第8話 龍馬の想い

 文久二年十一月末――、木枯らしが吹きすさぶ東海道を、かの青年は歩いていた。

 枯れ葉を踏むたびに、くしゃりと、乾いた音がする。

 目的地は、東海道一番目の宿場・品川である。

 徳川歴代将軍の菩提寺・増上寺ぞうじょうじを過ぎて、ようやく品川に至る。

 眼前に捉えられるのは、御殿山ごてんやまである。

 

 江戸品川御殿山――その名の由来は太田道灌おおたどうかんが江戸城に入る前の長禄年間ちょうろくねんかんに、城を構えて居住していたゆえという。

 その御殿は元禄十五年に起きた火事により焼失、以後は桜の名所となったという。

 その御殿山を、彼は睨んだ。

「――高杉」

 呼ばれて、青年は振り向いた。

 

 長州藩士・高杉晋作――、萩城下・松下村塾で学んで尊王攘夷に燃える男はこの江戸で、ある行動を起こそうとしていた。

 その計画実行の仲間の一人が、高杉に声をかけてきた久坂玄瑞である。

「決めたぞ、久坂。あのときは、元徳もとのりさまに説得されて実現はしなかったが――」

 元徳とは、長州藩十三代藩主・毛利敬親もうりたかちか養嗣子ようししのことである。


 先月の十四日――。高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨いのうえかおるらは横浜異人館襲撃を計画した。異国要人を殺害し、幕府に攘夷の戦端を開かせようと企てたのである。

 しかしこれは長州藩継嗣・毛利元徳の知るところになり、計画は頓挫とんざした。

 だが彼らの計画は、これで終わりではない。

 それが、御殿山である。

 御殿山には現在、英国エゲレス公使館が建設されようとしていた。

 文久元年、幕府は英国エゲレスをはじめ諸外国の公使館を御殿山に建設することを計画したという。

 攘夷決行に燃える彼らにとって、由々しき事態である。

 なにしろ江戸城とそう遠くないこの場所に、異人を住まわせようとするのだから。


 ――このままではこの国も、清国のようになる。


 高杉はこの年の四月末――、幕府使節随行員として清国に渡っている。

 アヘン戦争に寄って英国エゲレスに大敗した清の現状は、まさに英国の領土となったがごとく、清国人は英国エゲレスの言いなりであった。

 南京条約という不平等条約によって財政が悪化、国内では貧富の差が拡大していた。

 さらに太平天国の乱という反乱が起き、清政府は自分たちの力だけでこの反乱を鎮圧することが出来ず、あろうことか英国エゲレスやフランスの力を借りたという。

 その結果、清の首都・北京は、英国エゲレスとフランスに占領されるに至った。

 それをその目で見た高杉は、帰国してからますます現在の日の本を憂うようになった。

 現在の幕府は、異国の言いなりである。

清国で起きたことは、人ごとではないのである。

「高杉、俺もやるぞ」

 高杉晋作と久坂玄瑞――、松下村塾の双璧と言われた二人は、御殿山を強く見据えた。

 幕府が動かないのなら、我々の手で攘夷を決行する。

 お互いの意思を確認した二人は、その時を待つことにした。


 御殿山に、強い風が一番吹く日を――。



                ◆◆◆


 常盤橋福井藩邸――、龍馬がここに前福井藩主・松平慶永こと、松平春嶽を訪ねたのは師走の始めのことであった。

 ここ何日か白く濁っていた空は晴れ、寒風が身に沁みた。

 この日の龍馬は、いつもの紋服に羽織を重ねていた。

 黒羽二重の紋服同様、組み合い角に桔梗の坂本家紋を両胸に白く染めたその羽織は、龍馬の父・八平が着ていたものを、姉・乙女が手直ししたものだった。

 腰にさす刀は陸奥守吉行むつのかみよしゆき、脇差しは備州長船盛光びしゅうおさふねもりみつ

 癖っ毛の髪はこの日も自由に撥ねていたが、とりあえず身なりは整えた龍馬である。


「……まさか、無礼討ちされるんじゃ……」

 同行した饅頭屋長次郎は、上目遣いで龍馬を見てきた。

「ここは福井藩邸やき、それはないじゃろ」

 藩邸の門番は二人に胡散臭そうな視線を寄越してきたが、松平春嶽の許しを得ていると告げると確認しに行った。

「けんど、わしらのようなモンに、福井の殿様が逢うてくれるとは思えんき」

 龍馬も面会を申し込んだものの、やはり無謀すぎたかと思っていた。

 なんの後ろ盾もなく、脱藩浪人となった男に松平春嶽が逢ってくれるだろうか。

 程なくして門番が戻ってきて「大殿がお逢いになる」とのことであった。

 

「……そなたが、土佐の坂本龍馬か?」

 広間に通された二人の前に、その人物は座した。

 前福井藩主にして、現在は幕府の政事総裁職となったという、松平春嶽そのひとである。

「松平さま、わしらは田舎モンですき、無礼な振る舞いをするかも知れません。けんど、このこん国を憂いちゅうことは、わかってつかぁさい」

 龍馬のこのいきなりの言葉に、春嶽は眉を寄せた。

「そなたも、異国を払い、異人と戦うつもりか?」

「始めはそう思っちょりました。けんど、わしは浦賀で見た米国メリケンの船が忘れられんがです。このこん国に、あんなあげな船はないき、わしは惹かれてしもうたがです」

 浦賀で龍馬が見た米国メリケン艦隊――、黒く巨大な船が四隻、この日の本を威圧していた。

 だが龍馬は、当時黒船と呼ばれたその船に興味津々であった。

 大船建造の禁が撤廃されて数年経つが、この国に大砲を備えた大型船はまだ少ないだろう。

 頑丈そうなその巨体は、現在も龍馬の心を捉えて離さない。

 

「ほぅ……、西洋式軍艦に惹かれたか……」

 春嶽が苦笑した。

 龍馬は、今異国と戦っても勝てないと思う。

 それこそ、隣国・清の二の舞いである。

 だが西洋式軍艦があれば、この国は強くなる。

「異国はこのこん国より、進んじょるっちゅう。異国と戦っても、このこん国は勝てんとわしは思うちょります。だからほうやき、決めたがです」

 龍馬は、思いの丈を春嶽に訴えた。

「なにをじゃ?」

このこん国を強くするがです。わしがこの江戸で砲術を習っちょりました佐久間象山センセは、このこん国に必要がは異国と同等の船を造り、海防に務めるが大事と言っちょりました」

「そなた……、あの佐久間象山の門下か?」

 佐久間象山と聞いた春嶽が、瞠目した。


 佐久間象山――、龍馬が彼の門下に入ったのは僅か三ヶ月だが、この日の本を強くする方法はあのときに、答えがあったのだ。



「異国にどうしたら勝てるかではなく、どうしたらこの国は強くなれるかだ」

異国にどうしたら勝てるか問う龍馬に、佐久間象山はそう答えた。

 そしてさらに、こう答えた。

「まずは、敵を知り己を知ることだな。異国を知れば、この国がどれだけ遅れているか嫌でも知る。君の質問の答えは、そこにあるだろうな」

 それから龍馬は故郷・土佐で、河田小龍から異国の進んだ技術を聞かされるのだ。

 岸からいくら大砲を撃っても、異国船には届かぬ。

 同じ土俵にすら立っていないこの国に、異国に適うわけがない。

 しかしこのときの龍馬は、海防強化の必要性がわかっても、声を大にして訴えることはなかった。



 あれから数年――、巷は神国・日の本を脅かす夷狄を打ち払うという、尊王攘夷の風が吹いている。

 異国の脅威を恐れるのは最もだが、恐れているだけではこの国は強くはならない。

 弱虫で、泣き虫だった幼い頃の龍馬。

 そんな彼だからこそ、この日の本が当時の自分と重なる。

 

「わしの言っちゅうことは、間違ってますかの?」

 龍馬は恐る恐る問いかけた。

「いや……。そなたのような下級武士が、この国の海防強化を考えていたとは正直驚いておる。いや、感心しておる。しかし、佐久間象山とは……」

 春嶽はなにが可笑しいのか、拳を口に当てて苦笑している。

「松平さま、わし、変なことを言っちょりましたかのう?」

「そなたに、適任な男を紹介しよう」

「それは誰ですが?」

「――勝海舟という男だ。口は悪いが、根は悪い男ではない。その男なら、そなたの想いに答えてくれよう」

 聞けば勝は、佐久間象山の門下だったらしい。

 どおりで春嶽が、苦笑したはずである。

 新たな男との出会いがなにをもたらすのか――、龍馬の心は期待に高鳴っていた。

 

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