第11話 龍馬の大博打、負けられない交渉戦
紀伊国と伊勢国の南部を治めていた紀州藩は、徳川家康の十子にあたる
特に紀州徳川家は、他の尾張と水戸の御三家の中でも、徳川宗家と関係が密接で、三代藩主の
御三家藩祖は、いずれも徳川家康の男子を始祖とし、家康の血を引く親藩の最高位にあり、徳川姓を名乗ること、三つ葉葵の家紋使用が許された別格の大名家であった。
将軍家に
ゆえに、血統の上で将軍家に近く、紀州藩の地位は重かった。
だが開国によって、御三家といえども西洋式に変える必要に迫られた。
そんなときに紀州藩が購入したのが、明光丸だった。
さらに幕府軍による長州藩討伐戦争により、艦船の有効性及び兵制改革の必要性を実感した紀州藩は、グラバー商会から軍艦コルマントル号を購入することになった。
だが購入に関して不正が発覚し、この処理のため、藩命を受けた紀州藩・
伊呂波丸との海難事故は、そんな途上で起きた。
――こんな時に……。
明光丸船長・高柳楠之助は、思わぬ足止めに苛立っていた。
明光丸としては、最善の策を施した。
衝突した相手の船員を救助し、船の修理もさせようとした。
海の上では右側航行が基本である。
本来であれば、向こう側は右舵を取る必要があったのだ。
高柳はこのとき、この交渉はすぐに終わると信じて疑わなかった。
◆◆◆
交渉場所となった
幕府の
龍馬がかの地で宿としたのは、土佐藩・薩摩藩・大洲藩とも取り引きがある
交渉場所は
恐らく無礼と思ったのだろう。彼らの顔は渋面である。
身分で言えば紀州藩側の方が上、龍馬は脱藩放免となったが浪人を貫いている。
後藤象二郎などは藩士になればいいものをと勧めてきたが、龍馬は宮仕えは御免である。
先に口を開いたのは、高柳であった。
「坂本どの、我々は藩命にて急ぎ長崎に向かわねばならぬ。今でなくともよいと思うが」
「それはこちらも同じじゃ。あの船には土佐藩から請け負った荷が積んじょった。それが今では海の底じゃ」
苦笑する龍馬の前で、高柳の顔は険しくなっていく。
龍馬としても、この交渉に負けられなかった。
大洲藩から借用中の伊呂波丸沈没により、海援隊は大洲藩・紀州藩両藩から多額の賠償を求められるだろう。
龍馬にも、わかっているのだ。
本当は、伊呂波丸に非があることは。
勝海舟の下で、航海術を学んでいればあのときどうすればよかったか、知らぬわけではない。龍馬の失敗は面舵ではなく、取舵を命じたことだ。
それは反省すべきだが、ここは非を認められない。
認めてしまえば、今度こそ海援隊は潰れる。
たった一度の過ちだが、されどその過ちで寄せられる信頼は失うこともあるのだ。
「我々に非があると……、申すか?」
「
龍馬は言い切った。
万国公法――、この日の本ではまだ珍しかった国際法を期した書である。
この国の海法といえば、廻船式目だが、これに蒸気船の事故は書かれてはいなかった。当然である。廻船式目は豊臣秀吉の時代から徳川開府にかけてのものだからだ。
龍馬は勝海舟の弟子となったときから、この万国公法を手に入れていた。
万国公法は、さすがの紀州藩側も知らなかったらしい。
唇を噛んで押し黙った。
龍馬は、さらに勝負に出た。
龍馬の、一か八かの大博打である。
「この度の議論は、両者の船員のみでは決着が着かんき、紀州藩と土佐藩の上役の論が定まる迄は、鞆の浦に留まっとぉせ」
龍馬がいう土佐藩の上役とは、後藤象二郎のことである。
一刻も早く長崎に行きたそうな紀州藩側は、終始渋面だった。
相談するゆえ、暫し待たれよということになった。
「龍馬さん、ええのか? あげなことをいって……」
「これは戦いぜよ。負けるわけにはいかんがよ」
不安げな海援隊士を他所に、龍馬は去っていく高柳の背を睨んでいた。
二十五日――、龍馬はさらに勝負に出た。
ここでの龍馬の主張は、主に二つである。
一つ目は、いろは丸の沈没により、山内容堂の用が果たせないため、紀州藩から一万両を借用した上で主君の用事を達したいこと。二つ目は、衝突した両船の航海上の正否を、各国の船が集まる長崎にて議論し、明らかにしたいことである。
この要求に、紀州藩士・高柳楠之助の顔がまたも険しくなった。
「待たれよ。かような金子は持ち合わせはござらん」
敵はしぶとい。
高柳は別の提案として、一万両を現金で用意することは難しいために、品物を貸すことで受け取ってほしいという。
――なるほど、そうきちゅうか……。
だが、龍馬は妥協はしなかった。
折れたのは、紀州藩側だった。
高柳とともにやって来た紀州藩士・
これまで、一万両については品物で受け取るようにとの主張だったが、ここでは上役の許可が下り、一万両を借用する事が決まったと。
だが、そのあとがいけなかった。
成瀬は一万両を借用するための証文を書けという。
読んだ龍馬は驚いた。
証文には、国に帰れず困っているために、船の事に関係なく長崎に於いて返済の期限を立て、お借りさせて下さいとあったのだ。
「――これでは、海援隊が全部悪いと見て取れゆう。やはり、長崎で交渉しかないじゃろうの」
鞆の浦の交渉は、海援隊側の勝利と言っていいだろう。
だがこれで終わりではない。
紀州藩船・明光丸が長崎に向けて出港したのは、二十七日のことだった。
龍馬たち海援隊は船便を得ると、明光丸に遅れること三日後、鞆の浦を離れた。
◆
京・ 油小路二条――、二条城から堀川通りを挟んだ反対側にあるここにある藩邸がある。 藩祖は徳川家康の次男であった
この福井藩に、薩摩藩国父・島津久光が入ったのは五月のことであった。
「――久しぶりでござる。島津どの」
福井藩前藩主にして政事総裁職であった松平春嶽が、久光を出迎えた。
「上様は、お待ちか?」
「いや、上様との会議は二条城となろう」
十五代将軍・徳川慶喜――、かつて将軍後嗣を巡り、薩摩藩前藩主・島津斉彬は当時、一橋慶喜と名乗っていた彼を推していた。
結果的に反対派が押す家茂が将軍となったが、その家茂公が二十一歳という若さで逝去、慶喜が将軍となった。
すでに宇和島藩の
ここに、四侯会議が始まる。
四侯会議序盤の議題は朝廷の人事で、当時欠員となっていた議奏の補充を巡り、親幕府派の摂政・
議奏とは太政官が政務に関して審議し、結論が出た事柄について、天皇に上奏する役職である。
久光は以前から懇意の
「先帝の
という。
慶応二年――、長州征討が幕府軍の敗北に終わったのをきっかけに、尊攘派公家を朝廷に復帰させるべきであるという声が、朝廷で大きくなっていったという。
こうした中で、追放されている公家の復帰・朝政の改革など国事につき建言するため、公家二十に名が朝廷に押しかける
しかし、亡き孝明帝はこれを退け、逆に二十に名に対して謹慎等の処分を下したという。
この二十二名に、大原重徳と中御門経之がいたのである。
先帝の叡慮を持ち出されては話にならない。
「それならば先帝の叡慮に従い、上様が要求される兵庫開港も断然拒否なさるか!?」
「暴論じゃ」
「暴論とはいかなる趣意か!」
口論の末に結局、議奏人事は
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