第11話 龍馬の大博打、負けられない交渉戦

 紀伊国と伊勢国の南部を治めていた紀州藩は、徳川家康の十子にあたる頼宣よりのぶを藩祖とし、徳川御三家の一つである。

 特に紀州徳川家は、他の尾張と水戸の御三家の中でも、徳川宗家と関係が密接で、三代藩主の綱教つなのりが正室に、五代将軍・徳川綱吉の娘の鶴姫を迎えた頃から徳川宗家との関係が深まったという。


御三家藩祖は、いずれも徳川家康の男子を始祖とし、家康の血を引く親藩の最高位にあり、徳川姓を名乗ること、三つ葉葵の家紋使用が許された別格の大名家であった。

 将軍家に後嗣こうしが絶えた場合、尾張家か紀伊家から養子を出すことになっており、実際に七代将軍・家継いえつぐが八歳で死去し、八代将軍として紀伊家から吉宗が養子に迎えられて以降、十四代将軍・家茂までは紀伊家の血筋である。

 

 ゆえに、血統の上で将軍家に近く、紀州藩の地位は重かった。

 だが開国によって、御三家といえども西洋式に変える必要に迫られた。

 そんなときに紀州藩が購入したのが、明光丸だった。

 さらに幕府軍による長州藩討伐戦争により、艦船の有効性及び兵制改革の必要性を実感した紀州藩は、グラバー商会から軍艦コルマントル号を購入することになった。

 

 だが購入に関して不正が発覚し、この処理のため、藩命を受けた紀州藩・高柳楠之助たかやなぎくすのすけと勘定奉行の茂田一次郎しげたいちじろうらが明光丸に乗船し、長崎へ向かうこととなったのである。

 伊呂波丸との海難事故は、そんな途上で起きた。

 

 ――こんな時に……。

 

 明光丸船長・高柳楠之助は、思わぬ足止めに苛立っていた。

 明光丸としては、最善の策を施した。

 衝突した相手の船員を救助し、船の修理もさせようとした。

 海の上では右側航行が基本である。

 本来であれば、向こう側は右舵を取る必要があったのだ。

高柳はこのとき、この交渉はすぐに終わると信じて疑わなかった。


              ◆◆◆

 

 交渉場所となったともうらは、古くから港町として整備されてきた町だという。

 幕府の国賓こくひんであった朝鮮の使節団・朝鮮通信使ちょうせんつうしんしが四度来航するなど、鞆の浦は港町として重要な位置付けにあり、風と潮の流れを利用し航行する帆船の時代には、潮の満ち引きを待つ船などが集まるようになったらしい。

 

 龍馬がかの地で宿としたのは、土佐藩・薩摩藩・大洲藩とも取り引きがある桝屋清右衛門宅ますやしんうえもんたくである。

 交渉場所は魚屋万蔵宅さかなやまんぞうたく――、龍馬はやって来た紀州藩士たちの前で腕を組んだ。

 恐らく無礼と思ったのだろう。彼らの顔は渋面である。

 身分で言えば紀州藩側の方が上、龍馬は脱藩放免となったが浪人を貫いている。

 後藤象二郎などは藩士になればいいものをと勧めてきたが、龍馬は宮仕えは御免である。

 先に口を開いたのは、高柳であった。

 

「坂本どの、我々は藩命にて急ぎ長崎に向かわねばならぬ。今でなくともよいと思うが」

「それはこちらも同じじゃ。あの船には土佐藩から請け負った荷が積んじょった。それが今では海の底じゃ」

 

 苦笑する龍馬の前で、高柳の顔は険しくなっていく。

 龍馬としても、この交渉に負けられなかった。

 大洲藩から借用中の伊呂波丸沈没により、海援隊は大洲藩・紀州藩両藩から多額の賠償を求められるだろう。

 

 龍馬にも、わかっているのだ。

 本当は、伊呂波丸に非があることは。

 勝海舟の下で、航海術を学んでいればあのときどうすればよかったか、知らぬわけではない。龍馬の失敗は面舵ではなく、取舵を命じたことだ。

 それは反省すべきだが、ここは非を認められない。

 認めてしまえば、今度こそ海援隊は潰れる。

 たった一度の過ちだが、されどその過ちで寄せられる信頼は失うこともあるのだ。

 

「我々に非があると……、申すか?」

万国公法ばんこくこうほうに、そう書いちゅうき」

 龍馬は言い切った。


 万国公法――、この日の本ではまだ珍しかった国際法を期した書である。

 この国の海法といえば、廻船式目だが、これに蒸気船の事故は書かれてはいなかった。当然である。廻船式目は豊臣秀吉の時代から徳川開府にかけてのものだからだ。

 龍馬は勝海舟の弟子となったときから、この万国公法を手に入れていた。

 万国公法は、さすがの紀州藩側も知らなかったらしい。

 唇を噛んで押し黙った。

 龍馬は、さらに勝負に出た。

 龍馬の、一か八かの大博打である。

 

「この度の議論は、両者の船員のみでは決着が着かんき、紀州藩と土佐藩の上役の論が定まる迄は、鞆の浦に留まっとぉせ」

 龍馬がいう土佐藩の上役とは、後藤象二郎のことである。

 一刻も早く長崎に行きたそうな紀州藩側は、終始渋面だった。

 相談するゆえ、暫し待たれよということになった。

  

「龍馬さん、ええのか? あげなことをいって……」

「これは戦いぜよ。負けるわけにはいかんがよ」

 不安げな海援隊士を他所に、龍馬は去っていく高柳の背を睨んでいた。



 二十五日――、龍馬はさらに勝負に出た。

 ここでの龍馬の主張は、主に二つである。

 一つ目は、いろは丸の沈没により、山内容堂の用が果たせないため、紀州藩から一万両を借用した上で主君の用事を達したいこと。二つ目は、衝突した両船の航海上の正否を、各国の船が集まる長崎にて議論し、明らかにしたいことである。

 この要求に、紀州藩士・高柳楠之助の顔がまたも険しくなった。

「待たれよ。かような金子は持ち合わせはござらん」

 敵はしぶとい。

 高柳は別の提案として、一万両を現金で用意することは難しいために、品物を貸すことで受け取ってほしいという。


 ――なるほど、そうきちゅうか……。


 だが、龍馬は妥協はしなかった。

 折れたのは、紀州藩側だった。

高柳とともにやって来た紀州藩士・成瀬国助なるせくにすけはこういった。

 

 これまで、一万両については品物で受け取るようにとの主張だったが、ここでは上役の許可が下り、一万両を借用する事が決まったと。

だが、そのあとがいけなかった。

 成瀬は一万両を借用するための証文を書けという。

読んだ龍馬は驚いた。

 証文には、国に帰れず困っているために、船の事に関係なく長崎に於いて返済の期限を立て、お借りさせて下さいとあったのだ。

「――これでは、海援隊が全部悪いと見て取れゆう。やはり、長崎で交渉しかないじゃろうの」

 鞆の浦の交渉は、海援隊側の勝利と言っていいだろう。

 だがこれで終わりではない。


 紀州藩船・明光丸が長崎に向けて出港したのは、二十七日のことだった。

 龍馬たち海援隊は船便を得ると、明光丸に遅れること三日後、鞆の浦を離れた。


                  ◆


 京・ 油小路二条――、二条城から堀川通りを挟んだ反対側にあるここにある藩邸がある。 藩祖は徳川家康の次男であった結城秀康ゆうきひでやす下総結城しもうさゆうき十万石から越前六七万石に加増され北の庄に入ったことに始まり、親藩となった越前・福井藩である。

 この福井藩に、薩摩藩国父・島津久光が入ったのは五月のことであった。

「――久しぶりでござる。島津どの」

 福井藩前藩主にして政事総裁職であった松平春嶽が、久光を出迎えた。

「上様は、お待ちか?」

「いや、上様との会議は二条城となろう」

 

 十五代将軍・徳川慶喜――、かつて将軍後嗣を巡り、薩摩藩前藩主・島津斉彬は当時、一橋慶喜と名乗っていた彼を推していた。

 結果的に反対派が押す家茂が将軍となったが、その家茂公が二十一歳という若さで逝去、慶喜が将軍となった。

 すでに宇和島藩の伊達宗城だてむねなり、土佐藩前藩主・山内容堂も京に入った。

 ここに、四侯会議が始まる。 


 四侯会議序盤の議題は朝廷の人事で、当時欠員となっていた議奏の補充を巡り、親幕府派の摂政・二条斉敬にじょうなりゆきと久光との間に激論が交わされた。

議奏とは太政官が政務に関して審議し、結論が出た事柄について、天皇に上奏する役職である。

 久光は以前から懇意の大原重徳おおはらしげのり中御門経之なかみかどつねゆきを推したが、二条摂政は

「先帝の叡慮えいりょがあるゆえ、それはどうか」

 という。

 

 慶応二年――、長州征討が幕府軍の敗北に終わったのをきっかけに、尊攘派公家を朝廷に復帰させるべきであるという声が、朝廷で大きくなっていったという。

 こうした中で、追放されている公家の復帰・朝政の改革など国事につき建言するため、公家二十に名が朝廷に押しかける騒擾事件そうじょうじけんが発生したらしい。

 しかし、亡き孝明帝はこれを退け、逆に二十に名に対して謹慎等の処分を下したという。

 この二十二名に、大原重徳と中御門経之がいたのである。

先帝の叡慮を持ち出されては話にならない。

 

「それならば先帝の叡慮に従い、上様が要求される兵庫開港も断然拒否なさるか!?」

「暴論じゃ」

「暴論とはいかなる趣意か!」

口論の末に結局、議奏人事は長谷信篤ながたにのぶあつ正親町三条実愛おおぎまちさんじょうさねなるが任じられることになった。

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