第8話 船に翻る、二曵の旗

 土佐・高知城下、南御屋敷みなみおやしき――。

 その男はいつものように、朱塗りの盃を手にしていた。

 愛飲あいいんの酒・剣菱けんびし温燗ぬるかんにし、彼はゆっくりと味わうのが好きであった。

 土佐藩前藩主・山内容堂――、鯨海酔侯げいかいすいこうと自ら名乗るほどの酒豪である。

 もともと山内容堂は、山内家の分家である山内南家の家に生まれで、藩主になるような立場ではなかった。しかし藩主の早逝そうせいが続いたため、彼は藩主となった。

 現在は藩主の座から退いているとはいえ、彼は現在でも藩を掌握していた。

 だが昨今思うのは、土佐藩は諸藩に比べ遅れていることだ。

 特に、長州藩と薩摩藩に比べると――。

 徳川に対して山内家は、関ヶ原の戦いによって功を上げ、長宗我部に代わり土佐一国を与えられたという恩がある。

 されど支援する公武合体は今や形だけのものとなり、幕府の権威は下がる一方である。

 徳川に恩はあるが、共倒れはしたくはない。

 容堂の心は、揺れていた。

 そんな容堂を、訪ねてきた男がいた。


「また、おまんか……」

 やって来た男を見るなり、容堂は渋面を作った。

 やって来たのは、西郷吉之助であった。

 彼と会うのは、これで三度目、四侯会議のために上洛しろというのだ。

 普通ならば一介の藩士が訪ねて来ても会わなかった容堂だが、島津久光の指示と聞かされては追い返すわけにもいかない。

 

「山内さまん力、再びこん国んために奮うていただきとう、参りましてごわす」

「それは、前から言っちょろう。現在のわしは、隠居やき」

「幕府を、こんままにしておいてよかと」

「西郷――」

 遠慮のない言葉に、容堂は盃の酒をぶちまけた。

「既に福井の松平春嶽さま、宇和島の伊達さまも上洛を決めもうした」

 

 容堂の怒号に、西郷は動じなかった。

 容堂に、再度上洛を促す。

 それでも容堂は、返事を曖昧なものにした。

 おかげで、せっかくの酒は美味くはない。

 容堂にとって幕政よりも、諸藩から遅れ始めている土佐をなんとかしたかった。

 なにしろ一度幕政に関わって、結果的に隠居まで追い込まれるという苦い経験をしているのだ。

 容堂は薩摩の島津久光ほど、粘り強くはない。

 

「現在、我が藩でお預かりしてる亀山社中でごわすが……」

 不意に話題を変えた西郷に容堂は一人の男を思い出した。

「そういえば、あの者はおまんのところにいちゅうようじゃの」

「坂本龍馬という男のこつでごわすか」

「勝安房がわしに、脱藩の罪を許してくれと言ってきちょったが、あの男また脱藩しゆう。たかが下士と思って放っておいたが、薩摩の下に隠れていたのはの。それも、勝安房の指示か? 西郷」

 

 西郷の返事も曖昧なものだった。

 幕臣・勝海舟が預かるといった龍馬は、神戸海軍操練所にいたことまでは容堂も知っていた。その後は何処にいようと、思い出しもしなかったが、後藤象二郎の長崎派遣により、龍馬が亀山社中を旗揚げして船での運搬業をしていると聞かされた。

 たかが下士――、これまで土佐ではそう侮っていた。

 だが、現在の土佐では彼等が身につけた航海術が必要だった。

 そんなこちらの肚を呼んだか、西郷が亀山社中を土佐藩外郭に取り込んではと、提案してきたのだった。

 下田での勝海舟との会談で、彼は容堂にこういった。

 

 ――世は変わりつつあります。いずれ彼等が、広い海に出ていくでしょう。

 

 このとき容堂は、軽く聞き流していたが、まさか本当のことになるとは。

 西郷が去った座敷で、空になった盃に酒を注ぎ足した容堂はこの時ようやく、世の流れを実感したのだった。


               ◆◆◆


 この頃の土佐の藩論は、公議政体論だという。

 現状の幕府のあり方を変えるため、西洋の議会制度をこの日の本に取り入れて、国家の改革を行う必要があるとする提言――、それが公議政体論らしい。

 龍馬はそれを、数年振りに再会した岩崎弥太郎から聞かされた。

 彼は後藤象二郎に代わって、土佐藩参政となった福岡孝弟ふくおかたかちかという男とともに、土佐から来たという。

 

「どうもわしには、難しすぎるぜよ……」

 頭をかく龍馬に対して、弥太郎は渋面である。

「土佐も、世の流れには逆らえんがじゃ」

「ほんぢゃけんど――、おまんと、こがなところで会うとはのう」

 この頃の弥太郎は、土佐商会の主任という立場で長崎に赴任したという。

 土佐にいる頃は地下浪人という身分で、いつかは学問で上士を見返すのだと言っていた弥太郎が、いまや藩の仕事に就いている。

 ただ龍馬に対する態度だけは、当時と変わらなかった。

「……わしは、おまんとだけは会いたくはなかったがよ」

 龍馬は、なぜ彼に嫌われるのかさっぱりである。

「これも縁やき、仲ようしとぉせ」

「こんな悪縁、肥溜めに棄てちゃるきに」

「そういえばおまん――、昔、肥溜めに嵌まったことがあったのう」

 子供の頃の話だったが、これが弥太郎の機嫌を悪化させたらしく、

「人が忘れちょったことを……、だからわしはおまんが嫌いなんじゃ」

 と、このあとは口を利いてくれなくなった。

 さて弥太郎とともに土佐からきた福岡孝弟だが、彼がいうには、龍馬の脱藩は放免となるらしい。

「坂本、おまんらに、藩として資金を援助しよう」

 

 福岡孝弟の言葉に、龍馬は瞠目した。

 土佐藩は軍艦や武器を購入し、異国との公益も始めたという。

 なれど、その船を活かす人間に欠けているという。

 土佐湾という海に面していながら、海の重要性に目を向けるのが長州や薩摩に比べて遅れた。さらに幕府が揺らぎ、西洋列強の圧力も強くなった。

 商業と軍事にも携わり、海に長けている亀山社中、土佐藩はこれに乗っかってきたようだ。だからって、利用されるつもりは龍馬にはない。

 

「後藤さんから、似たような話をされたがですが、わしらは藩に取り込まれる気はないがです。社中には、土佐藩とは無関係なものもいますきに。わしは、彼らを追い出す気はないがです。彼らは、大事な仲間やき」

「――外郭団体ならば、問題はなかろう?」

「それは、容堂公の意思かえ? 福岡さま」

「――そうじゃ」

 

 土佐藩参加となっても、基本的に自由という土佐藩の譲歩に、藩の必死さが伝わる。

 ようやく変わり始めた故郷・土佐――。

 下士など見向きもしなかった上士が、その下士たちの力を頼る日が来るとは。

 亀山社中倒産の危機は、故郷が救うことになった。

 もうひとつ――、土佐藩傘下となることで、利点がある。

 

 この頃亀山社中は倒産危機を脱するため、伊予大洲藩いよおおすはんに水夫などを派遣していた。

 大洲藩はこの長崎にて、蒸気船・アビゾ号を購入している。

 このアビゾ号――、元々は薩摩藩が購入し、安行丸と改名されたが、後に売却されていた。それを大洲藩が購入に至ったのだが、その仲介を龍馬がしていた。

 アビゾ号は大洲藩籍となり、伊呂波丸いろはまると改名されるも、これを操船する人材が大洲藩になかったらしい。そこで、依頼されたのが亀山社中であった。

 

 だが龍馬としては、このいろは丸を社中の運用船として使いたかった。

 それには、蝦夷開拓の夢もあった。

 だが脱藩浪人など多い社中との契約に、大洲藩側は正直に渋面となった。

 脱藩放免となり、社中が土佐藩外郭組織となれば、この障害は解消され、社中は借用であれ、伊呂波丸を借りることができる。

 

 ここに――、ひとつの土佐藩外郭団体が誕生する。

「――新しい名前は、海援隊じゃ」

 亀山社中の改称を告げた社中に、どよめきが起きる。

 

 海から支援するもの――、海援隊。

 

 土佐藩の外部にあって、その活動や事業を支援する団体だが、業務内容はこれまで変わらず、土佐藩は支援はするが運命に干渉はしないという好条件である。

  

 それから間もなく――、長崎港に、いろは丸が入港した。

 海援隊と大洲藩の間で、いろは丸の借用契約が成立したためだ。

 そのトップマストで、赤白赤の三本線、二曵にびきの旗が翻っていた。

 二曵の旗こそ、海援隊とて生まれ変わった龍馬たちの旗印だった。


 ときに――、慶応三年四月十日のことである。

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