第12話 西郷吉之助、倒幕を決意す!
薩摩藩国父・島津久光が藩兵七千を率いて上洛したのは、四月十二日のことである。
目的は、四侯会議である。
薩摩藩はこれまで、一環として公武合体を貫いてきた。
朝廷・幕府・雄藩の政治的提携は亡き前藩主・島津斉彬の遺志であり、弟である久光は実現のため動いてきた。
だが思わぬ相手が、久光とぶつかることになった。
将軍・徳川慶喜である。
五月十四日、――会議の場は二条城に移り、長州問題と兵庫開港問題のどちらを優先するかが、まず争点となった。
「――上様、長州藩主・毛利敬親どのが世子・広封どのへ家督を譲り、十万石
島津久光は慶喜に対し、
「それでは、幕府の非を認めることになる。兵庫開港の期日が迫ってきているゆえ、兵庫開港問題を優先すべきじゃ」
慶喜の反論に、またか――と、久光は唇を噛んだ。
実は久光と慶喜は、過去に因縁がある。
三年前の
そしてまたも、久光の前に将軍となった慶喜が立ち塞がった。
結局妥協が見られぬままこの日は 慶喜と久光の対立で会議は
公武合体がもう意味をなさないことを、久光が実感した瞬間である。
◆
四侯会議が幕府有利で進んだことは、大久保一蔵を通して西郷吉之助にも伝わった。
「思った通りじゃ」
島津久光とともに上洛し、京・薩摩藩二本松藩邸に入っていた西郷は、ふんっと鼻で
四侯会議周旋に動いた西郷だが、失敗したとしても損は感じない。
「吉之助さぁー、どけんすっと?」
大久保が不安げな顔を寄越す。
「幕府はもはやあてにならん。こんままでは、こん国は潰れっぞ。一蔵どんも、肚を決めたもんせ。幕府を倒す以外、こん国を救う道はなか」
西郷の言葉に、大久保は眉間に皺を刻んだ。
幕府が以前から、薩摩を警戒していたことは西郷も知っていた。
結果として四侯会議は、西郷の思惑通りになった。
公武合体を推進する島津久光の意思を倒幕に傾けるには、その目で幕府の現状を知ることが、説得するより早い。
しかも久光の性格は頑固であり短気、何度か彼と衝突した西郷だからこそ知る久光の性格だが、この短気な性格が今回は幸いしたようだ。
案の定、将軍・慶喜公と真っ向から衝突したらしい久光は、薩摩藩二本松藩邸に戻ってからもしばらく機嫌が悪かったという。
そんな西郷に、以前から倒幕の決意を促してくる男がいた。
土佐の、中岡慎太郎である。
だが土佐藩は薩摩と同じ公武合体でありながら、薩摩ほど幕府には批判的ではないらしい。
――
中岡は、そういって苦笑していた。
「じゃっどん、薩摩だけでは
「土佐の中岡さぁーは、土佐にも倒幕の士がいるとゆっぞ」
長州藩ではなく土佐藩倒幕派と組むという西郷に、大久保はまだ納得していない顔だったが、もはや西郷に徳川に未練はなかった。
◆◆◆
龍馬たち伊呂波丸乗員が下関を経由して長崎に戻ってきたのは、慶応三年五月十三日のことであった。
鞆の浦での交渉に続き、長崎で交渉が開始されたのはそれから二日のことであった。
紀州藩との交渉戦、第二幕である。
交渉場所は長崎・
聖福寺は
龍馬はここでも万国公法に則り、議論すると言った。
長崎においても、交渉相手は高柳楠の助であった。
高柳は、この長崎でも険しい顔である。
「わが藩としては、昨日の議論書を奉行所へ差し出し、その命に応じて議論を行いとうござる」
高柳も一歩も引かない。
はっきりいって、海援隊が非を認めれば一件落着なのだが、龍馬としてはここはそうはいかない。失う信頼と課せられる莫大な賠償金は、海援隊を
――そろそろ、
龍馬が頼りとする万国公法――。
まだ廻船式目が海法となっているこの時代、紀州藩が英文で書かれた万国公法を和訳すれば、非はどちらにあるかはっきりする。
議論は、後藤象二郎に一旦受け継がれ、龍馬は畳の上に大の字になった。
伊呂波丸事件で、妻・お龍とは顔を合わせる暇もない。
お龍は現在、下関の豪商・伊藤助太夫宅にいる。
今年の一月、龍馬はお龍とともに伊藤家に寄宿するようになった。龍馬はこの部屋を
海を駆けたい龍馬だが、肝心な船はまたも海に消え、世は龍馬になにかと試練を強いてくる。
廊下に出ると、軒から覗いた日差しに思わず目を
そんな長崎の花街に、妙な
♪船を沈めたその償いは~金を取らずに国を取る♪
「妙な謡」
花街・丸山を訪れた龍馬の側で、馴染みの芸姑・お
「そうじゃが、面白い謡じゃ」
龍馬は盃を傾けながら、そういった。
目の前には卓袱料理が並んでいたが、龍馬が啄んでいたのは大鉢の煮物である。
龍馬は謡の意味を理解していたが、知らないフリをした。
まさかこの謡が、実は龍馬の作戦であることはお元も知らない。
長崎にいる明光丸の高柳たちは、この謡を聞いて、どういう反応をするだろう。
龍馬の半生において、たった一つの闇の部分。
海援隊を救うため、御三家・紀州藩を相手に取った大博打は、
早くこの国を立て直したいが、この問題はまだ長引きそうであった。
◆
政局が京を中心に動き始めた一方で、江戸は平穏であった。
五月も半ばとなると、日輪は高く昇り、しっとりと汗をかく日がある。
江戸・築地土佐藩邸も、これまで変わったことは起きなかった。
一年前までは――。
そんな藩邸の廊下で、
「乾どの――」
声を掛けられて慌てて口を閉じるが、その声を掛けてきた本人は深刻そうな面立ちで立っていた。
「どういたが? 中村どの」
乾に歩み寄ったのは、水戸藩士・中村勇吉という男だった。
「我々は果たして、大丈夫なのでござるか?」
彼の大丈夫なのかという確認は、幕府の役人に見つからないかということだろう。
このとき土佐藩築地藩邸には、乾によって水戸天狗党の数名が匿われていた。
それが一年前である。
中村は横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った水戸藩士・藤田小四郎の
俗に言う、天狗党の乱である。
江戸に逃れてきた彼らは、乾を頼ってきた。
惣預役であった乾は、参勤交代で藩主らが土佐へ帰ったばかりで、藩邸に人が少ないのを好機として、独断で彼等を匿ったのである。
「おんしらを、幕府に売るつもりは、わしにはないがよ。それじゃったら、とっくにしゆう。けんど、そろそろここも安全じゃなるじゃろ」
この乾の言葉に、中村の顔が引き攣った。
「乾どの――!」
「心配せんとき。おんしらを預かったこの乾、責任は果たすがやきに」
そんな乾の元に、京から文が届いた。
送って寄越したのは、中岡慎太郎だった。
――どうやら、時がきたようじゃの。
乾がいう時とは、幕府の終焉を意味していた。
中岡の文では、薩摩藩の一部が倒幕に傾いているという。
西国屈指の雄藩が倒幕に傾けば、幕府にとっては大打撃になろう。
乾はこれを受け、京へ旅立ったのである。
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