第8話 手負の虎

 京の町を、彼は必死に駆けた。

 あいにく空に月はなく、こういう暗い夜は、天誅を行うのには都合が良かった。

 しかしこの夜、彼が最初に斬ったのは、彼を捕らえに来た幕府の役人・幕吏ばくりだった。

 たちまちその身は、返り血で染まった。

「逃がすな! なんとしても、岡田以蔵を捕らえるのだ!!」

 幕吏たちが叫ぶ。

「まったく、しつこい奴らじゃ……!」


 人斬り以蔵の名は、幕府要人ばくふようじんを斬られている幕府側でも知れ渡っているようだ。

 捕まればどうなるか、以蔵にはわかっていた。

 だが自分のしたことは、間違っていないとも思っている。

 心から慕う武市半平太のため、土佐を変えようとする勤王党のため、攘夷を阻もうする人間を、以蔵は粛清しゅくせいした。

 


 ――以蔵、人を斬っちょっても、土佐は変わらん。


 以前、久しぶりに顔を合わせた龍馬から、以蔵はそういわれた。

 土佐勤王党のやり方を非難され、以蔵は憤った。

「武市センセは、お主を頼りにしちょうてたがじゃ。坂本さん、わしは武市センセを信じちゅう。わしは、土佐勤王党を裏切らんきに!」

 この以降、以蔵は龍馬と会ってはいない。


 

 その龍馬から護衛を託された、勝海舟からも似たようなことをいわれたが、以蔵の決心は変わらなかった。

 四条大橋の上で、以蔵は肩で息をしながら刀を構えた。

 周りは追いついた幕吏に囲まれ、退路はない。

「岡田以蔵、観念せよ!!」

 

 幕吏が、以蔵に迫ってくる。

 一人斬り、二人斬り、以蔵は幕吏を倒していく。

 この夜も、以蔵の剣は冴えていた。

 土佐では武市道場で小野派一刀流を、江戸では士学館にて、鏡心明智流を学んだ腕である。まさかその腕を、こうして振るうことになるとは以蔵は思っていなかったが。

 

「……ほんとうに……、しつこい奴らじゃ」

 なかなか開かぬ退路に、以蔵は血で滑る刀・肥前忠広ひぜんただひろの柄を握り直した。

 

                 ◆


 この日も空は晴れ、兵庫津には、幕府艦ばくふかん黒龍丸こくりゅうまるが停泊していた。

 黒龍丸は当初、福井藩の蒸気船だったらしい。

 その後、幕府の人員輸送に従事するなど事実上幕府の輸送船となり、最終的に幕府へ金四万五千両で売却され、幕府海軍所属となったという。

 

 龍馬はこの黒龍丸に尊攘派志士を乗せて、蝦夷を目指す予定であった。

 だが、その尊攘派志士と新選組との池田屋での乱闘が、障害となりつつある。

 そもそも神戸海軍操練所で、海軍塾生が学ぶことに、幕府は難色を示してきたらしい。幕臣でもなく、藩士でもなく、ほとんどが下士や浪人の塾生には海軍操練所に入る資格はないというのが、幕府の言い分だそうだが、勝海舟は平等に学ばせるべきだと、彼らを黙らせたという。

 だが池田屋にいた尊攘派志士のなかに、海軍塾生がいたことを幕府は掴むだろう。

 しかし勝は、己に火の粉が降りかかる心配より、他のことを気にしていた。


「このあと、なにごともなくすめばいいが――」

 勝は眉間にしわを刻み、煙草の煙を吐いた。

「まだなにか、あるっちゅうが? センセ」

「おめぇも知っているとおり、長州は異国と二度も戦って敗れた。京では藩主とのさまごと国許まで追われ、彼らは追い詰められている。攘夷を諦めていればいいが、おいらはそうは思わねぇ。ま、おいらの杞憂きゆうに終わればいいが」

 

 龍馬も、その点は気になっていた。

 聞けば馬関海峡は、現在も異国船に対して閉じているという。

 通行しようものなら、またも撃って出るつもりなのだろう。

 されど、都から追われ、朝廷からも切り離され、二度に渡る異国による報復戦で長州藩は追い詰められた。

 再起の時を考えていても、おかしくはない。

 

 龍馬は再び、京に向かった。

 一人でも多くの友を救うため、危険な夜の町に出た。

 各藩邸が犇めき合う四条河原町――、事件があった池田屋も近いという。

 亥の刻――、人通りはなかったが、龍馬は途中から背後に人の気配を感じていた。

 付かず離れず、その気配はぴったりと龍馬に歩調まで合わせてくる。

 はたして何者か――。

 龍馬は腰の陸奥守吉行に手を添え、鯉口こいくちを切った。

 咄嗟とっさに町家と町家の間の路地に飛び込むと、その気配に向かって刀を振り下ろした。


「――わしに、なんぞ、用かえ?」

 龍馬の刀は、男の眼前で止まっていた。

 男は網代笠あじろがさ目深まぶかに被り、口だけが覗いた。

「剣の腕は、衰えていないようだな? 坂本どの」

「その声は……、桂さんかえ?」

 男は笠を外すと、笑んだ。

 男は、間違いなく桂小五郎であった。

  

                 ◆◆◆


「――桂さん、人が悪いぜよ。危うく斬るところじゃったがよ」

 龍馬が逗留とうりゅうする四条河原町の旅籠にて、龍馬は桂と杯を傾けた。

「君は、むやみに人を斬る男ではないと思っている」

「そんじゃけんど、後ろから付けてこられると怪しいと思うがやきに」

「坂本どの、蝦夷を目指す件だが、こちらは難しくなった」

 桂から龍馬の蝦夷改革計画に長州の尊攘派志士も混ぜてほしいといわれたのは五月末のことである。

「池田屋でのことは、聞いちゅう。土佐のもんもいたきに」

「現在の長州藩は、手負いの虎だ」

 長州の尊攘派志士の暴走を、桂も恐れているらしい。

「桂さん、釈迦に説法かも知れんが、攘夷は無駄じゃ。けんど、わしは幕府の味方でもないき。現在の幕府は揺れ動いちゅう。そんな幕府に一連の騒動を収める力はないがよ」

「坂本どの、私には幕府は朝廷に政権を返すべきだと、聞こえるが?」

 

 大政奉還は時期尚早かも知れないが、現在の幕府は異国と朝廷の板挟みとなり、薩摩藩国父・島津久光によって幕政改革まで迫られた。

 幕府の威信は、ないにも等しい。

 龍馬はそのことを桂にはいわず、視線を杯に落とした。

 

「わしはただ、これ以上人が争うて、死んでいくのは見たくないだけじゃ」

 

                  ◆


七月――、夏とも思えぬ涼しい風が吹いている。

 昼間は忙しなく鳴いていた蝉も、夜となるとなりをひそめた。

 池田屋での事件は、長門ながと・萩にいた長州藩尊攘派志士の怒りを煽った。

 長州藩としては宮門警衛の任を解かれ、禁裏への出入りを禁じられ、藩主・毛利敬親もうりたかちかは謹慎処分にまでなった。

 朝廷の力がなくば、攘夷を行ったとて、藩の力は回復はしない。

 ただでさえ、米国メリケン、フランスとの砲撃戦で痛手を被っているのである。次期海戦に向け、朝廷の支えは失うわけにはいかなかった。

 萩にいた久坂玄瑞も、池田屋事件には衝撃を受けた。

 問題は池田屋にて尊攘派志士を一掃したのが、長州藩を京から追いやった会津藩傘下・新選組だったことだ。

「松平容保、許さぬ!!」

 会津藩主にして京守護職・松平容保を斬るという声が、仲間たちに広がる。

 ともに京から追われた七卿の一人・三条実美は、武力を以て京に向かうべきだと主張する。

 このとき、久坂玄瑞は迷っていた。

 

 先の政変時――、藩内では事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴えようとする進発論が論じられた。進発論を主張したのは長州藩士・来島又兵衛きじままたべいらであり、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重な姿勢を取るべきと主張した。

 慎重論を重く見た長州藩は、率兵上京を延期する代わりに来島を視察の名目で京都に向かわせた。

 聞けば京の長州藩邸に入った来島は、火消装束や鎖帷子などを購入し、会津藩主・松平容保への襲撃を企て、警備が厳重だったため実現しなかったらしい。

 そこに、池田屋事件である。

 

 このままでは、長州藩はこの国から消える。

 毛利家は絶え、藩士は路頭に迷うことになるだろう。

そんな迷う久坂玄瑞の背を、高杉晋作が押した。

 

「――以前のお前なら、率先して動いていたな」

 高杉はそう苦笑した。

 文久二年の品川御殿山での英国エゲレス公使館焼き討ちのときも、馬関海峡で攘夷を実行したときも、久坂は攘夷に熱心だった。

 だが久坂玄瑞という男は一見、過激尊攘派と思われがちだが、実は慎重派だった。

「攘夷を、諦めたわけじゃない。ただ、長州藩全体を罪に問われるのは我慢ならん」

「ならばなぜ、挙兵を躊躇う?松蔭先生の言葉を一番口にしたいたのは、お前だったではないか。久坂」

「高杉……」

 師・吉田松陰は、志を持った在野の人々が一斉に立ち上がり、大きな物事を成し遂げよと説いた。

 ゆえに久坂は、立った。

 これからほどなく、久坂たちは長州藩の名誉挽回を目指し、京へ進軍を開始したのである。

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