第5話 新たな剣の道、その名は北辰一刀流
高知城下に、
藩の許可を得た町民が、
高知城下は武家の住む
龍馬たち下士の家や職人、商人の家がある町も上町と下町に町割りされ、上町には、坂本家などの下士の他に職人や商人たち約八百軒の家があった。
龍馬は築屋敷にある、
かつて――、剣術なぞまったくできなかった龍馬だが、それは子供のころのこと。
いまや、師範代・
「龍馬、今日はこれくらいにしちょこう」
「土居さん、わしは強うなったかのう?」
龍馬は防具を外すと、土居楠五郎を振り返った。
「
土居の言葉は嬉しかったが、龍馬の心には何故か、それでは満足できない己がいた。
道場から帰宅すると休む間もなく、姉・乙女が薪割りをしろと言ってきた。
さすがにこの姉には、いまでも敵わぬ龍馬であった。
三月末――、梅がそろそろ見頃を終えようとしていた。
庭で頼まれた薪割りを終え、龍馬は空を見上げた。
暮れなずむ空は、月がもう顔を出している。
「せっかちな、月じゃ」
風呂炊きをしていた乙女が龍馬の横に立ち、共に空を見上げて、そう笑った。
この時期は日が落ちるのがゆっくりで、日没を待てぬ月が出てきたようだ。
「乙女姉やん、わしはこのままでええのかのう?」
「おまんは強くなったがよ。強くなったが、まだじゃの」
弱虫で泣き虫だった頃、龍馬に剣術の基礎を叩き込んだのはこの乙女である。
たまに乙女の手にする木刀が、火吹き竹だったりすることがあるが。
しかし彼女に叱責されながらも鍛えてもらえていなければ、現在の龍馬はいなかったであろう。
楽なほうへ逃げ込んでばかりで、すぐに泣く。龍馬は、そんな子供であった。
そんな龍馬を、乙女は見捨てなかった。
「空は、広いのう」
「龍馬、龍になるがじゃ。現在のおまんはまだ
乙女は、母・幸が見たという夢の話をした。
母・幸は龍馬を身ごもっている時、夢の中で空を駆ける龍を見たという。
この子はいずれ、龍になる。龍になって羽ばたいていく。
母・幸はそれは嬉しそうに語っていたらしい。
その母の言葉を、乙女も信じているという。
龍になるかはともかく、見上げた空は広大である。
これまで何度か見上げた空だが、このときはひらに広く見えた。
はたしてさらに向こうの空の下には、どんな世界があるのだろうと。
◆
「わしを、江戸に行かせてつかぁさい」
龍馬の申し出に、父・八平と長兄・権平は
夕餉を終え、一息ついていたときである。
土間では乙女が腰を屈めて、
しかし乙女のことだから、耳はちゃんとこちらに向いているだろう。
「江戸で、なにしゆうがぞ?」
八平が眉間に
「強かぁ男になりたいんじゃ」
「そげな理由では、行かせられん」
「父上の言うとおりじゃ。剣術がちくっと上手くなっちゅって、調子に乗っちゃいかんぜよ。龍馬!」
父も兄も、寝耳に水である。
「兄やん。そげに、|大声で叫ばなくても、聞こえちゅう」
龍馬は上目遣いで権平を見たが、ギロリと
「なんぞ、いっちょったか……?」
と、鬼さながらの怖さである。
つまり二人は、剣術ならこの土佐でもできるだろうというのだ。
しかし龍馬は、もっと広い世界をみたくなった。
京には帝がおわすが、江戸には徳川将軍がいる。
有名な流派の剣術が、江戸には集まっているらしい。
それから何日かして、龍馬が通う築屋敷・日野根道場の主・日野根弁治が龍馬のために紹介状を書いてくれた。
場所は江戸・
これには父・八平や兄・権平は驚いたようだ。
北辰一刀流の小千葉道場といえば、江戸・神田お玉ヶ池にある、北辰一刀流の名門・玄武館と並ぶ名道場だったからだ。
龍馬の腕が、そこでも鍛えられるという日野根弁治の太鼓判があっては、ふたりとも納得せざるをえないようだ。
龍馬の心は、踊っていた。
まだこの土佐を離れたことがない龍馬だったが、不安よりも希望に心が躍っていたのであった。
◆◆◆
海に向かって一本だけ枝を伸ばすはぐれ松は、この日も潮風を受けていた。
二年立て続けに土佐を襲った台風にも、この枝は折れることはなかったようだ。
土佐の海は、
「海の向こうには、なにがあるんじゃろうの?」
龍馬は呟いた。
黒潮の注ぐ湾には、
龍馬は、鯨は見たことはない。
黒く巨大な姿をしているという生き物は、全体を海の中に沈めているという。
息継ぎのために、海面から少しだけ頭を出して潮を吹くらしい。
「龍馬じゃないか。
その声に、龍馬は振り返った。
「アギ」
アギとは、武市半平太の
本人はもう、その
「そのアギは、堪忍しとぉせ。それより、聞いちゅうたがぞ。江戸へ行くそうじゃの?」
龍馬とは違い、絹の小袖に皺のない
「一年だけじゃ」
江戸に行くと行っても、藩の許可を得なければならない。
龍馬の江戸遊学願いは、土佐藩家老・
土佐の郷士は家老級の支配下に置かれており、坂本家の場合は福岡家だったのである。
「そいでも、江戸で剣術を学べるがは、凄いことぜよ。わしも、負けておれんのう」
武市半平太は天保十二年に、小野派一刀流を学んでいる。
歳も彼が六歳上、身分でも白札という上士格だ。
「武市さんは、これからさき、どうしゆうが?」
「そうじゃのう。まずは道場でも開いてみるかえ」
「武市さんじゃったら、士官もできゆう」
「威張り腐った上士の顔を見るがは、ごめんじゃ。そんにの、もう仲間に入れてくれっちゅう、
武市半平太いわく、それは平井収二郎と、岡田以蔵だという。
平井収二郎はあの加尾の兄であり、岡田以蔵は北新町に住む足軽・
そんな武市半平太が「それより」と、話題を変えた。
なんでも最近、異国船が沖合を、うろうろしているらしい。
幕府はこうした異国船に対し、各地に
ここ土佐藩でも幕府の命令により、浦戸や手結などに遠見番所をつくっているらしい。
「異国船が来ちゅうたら、どうするが?」
「こん国は
龍馬の問いに武市半平太は、そういった。
この日の本は約二百年以上、鎖国下にある。
異国船に対して幾分、その厳しさは和らいだそうだが、それが結果、彼らを引き寄せているのかも知れない。
それからまもなく――、龍馬は旅支度を調えて坂本家の門を潜った。
この日の空は、快晴であった。
「姉やん、行ってくるき」
「
姉・乙女に見送られ、龍馬は江戸へ立った。
初めて故郷を離れるが、その心は期待に躍っていた。
かくして龍馬は、新たな一歩を踏み出したのである。
それは嘉永六年、三月十七日のことであった。
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