第10話 激突! 備中・六島沖

 土佐・坂本家――。

 

「――嬢さま。乙女嬢さま」

 いつものように、納戸の糠床ぬかどこに手を入れていた坂本家三女・乙女は、下男・源蔵の声に腰を上げた。

 源蔵いわく、弟・龍馬から、また文が来たという。

 乙女は手を洗って前掛けで手を拭くと、文を広げた。

「龍馬が……」

 瞠目する乙女に、源蔵が眉を寄せた。

「坊に、なにかあっちょりましたか? 乙女嬢さま」

「いんや」

 文を読み終えて、乙女はにっと口角を上げた。

 そのまま外に出て、空を見上げる。


 ――ついに、広いところに飛んで行きおった……。


 京・寺田屋で奉行所の連中に襲撃され死にかけたと文がきたときは生きた心地がしなかったが、龍馬は凝りずにこの国のために邁進まいしんしているようだ。

 

 

「乙女、あの馬鹿、なんぞしちゅうがか?」

 夕餉時――、囲炉裏の前に座った坂本家当主にして長兄・権平は、渋面で汁椀を啜った。

「兄上、龍馬は馬鹿じゃないがよ。うちのいう通りになったがやき」

「まさか龍になっちょったとでも? おまんなぁ――……」

 嘆息し、呆れる兄に、乙女は告げる。

「脱藩は許されちょったそうじゃ」

 龍馬からの文には、藩から脱藩放免が出たと書いてあった。

「それは良かったが、龍になるのと関係が……?」

 権平は亡き母・幸と妹・乙女が、龍馬が将来龍になるとは信じてはいなかった。

 空想だと思っているのだ。

 だが乙女は、信じ続けた。


 ――龍馬はいつか龍になる。天駆ける龍となる。


 母・幸は、十になっても弱虫で泣き虫の龍馬を、そう信じて見放すことはなかった。

 そんな母の言葉を、乙女はなぜか信じることができた。

 母亡き後、龍馬を強くしたのは乙女である。

 もし乙女が母の言葉を信じず、龍馬を見なしていれば、現在の龍馬はいなかったであろう。それには皮肉にも上士と下士の身分差もあったが、逆境をものともせぬ力を龍馬は身につけた。それは間違いないだろう。

 

「龍は、広い海がよう似合う」

 乙女は呟く。

 乙女には、世情や龍馬の仕事についてもわかっているわけではない。

 ただ、海に関わる仕事を始めたと報せがきたとき、やはり龍馬は龍の子と思った。

 この国を変えるのだ、それにはこの土佐にいてはできないと語っていた龍馬は、脱藩を犯してまで土佐を出た。

 広い世界を見たくなった彼を、乙女はどうして止められよう。

 兄・権平は侍が商売をするとはと呆れていたが、坂本家はもともと質屋から始まった才谷屋の分家である。

 商才が受け継がれていても、おかしくはない。

 その権平とて、龍馬を貶しつつも、脱藩以降黙認している。

 こうなると、羽の生えてしまった龍馬は誰にも止められない。そのうち、異国にいるという文が届くかも知れぬ。

 淋しいようで、楽しみな乙女であった。

 

            ◆


 龍馬が新天地・長崎で、元神戸海軍塾生らと旗揚げした亀山社中は、土佐藩外郭団体・海援隊として生まれ変わった。

 龍馬は脱藩が許されて海援隊長となり、海援隊は土佐藩の援助を受けつつも、基本的には独立し、脱藩浪人、軽格の武士、庄屋、町民と様々な階層を隊士とすることを規約に組み込んだ。

 仕事内容は物資の運輸、利益追求、開拓、藩の応援である。

 大洲藩から借用し、海援隊の船として長崎を出港した伊呂波丸は、土佐藩からの荷を積んで大阪を目指した。

 瀬戸内海に入る頃には既に日は沈み、視界は闇色に染まった。

「佐柳、現在どの辺じゃ」

 龍馬の問いに、海援隊士・佐柳高次さやなぎたかじが答えた。

「もうすぐ、備中諸島びっちゅうしょとうかと……」


備中諸島は、瀬戸内海に浮かぶ島々である。

 瀬戸内海はこの備中諸島を境にして、東側を水島灘みずしまなだ、西側を備後灘びんごなだとしているという。

 備中諸島の東側には塩飽諸島しわくしょとう、西側には芸予諸島げいよしょとうの東端をなす走島はしりじまや宇治島があるらしい。

 刻限はの四つ半――。

 陸奥宗光が長崎で購入したという懐中時計によれば、そうらしい。

「異国は、それで刻限がすぐにわかるんか?」

 自慢気に見せびらかす陸奥に、物珍しさで集まる海援隊士は多かった。

 伊呂波丸は針路を、備中諸島の一つ、六島むつしまへ向けていた。

 このとき、龍馬にはひとつ懸念があった。

 南側には四国本土の荘内半島しょうないはんとうがあるのだが、六島とこの荘内半島の間の海域は、瀬戸内海でも潮の流れが速い難所の一つとして、古くから知られていたことだ。

「ん……?」

 海援隊士で今回、伊呂波丸の船長を任せた小谷耕蔵こたにこうぞうが、なにかにきづいた。

「どういた?」

 刮目かつもくする小谷は、さらに耳を海に向けた。

「なにか……、聞こえちゅう」

 聞こえてきたのは、ボーという低音である。

 それが汽笛だときづいた時、巨大な船影が視界に捉えられた。

 なにしろ暗闇のうえに、濃霧まで現れた。

 重なった視界不良が、相手の存在に気づくが遅れた。

「いかん! 取舵とりかじいっぱいじゃ!!」

 龍馬はすかさず叫んだ。

 伊呂波丸は、左に舵を切った。

 相手も回避しようとしたのだろう。だが、相手が取った舵は面舵おもかじ(右)だった。

 

               ◆◆◆


 両者は、激しく衝突した。

 同じ方向に舵を切ったのだから、当然である。

 体勢を立て直すどころの、話ではなかった。

 相手の船は、伊呂波丸の右舷に突っ込んできた。

 伊呂波丸は大きく揺れ、龍馬をはじめ、海援隊士は甲板に倒れた。

 しかも相手の船に掲げられている旗印は、丸に三つ葉葵だった。三つ葉葵を旗印に使うのは徳川将軍家と、徳川御三家・水戸藩・紀州藩・尾張藩だが、備中をいう場所を考えれば紀州藩の可能性が高い。

 

「坂本さん……っ」

「離れるんじゃ」

 伊呂波丸は衝突の打撃で帆柱を折られ、損傷は大きい。

 だが相手はなにを思ったか、再び前進してきた。

 もはや回避することも、自力で航行することも不可能であった。

 俗に言う――、伊呂波丸事件である。


 伊呂波丸は全長三十けん(約五十五メートル)、幅三けん(約六メートル)、深さ二けん(約四メートル)の三本マストの蒸気船だが、衝突した船はやはり紀州藩船籍で明光丸めいこうまるというらしい。

 その大きさは、長さ四十二けん(約七十七メートル)、幅六けん(約十一メートル)、深さ三間半(約七メートル)と、伊呂波丸に比べ大きさは段違いである。

 そんな船と衝突し、さらに再びぶつかれば、伊呂波丸に成すすべはなく、修理施設の整った、近くの備後国沼隈郡鞆びんごぐにぬまくまぐんともうらまで、明光丸が曳航することとなった。

もしここで、船を失えば、海援隊は早くも危機である。

 なにしろ伊呂波丸は、大洲藩からの借り物である。

 明光丸に乗り移った龍馬と海援隊士たちは、ボロ船と化した伊呂波丸を複雑そうに見つめていた。

 

 だが天は、龍馬たちに味方をしてくれなかった。

 翌日早朝、風雨が激しくなったである。

 鞆の南、二里半(約二・五キロメートル)付近にある沼隈郡宇治島沖で、伊呂波丸は海の底へ沈没した。

 龍馬は激しい憤りに、拳を握りしめた。

 海援隊を、潰すわけにはいかない。

 

「坂本どの」

 背後に歩み寄った紀州藩士を、龍馬はゆっくりと振り返った。

「この責任は――、きっちり払ってもらうがよ」

 これに、紀州藩士にして明光丸船長だという高柳楠之助たかやなぎくすのすけは激昂した。

「な、なにを言われる!? 悪いのはそちらであろう!」

「はたしてそうかの」

 相手が御三家だろうと、龍馬はかまわなかった。

 強気な龍馬に、紀州藩士の何人かが腰の刀に手をかけた。

「ぶ、無礼な……」

 これを制したのは、偶然にも明光丸に乗船していた紀州藩勘定奉行・茂田一次郎しげたかずじろうという男であった。

「ならば、どうしいたのか?」

「備後の鞆で、話し合いをしたいがじゃ」

 龍馬の提案に、高柳がまた噛みついてきた。

「な……、茂田さま、長崎に向かう日取りが遅くなりまする」

「だが、彼らは一歩も引かぬ顔じゃ」

 睨み続ける龍馬に、さすがの茂田も嘆息した。

 

 ここに龍馬と紀州藩の、賠償を巡る交渉戦が始まるのである。


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