第6話 龍馬、喧嘩の仲裁をする

 江戸――、徳川家康が慶長八年に入符して以降、徳川幕府のお膝元となった地である。 江戸八百八町えどはっぴゃくやちょうと呼ばれるほど町の数が多いそうだが、いやはや数えた者は、御苦労なことである。


「おお! さすが公方(将軍)様のお膝元じゃ。堀のこいもよう太っちゅう」

 故郷・土佐を旅立って四十日――、龍馬は江戸の地に立った。

 黒羽二重くろはぶたえの紋服に袴、腰に大小さして、背には斜めに背負った小荷物、相変わらずの癖っ毛はこの日も跳ねていたが、今さら気にする龍馬ではなかった。

 この江戸にはどんな姿でいようが、土佐の上士のように見下してくる者はいないだろう。 江戸城内堀では鯉が元気よく水面を尾びれで叩き、龍馬の土佐言葉に数人が振り向いた。 

 堀の鯉を捕ろうとは思っていなかったが、前の宿場で握ってもらった握り飯はとうに胃から消え、腹が減っているのは事実である。

 これから寝泊まりすることになる土佐藩中屋敷に行けばなにかあるだろうが、下級武士の分際で、無心するのもどうか。即刻上役そっこくうわやくに睨まれて、国元に帰されるのがおちだろう。

 その土佐藩中屋敷は、築地つきじにあるとのことだ。

 

 一膳飯屋いちぜんめしやで軽く腹を満たして店を出た時、すでにはやや西に傾き、おそらく午後二時未の刻だろう。

 高知城下と違って人通りも多い江戸の町は、さすがの龍馬もたじろぐ。

 江戸では普通なのか、行き交う人々の足の速さまで龍馬の関心を引く。

 土佐藩中屋敷の場所は内堀を歩いていれば辿り着くとして、問題は修行先の小千葉道場の場所である。

 紹介状には京橋桶町と書いてあるが、江戸に初めていく人間に、桶町と書いてわかるわけがない。

 癖っ毛の頭をガリガリと掻きながら、龍馬は途方に暮れる。

 

 そんな江戸には、三つの大きい剣術道場があるという。

 一つは南八丁堀大富町蜊河岸みなみはっちょうぼりおおとみちょうあさりがしにあるという、鏡新明智流かがみしんめいちりゅう士学館しがくかん

二つ目は九段坂上くだんさかうえ(現在の靖国神社境内)にあるという、神道無念流しんとうむねんりゅう練兵館れんぺいかん

 そして三つ目は、神田於玉ヶ池かんだおたまがいけにあるという北辰一刀流の玄武館である。

 龍馬の修行先である千葉道場は、この玄武館と血縁関係にあるらしい。

 

ったのう。センセは紹介状を書いてくれちょったが、道順までは書いてくれんかったき」

 龍馬は道を訪ねようと、町人の一人を呼び止めた。 

「ちくっと、道を尋ねたいんじゃが、桶町の千葉道場へはどう行ったらええんが?」

 道を聞くために呼び止めた町人の男は、一瞬眉を寄せた。

 土佐言葉を初めて聞いたからなのか、それとも怪しげな男と警戒したのか、男が答えまで間が空くも親切に教えてくれた。

「おおきに」

 なんと千葉道場のある桶町は、土佐藩中屋敷から近い場所にあった。

 礼を言って、龍馬は歩き出す。

 

 この日から一年間暮らす江戸の町、若き龍馬の心は希望に満ちていた。

 嘉永六年四月――、春もたけなわの頃である。

 だが、龍馬の足は再び止まる。

 十メートル五間先に、人集ひとだかりができていたのだ。

 

「なんだと!? もう一度申してみよ!!」


 侍言葉らしき怒鳴り声が、その方向から聞こえてくる。

「なにかあっちゅうが?」

 聞けば旗本らしき侍に、女が絡まれているという。原因はぶつかったことらしいが、女はぶつかっていないという。

「こりゃいかん。相手が悪い」

 野次馬の一人が呟く。

 

 聞けば女に絡んだ旗本は、江戸城大番頭えどじょうおおばんがしら亀井平左衛門かめいへいざえもんの次男・左馬之助さまのすけだという。

 大番とは平時は江戸城・大坂城・二条城の警備を務め、旗本の役職の中で最高の格式を誇ったという。

 大番頭は、大番をまとめる指揮官である。

 問題はこの左馬之助が、かなりのわるだったことだ。

 とにかく因縁をつけては、酒代は踏み倒すわ、女を襲うわで、町奉行所の役人も相手が旗本とあって手が出せないという。


 ――威張り腐ったもんは、この江戸にもいちゅうがか……。


 土佐藩にいまだ根付く、上士と下士の身分制度。

 一部の上士は、下士を人間とも思わない。

 蹴られようが罵られようが、下士は平伏してじっと耐える。お陰で下士は農民にも冷たい視線を向けられる始末だが、女に絡んでいるという旗本次男坊より、まだ上士たちのほうがましだろう。

 上士たちは下士には罵ってきても、他のものに因縁をつけることも、酒代を踏み倒すということもしていないからだ。山内家の家臣という誇りゆえなのだろうが、江戸と違い狭い土佐である。そんなことをすればたちまち豊信公(土佐藩主)の耳に入り、切腹間違いなしだろう。

 

「ぶつかってこられたのは、あなた様だと申しました」

 絡まれている女は、絣の着物に袴、髪を総髪にしていた。いわゆる男装である。

 旗本相手に物怖じせず、まっすぐ見据える彼女に、龍馬は姉・乙女が脳裏に浮かんだ。 

――こりゃたまげた。乙女姉やん並の、男勝りはちきんじゃ


「おのれ……、小娘! 直参旗本の某を愚弄いたすか!?」

亀井左馬之助は、腰の刀に手をかけていた。

 武士の特許として、無礼討ちがある。

 町人・百姓が法外の雑言など不届きな行為に出た場合、やむをえずこれを切り殺した武士は、たとえ足軽などの軽輩であれ、責任を問わぬというものだ。

 ただし、本当に無礼をした場合のみだ。


「ちくっと、待ってつかぁさい」


 龍馬は思わず、二人の間に割っていった。


               ◆◆◆


「誰だ? お主は……」

 突然入ってきた龍馬に、亀井左馬之助はさらに怪訝そうな顔になった。

「土佐郷士・坂本龍馬というもんですき。けんど、こがなところで、そげな物騒なもんを振り回しゆうがは、どがなもんかの?」

「引っ込んでいろ! 田舎侍めがっ」

 亀井左馬之助は罵倒してくるが、罵倒されることには慣れている龍馬である。

 でなければ、いままで土佐にはいない。

「確かにわしは、土佐の田舎侍やき。けんど、人が危ない目に遭っちゅうがは、見逃すことはできんがじゃ。ここは大人しゅう刀をおさめてつかぁさい」

「この某に説教をするか!? 貴様っ……」

 

 龍馬は説教をしたつもりはないが、場を収めるつもりが火に油を注いでしまったようだ。

 亀井左馬之助は抜刀し、野次馬から悲鳴が上がる。

 さすがに絡まれた男装の女も、不安になったらしい。

 

「坂本さま、これはこの方と私の問題です。お引きください」

「そうはいかんちゃ。わしゃ、こがなことは我慢できないがじゃ」

 おそらくぶつかったのは女ではなく、亀井左馬之助だろう。

 亀井左馬之助は、刀を鞘に収める気はさらさらないらしい。

 これが土佐なら、龍馬は斬られそうになっても文句は言えない。

 悪いのは龍馬のほうで、刀を抜いた上士は正当。

 理不尽極まりないが、それが上士と下士なのである。

 だが、ここは江戸である。

 

「わからん人じゃのう……。おんしのような、頑固者いごっそうは嫌われるがぞ?」

「黙れっ……!!」

 振り下ろされる刀身を、龍馬は鞘に収めたままの刀で受け止めた。

 剣の修業を怠っていなくてよかったと思う、龍馬である。

「わしをこのまま斬るのは構わんがの、果たしておんしの言い分は、評定所で認められゆうが? 無礼討ちは相当な理由がないといかんち、彼女がぶつかったという証拠と証言が必要じゃ」

 

 旗本を裁くのは奉行所ではなく、評定所である。

 無礼の様子の目撃者、証拠や正当な理由が確認出来ない場合、または所定の手続きをしなかった場合、違法である「辻斬り」として処罰されるという。

 

「き、貴様……っ」

 どうやら亀井左馬之助は、自分に非があることはわかっているらしい。刀身がカチカチと震えている。

「人の迷惑になるようなことをするもんは、いずれ天罰が下るぜよ」

 野次馬の目も、明らかに亀井左馬之助を非難している。

「お、覚えておけっ」

 悔しげに立ち去っていく亀井左馬之助の背を見送っていると、野次馬も次第にはけて行く。そこに残ったのは龍馬と、男装の女だけになった。

 

「なにも助けてくれなくてもよかったのに……」

「おまん、剣術ができるがか?」

「いけませんか? 女が剣術をしては」

「別にいかんことはないちゃ。わしの身内にも、えろう強かぁ、はちきんがおるがじゃ」

「はちきん……?」

 佐那子が眉を寄せる。

「はは……、こっちの話じゃき、気にせんでくれ」

 まさか彼女に、土佐言葉で男勝りという意味だというわけにはいかない。

 

「私の名は、千葉佐那子ちばさなこと申します」

 女が、そう名乗った。

「奇遇じゃのう。これからわしが行きゆう、道場の名前と同じ千葉とは」

 龍馬の行き先を知って、佐那子が瞠目する。

「どちらの……?」

 彼女が、そう聞くのは神田於玉ヶ池の玄武館と、桶町の千葉道場のどちらかという意味だろう。玄武館は「大千葉」、桶町は「小千葉」と呼ばれているらしい。


「桶町の千葉道場じゃ」

 首の後ろを掻きながら、龍馬は答えた。

  

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