第7話 池田屋騒動の余波

 京・河原町――。

 男がその料亭を訪れたのは、午後十九時夜の六ツ半のことであった。

 新堀松輔しんほりまつすけ――、男は料亭の主にそう名乗った。

 連れが先に来ているはずだというと、店主はわかったのか二階に新堀を案内した。

「お客はん、お連れはんがお見えです」

 中からの返事はなかった。

 新堀は主を下がらせ、障子を開けた。

「――桂さん、ご無事でしたか……!」

 障子を開けた途端、男が声を弾ませた。

 中にいたのは、有吉熊次郎という長州藩士である。

「有吉くん、現在の私は新堀だよ。何処に、追っ手の目があるかわからないからな」

 新堀松輔――、それが桂小五郎の仮の名である。

 政変後――、長州藩邸は人の出入りはなくなり、主だった長州藩士は国許に追われ、京にしぶとく残っているのは再起をかけて潜伏している者たちであった。

 その計画が練られたのは七日前――、祇園祭前――、風の強い日を狙って御所に火を放ち、混乱に乗じて青蓮院宮改め、中川宮朝彦親王を幽閉した上で、将軍後見職・一橋慶喜、京守護職・松平容保らを暗殺し、帝を長州へ連れ去る、というものであった

 実行に至るお互いの意思確認と実行の日を決めるため、集まることになったのが河原町の旅籠・池田屋であった。

 

「桂さん、今回の計画失敗は、実に残念です……っ」

有吉熊次郎は、そう唇を噛んだ。

 この男は当時池田屋にいたが、脱出して難を逃れたという。

 実は桂も池田屋での会合に、参加するはずだったのだ。

 だが会合への到着が早すぎたため、桂は一旦池田屋を出て、対馬藩邸で大島友之允と談話していたため難を逃れたのであった。

 

「どうして、計画が漏れたのだ?」

「古高俊太郎ですよ。まさか、新選組にあの男が目を付けられていたとは」

 古高俊太郎は京・河原町で筑前福岡藩黒田家御用達・枡屋を継ぎ、枡屋喜右衛門として古道具、馬具を扱いながら、情報活動と武器調達にあたっていた男であった。

 新選組に捕らえられた彼は、計画を自白したらしい。

 

「私としては、未遂で終わったことは良かったと思っている」

 桂の本音である。

 この計画を打ち明けられた時、桂は乗り気ではなかった。

 計画が失敗すれば、同郷の志士たちが散る。

 桂も攘夷派だが、どちらかというと慎重派である。

 公武合体派は三条実美ら七卿と長州藩士を京から追っても、警戒の網は張っているだろう。案の定、計画は露見した。

「どうしてですか!? 我らを京から追いやったのは、青蓮院宮を含む幕府よりの公家と、会津と薩摩じゃ!!」

「帝を危険に晒すことになったのだぞ?」

 御所に火を放つということは最悪、朝敵となる恐れがある。

「ですが――、このままでは気が収まりません!」

 有吉は拳を震わせ、桂に訴える。

 もはや、桂に彼らの暴走を止める術はない。

 桂は、嫌な予感がした。

 国許にいる久坂玄瑞たちが、この池田屋事件をどう思うか――。

 この日の月は、桂の心を表すかのように霞んでいた。

 

                    ◆◆◆


 ――坂本さん、蝦夷っちゅうがは、まだ手つかずの地じゃ。けんど、さらに北にあるロシアっちゅう異国が、この蝦夷を狙っちゅうという噂じゃ。この蝦夷を開拓し、異国の脅威に備えんとえらいことになるがよ。


 龍馬にそう言ったのは、北添佶磨きたぞえきつまである。

だが蝦夷地開拓を龍馬にそう語った彼は、もうこの世にはいない。

 京・河原町旅籠、池田屋で起きたという事件。

 海軍塾・塾生であった、北添佶磨と望月亀弥太の二人が、池田屋での、尊攘派の会合に参加していた。

 踏み込んできた新選組と乱戦の末、北添佶磨は自刃、望月亀弥太は池田屋の外で自刃して果てたという。

 池田屋には彼ら以外に、龍馬と同郷の志士も多くいたらしい。

 彼らが何故、そこに集まっていたのか――、おそらく失地回復の決起でも起こそうとしていたのだろう。

 またも、龍馬は仲間を失った。

 国を護る想いをどこにぶつけるかによって、結果は変わる。

 京を突然追われた彼らの悔しさを、龍馬はわからぬわけではない。

 だが力で押し通そうとすれば、相手も力でこれを阻む。国を護りたいということに関しては、攘夷派も公武合体派も同じだろう。

 だが幕府は異国と有力大名、さらに朝廷との間で右往左往し、尊攘派は攘夷に尻込みする幕府に対して、帝さえ巻き込んで武力で抑え込もうとする。

 これではこの日の本は、一向に強くはならない。


 蝦夷地に尊攘派志士かれらを連れて行く――、龍馬が描いた蝦夷開拓の夢。

 だが、暴発する彼らを食い止める間もなく、多くの者が散った。

 池田屋での事件を聞いて、龍馬は京に入っていた。

 伏見・寺田屋の二階で、龍馬が見ていたのは眼下を流れる高瀬川である。

 午後二十一時夜の五ツ半――、川面は店から漏れる灯りを映し、川岸の柳が風に揺れていた。

 

「龍馬はん、うちはここにいてええのやろか?」

 龍馬は、その声に振り向いた。

 龍馬に声をかけてきたのは楢崎龍である。

「気にせんでええ。ここはわしの定宿じゃきにの。それに無関係な、おまんらまで、騒動に巻き込むわけにはいかんがじゃ」

 池田屋事件後――、龍馬たちが隠れていた大和大路通・河原屋五兵衛宅にも捕り方が来たという。

 龍馬はお龍とその母・貞、お龍の妹を救うため、それぞれを知り合いに託した。

 お龍は寺田屋女将・お登勢に預けることにしたのだが、お龍は落ち着かないらしい。

 寺田屋・お登勢はあの寺田屋騒動の際には、お登勢もその場にいて必死に帳場を守ったという。

 龍馬という男は、よほど気丈な女性に縁があるようだ。

「でも、女将はんに、申し訳のうて……」

「お登勢は、おまんを気にいっちゅう。それに、ここじゃと、わしも安心じゃき」

 龍馬の言葉に、お龍が「え……」と小さく呟いた。

「お龍、わしには夢があるがよ」

 再び、高瀬川に視線を戻した龍馬は呟いた。

「夢……どすか?」

「いつか、大きな船で海を渡るがじゃ」

 この日の本が落ち着きを取り戻した時――、己の船で広い海を駆けてみたい。

 浦賀で初めて異国船を見た日から、船への憧れは捨ててはいなかった。

「やっぱり龍馬はんは変わってはる」

 お龍は、笑った。

「そうかの……」

「世のお侍はんは、攘夷と叫んではります。しまいには斬り合いや。なのに龍馬はんは、船の話をなはる」

「わしかて、この国を考えておらんわけじゃないがよ。けんど攘夷より、この国を強くするのが肝心じゃと思うちょる。これからの世は、侍かて海に出るがじゃ」

「海を、見てみとうおすなぁ。うちはまだ、一度も海を見たことがおへんさかい」

「なんじゃ。海を見たことがないが?」

「そんな余裕はなかったんどす」


 安政の大獄以降――、楢崎家は困窮し、妹・光枝が人に騙され、大坂の女郎に売られると知ったお龍は、着物を売って金をつくると大坂に下り、刃物を懐に抱えて死ぬ覚悟で男二人を相手に啖呵を切って、妹を取り返したという。

「大した女子おなごじゃ」

「女だてらにと、思うておすか?」

「いんや。頼もしいと思うちゅう」

 己には、こうした強い女が似合うのかも知れない。

 龍馬はお龍に対して、運命のようなものを感じていた。

 

                   ◆

 

池田屋事件の衝撃は、さらに西へ伝わった。

 長門・萩――、長州藩のお膝元である。

 政変によって、都から長州へ戻らざるを得なかった長州藩士たちは、さらに怒りの炎を燃やしていた。

 池田屋での、彼らの計画が実行されていればまだ少しはマシだったが、計画は実行されることなく、新選組によって仲間の多くを失った。

 その新選組の裏にいるのは、自分たちを都から追いやった会津である。

 その会津と手を組んだ薩摩は、英国と戦ったのはいいものの、開国に転じたという。

「このまま、引っ込んでいるわけにはいかん」

「そうじゃ。殿まで罪に問うとは、見過ごせん」

 

 政変後、長州藩主・毛利慶親と世継ぎ・毛利定広は謹慎の沙汰が下っていた。

 二人が、なにをしたというのか。

 それまで黙していた久坂玄瑞は、ゆっくりと口を開いた。

「殿の冤罪を、帝に訴えようぞ!!」

 再び京へ――。

 それは月が変わろうという、六月末のことであった。

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