第9話 巨星墜つ

 長門・下関、林算九郎邸はやしざんくろうてい――。

 

 雀のさえずりに、彼は目を覚ます。

 一番先に視界に入ったのは薄暗い座敷の天井で、首を巡らすと障子が明るく照っていた。

 彼は無事に朝を迎えたことに安堵するも、もはや体は自由が効かぬ。

 高杉晋作――、彼をむしばみ続けていた労咳ろうがいという病は、ついに彼を床に縛り付けた。

 あと自分は、どのくらい行きていられるのだろうか。

 このままなにもせず、死を待つとはなんと不甲斐ふかいない。

 高杉は己を責めた。

 幕府の長州再討伐戦では、確かに幕府に勝ったかも知れぬ。

 だが――。


 

「ゆっくり静養するのだ」

 見舞いにやって来た桂小五郎に、高杉は静かに答えた。

感染うつりますよ……、桂さん」

「心配するな。私は『逃げの小五郎』だ」

 

 桂はそう言って笑う。

 病から逃げられるものなら、高杉も逃げたかった。

 敵を前に逃げるのはしたくはないが、この病からだけは逃げたかった。

 長州藩のため、この日の本のために、もっと生きたかった。

 

「桂さん……、長州藩を頼みます。朝敵の汚名を――」

 そこまで言いかけて、高杉は喀血した。

 滅多に表情を変えぬ桂でさえ、蒼白になる高杉の病は進行し、もう彼には軍を率いて戦う体力はない。

「高杉……!」

「汚名を……晴らして下さい」

 

 幕府との戦いは、まだ終わってはいない。

 長州藩はいまだ朝敵のままで、徳川に政権を維持する力はない。朝廷には新帝が誕生し、反幕派の公卿が復帰しているという。

 ゆえに、幕府を叩くなら今だ。

 なのに、この体はもう使えぬ。いつ来てもおかしくはない死。

 江戸、京と、尊王攘夷を掲げて動いてことに悔いはない。

 悔いがあるのは、長州藩の汚名が回復されぬままこの世を去らねばならぬことだった。

 ゆえに、最後を桂に託した。

 幕府を倒し、長州藩が再び政局の表舞台に返り咲くことを――。

 

 

 高杉は床の中で咳き込む。

 吐くだけ吐いた血は、もう僅かしか出なくなった。


 ――高杉。


 不意に、亡き友・久坂玄瑞くさかげんずいの声がした。

「もう……、呼びに来たのか? 久坂」

 高杉は床の中で苦笑した。

 冥土めいどに渡ってもせっかちな男だなと、久坂を笑いながら、高杉は天井に手を伸ばす。

「そっちに行ったら……、松蔭先生はなんと言われるかな……? なぁ? 久坂」

 

         ◆◆◆ 


  四月はもう淡緑たんりょくの、若葉の季節である。

 四方を取り巻く山の傾斜には、しいくぬぎの木などが新葉をつけ、わずかな風が山肌に走ると、木々はいっせいに日をはじいていた。

 この日の長崎の空は、快晴であった。

 そんな青空に、港に接岸された伊呂波丸いろはまるのトップマストで翻る海援隊旗かいえんたいき二曵にびきの紅白が映える。

 風は龍馬の紋服のたもとと馬乗り袴の裾を揺らし、航海には最高の風向きだった。

 海援隊としての初仕事は、土佐藩が購入した小銃・弾薬を、長崎から大坂へ輸送することで、その運搬船として、伊呂波丸が目の前にいるのだ。

 

 伊呂波丸の主である伊予大洲藩は最初は、亀山社中に伊呂波丸を貸すことを渋ったが、龍馬たちがもう脱藩浪人ではなくなったこと、亀山社中が土佐藩外郭団体・海援隊となったことで、土佐商会・後藤象二郎によって、一航海十五日につき五〇〇両の使用契約が交わされたのだった。

 つまりその間は、海援隊の船ということになるのだ。

 龍馬は両手を袖の中に入れ、伊呂波丸を仰ぐ。


 このとき、龍馬のもとに桂小五郎から文が届いていた。

 それは、高杉晋作の死を報せるものだった。高杉が亡くなったのは、この年の四月十四日だという。

 二十七歳という若さであった。

 

 高杉との出逢いは、龍馬がまだ江戸で剣術修行をしているときである。

 そのときは彼が長州藩の高杉晋作だということも、過激尊攘派の一人だということも知らず、再会したのは土佐を脱藩し、桂小五郎や久坂玄瑞としたくなり始めた頃であった。

 龍馬の身の危険を案じ、回転式拳銃リボルバーをくれたのも高杉である。


 ――高杉さん……、まだ死ぬのは早いぜよ。


 これからというときに、高杉の命の火は消えた。

 まだやることがあると語っていた高杉の顔が、龍馬には忘れられない。

 

「――隊長、出港準備は完了しちゅう」

 この声に、龍馬は気づかなかった。

 再度「隊長」と呼ばれて、自分だと理解して振り向く。

「そうかえ」

「ええ加減慣れとおせ」

 海海舟の弟子時代からの仲間、千屋寅之助がやや呆れつつ苦笑した。

「そういうたち、わしはこん間までただの脱藩浪人やき……」

 頭をかき、龍馬は弁明する。

 亀山社中では、龍馬の呼び方は特になかった。

 それが海援隊となった途端、藩は龍馬を海援隊隊長とした。

 

「また忙しくなるじゃろか?」

 千屋寅之助も、伊呂波丸を見上げる。

「そうじゃの」

 龍馬の心は、船よりにも先に海の上にいた。

 所用で幕府艦や、他藩の船には何度も乗ってはいるが、仕事として乘るのはユニオン号を長州藩に引き渡すために乗って以来だろう。

 あのときは、そのまま幕長戦ばくちょうせん四境戦争しきょうせんそう・小倉口戦)に参戦することになったが、今回は大阪への物資運搬である。

 

 

「坂本さん、俺は幕府を倒す」

 幕長戦開戦前――、下関にやってきた龍馬に、高杉晋作は決意を語る。

「徳川をかえ?」

「現在の幕府は腐っている。そう思わないか? このままでは、清の二の舞いじゃ」

 英国に大敗し、その英国の意のままとなった清国の末を見てきたという高杉は、常にこの日の本が清のようになると危惧していたという。

 現に外圧は強くなり、幕府の威信は下がる一方である。

「ほんぢゃけんど――」

「朝廷か……」

 長州藩は、いまも朝敵のままだった。

「薩摩も朝廷工作には手間取っちゅうようじゃ」

 薩長同盟にて、薩摩藩が長州藩の汚名挽回に動くことを盛り込まれているが、成果はまだ出ていない。

「坂本さん、朝廷にはまだ長州に味方する公卿はいるんですよ」

 高杉はそういって、ふっと笑う。


 その公卿の名は、岩倉具視いわくらともみ――。

 当初は公武合体派だった公卿くぎょうである。

だが親幕派と先帝に疑われ、蟄居処分ちっきょしょぶん、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられ、岩倉は辞官し、出家して朝廷を去っていた。

 そんな岩倉は現在、反幕に転じているのだという。

 朝廷も、変わり始めている。

 朝廷の意思が倒幕に傾けば、徳川の世が終わるのは確実だろう。


 

 しかし、明るく語っていた高杉は、この世を去った。

 桂からの文では、長州藩の倒幕の意思は確実なものだという。


 この国を変えてくれ――、それが高杉の遺志だという。

 高杉の遺志は、龍馬の意思とも同じである。

 ただ――、龍馬としては平和的に、徳川に幕を引いてほしいのだが。

 

 慶応三年四月十九日――、龍馬が乗った伊呂波丸が二曵の旗を翻し、長崎を発った。

 このまま海が荒れなければ、片道数日の航海である。

 

              ◆


 四侯会議のため、薩摩藩国父・島津久光が京に入ったのは、四月十二日のことである。

 彼に従い、薩摩藩二本松藩邸に入った西郷吉之助は、座敷で腕を組んだ。

 

「吉之助さぁー、どけんなっと?」

 大久保一蔵が、怪訝な顔で西郷の前に座った。

「これで、なんともならんこつは――」

「吉之助さぁー?」

首を傾ける大久保に、西郷は口調を変えた。

「一蔵どん、薩摩も肚を決めもんそ」

「それは――……」


 大久保にも、西郷がなにを考えていたのかわかったらしい。

 西郷は幕府が長州征伐を開始する前から、幕府にもう力がないことを感じていた。

 島津久光が推進する幕政改革も、公武合体も、今や失墜しつつある幕府になんの効果はない。

 ならば薩摩も長州藩に習い、倒幕に藩論を修正するしかない。

「もしもの場合じゃ」

 蒼白な大久保の前で、西郷は苦笑した。

 

「まさか、四侯を今になって集めたんは――」

「じゃっで、もしもの場合と言っとる。久光公次第じゃ」

 西郷は島津久光が、激しやすい性格だと知っている。

 以前は衝突した相手だが、その性格が幸いすることもある。

 なにしろ現徳川将軍は、かつての将軍後見職・慶喜公である。聞けばこの慶喜公、かなり強引な性格という。

 

 四侯会議が成功するにしろ失敗するにしろ、西郷は二つの道を用意していた。

 成功した場合は成り行きを見守り、失敗すれば倒幕を決めると。

 ゆえに、島津久光次第なのである。

 西郷としては、久光が慶喜公と衝突してくれればありがたいのだが。

 そうなれば藩論が倒幕となるのは、一気に早まる。


「策士じゃの。吉之助さぁーは」

 大久保は感心しつつ、驚いていた。

  

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