戸城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた見張り付きの城門・赤坂見附があり、高台は大名屋敷や旗本屋敷があるという。

 氷川神社の大銀杏はすっかり葉を落とし、この寒空の中、寒そうである。

「――邪魔しちゅう」

 勝家の下男だという男に案内されて、二人がその門を潜ったとき、当の勝海舟はどんと戸口に座していた。

「おいでなすったか……」

 勝は両腕を組み、胡座を組んで座っていた。

 どうやら彼は、この家に誰かが来るだろうと予想していたらしい。

「松平春嶽さまから、お主を紹介されたがじゃ」

「あの春嶽公が俺らに、ねぇ……」

 ま、上がんなということになり、龍馬は腰から刀を抜くと草履を脱いだ。

「そこで、物騒においらを睨んでいるお前さんも、とりあえず上がれや」

 勝が誰に言っているのか振り向くと、重太郎にであった。

 仁王像でもあるまいし、憤怒の顔で睨んでいたのだから、さすがの龍馬もこれには、やれやれと嘆息したのであった。

 

                   ◆◆◆


 勝海舟――、正式には勝麟太郎。

 旗本小普請組はたもとこぶしんぐみの家に生まれたという彼は、直心影流免許皆伝じきしんかげりゅうめんきょかいでんの腕だという。

 そんな中、幕府が設立した長崎海軍伝習所は生まれたらしい。

 きっかけはやはり、嘉永六年の米国メリケン艦隊来航だったようだ。

 海防体制強化のため西洋式軍艦の輸入などを決めたという幕府は、オランダ商館長の勧めにより幕府海軍の士官を養成する機関の設立を決めたらしい。

それが、長崎海軍伝習所のようだ。

 しかし、江戸から遠い長崎に伝習所を維持する財政負担が大きいことが問題となり、幕府の海軍士官養成は築地に出来た軍艦操練所に一本化されることになり、長崎海軍伝習所は閉鎖されたという。

 勝は、この長崎海軍伝習所に入門していた。


「――驚いたねぇ……、春嶽公はそこまでお前さんに喋ったのかい?」

 勝は煙草の煙をくゆらせてつつ、苦笑した。

「船のことは、詳しいと聞いちゅう」

「かいかぶりすぎだぜ。おいらは、それほど詳しくねぇよ。少しオランダ語が話せるだけさ。で、何を聞きてぇ? 言っておくがな、攘夷なんぞ通じる相手じゃねぇぜ、異国は」

 勝の言葉に、龍馬の背後で刀の鯉口こいぐちを切る音がした。

 おそらく、重太郎だろう。

 これに勝も気づいたようで、笑っていた顔が真顔になった。

「戦うにも敵のことをなんにも知らねぇで、カビくせぇ戦法でやろうなんざ、それこそこの国は滅ぶ。脅しじゃねぇぜ? 幕府だって同じこった。異国に好き放題言わせて事なかれ主義ときた。この国を強くすることを、まだ本気で考えちゃいねぇ」

このこん国を強くしゆう……」

 龍馬は呟く。

 

 勝の考えていることは、龍馬と寸分違わなかった。

 異国と肩を並べるだけの軍事力と護り――、周囲を海に囲まれているこの日の本は、改めて海に目を向けるべきだと勝はいう。

 開国してからのこの日の本は、異国からみれば丸裸。

 強く押せば何も言い返して来ぬと見て、異国はこれからも強気に出てくるだろう。

 だが鎖国に戻せば、この日の本は世界から取り残される。

 はたしてどちらが、この国のためか。

 異国の優れた技術を取り入れそれを海防に活かし、貿易で富を得るのか。

 それとも異国を再び遮断し、オランダと自国だけで富を増やすのか。

 龍馬の答えは、もう決まっていた。 


「わしも、このこん国を強くしたいがじゃ。勝センセ」

 これに重太郎が、龍馬を制した。

「おい、龍さん」

「重太郎さん、わしは決めたがやき。このセンセの弟子になるがよ」

 こうなると一直線なため、重太郎は龍馬を執拗に制してくることはなかった。

 現在の龍馬は藩に縛られてもおらず、自由のみである。

 勝海舟という新たな師との出会いが、龍馬の心を再び海に向けさせた。

 龍馬の攘夷は、ここから始まったのである。

だがこの日の本に吹く過激に向かう攘夷の風は、ついにこの国の人間までその刃に下るに至った。


 大老・井伊直弼が桜田門外で襲撃され死に至り、これは幕府の権威を失墜させたという。 公武合体により朝廷の力を借りて立て直しを図ろうとしている幕府だそうだが、今度は老中・安藤信正が坂下門外で襲撃されたという。

 それが今年の中旬――、文久二年一月十五日のことだった。

 幸い死には至らなかったそうだが、安藤信正は老中を罷免、彼が藩主に就いていた磐城平藩いわきたいらはんは二万石を減封されたらしい。

 二度も重臣を襲撃されては、幕府の威信も落ちようというものだ。


「勝センセ、これからこのこん国はどうなるがじゃろうの……?」

 幕臣・勝海舟に弟子入りした龍馬は、赤坂氷川神社近くの勝家に居候をしていた。

 午後九時夜の五ツ半――、掘割をともに歩きつつ、龍馬は月のない空を見上げた。

「さぁな。幕府の重い腰を上げさせるのに、おいらだって手こずっているんだぜ? ま、おいらと攘夷派の連中の目的は違うけどよ」

 勝いわく、公武合体によって朝廷に歩み寄ったことが、朝廷の発言力を高めたらしい。

 改革の必要があったとはいえ、外様大名にして薩摩藩主・島津茂久の父、久光の圧力と、それまで政治的実権を有していなかった朝廷の圧力により改革を強要されたことは、幕府の権威を著しく下げたという。


 これからこの国は、どこへ向かうのか――。


 それは、誰にもわからないのであった。

 

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