第3話 土佐勤王党結成
この日――、数日も降り続いた雨がようやく止み、雲の切れ目から日差しが覗いた。
田畑が潤うため雨もいいが、日野根道場へ向かう道は
田に面したその道は普段からでこぼこ道で、雨が降ると
平坦な道を行けばいいが、上士と出くわす可能性が高くなる。
なにしろ、永福寺での一件から半年しか経っていない。
上士がかの一件に凝りて、下士を罵るのをやめればいいが、そう簡単に大人しくなる連中ではなかろう。
上士と鉢合わせすれば下士は脇に寄って、土下座をせねばならぬ。それよりは、でこぼこ道も気が楽といえば楽なのだが。
龍馬は土佐に帰ってきてからも今まで通りに、築屋敷の日野根道場に通っていた。
帰り道――、
餌がいいのか、よく肥えた蝦蟇は跳ねるのも重そうで、僅か三メートル《一間》 の道幅をゆっくりと横切っていく。
そんな蝦蟇に比べれば、龍馬の心は急くばかりだ。
激変する世の中にあって、いまだ己の進むべき道が曖昧な龍馬。
攘夷をするのも、船を持つのも、一人ではできない。
井口村近くまで来て、龍馬は足を止めた。
前から、男が一人やってきたのだ。
久しぶりに見る顔に龍馬は歓喜したが、相手は龍馬を視界に捉えるなり、嫌そうな顔になった。
岩崎弥太郎――、地下浪人という最も下位に生まれた彼は、勉学で上士を見返すのだと言っていた。人から聞いた話では、土佐藩参政・吉田東洋に仕え、長崎に派遣されているという。
土佐にいるということは、長崎から戻ってきていたらしい。
「久しぶりじゃのぅ、弥太郎。いつ
いつものように話しかけてみれば、弥太郎は渋面だ。
「おまんのそうした能天気さが、わしは嫌いなんじゃ」
龍馬の性格は人であれ物であれ、興味があると一直線なことだ。
決して何も考えていないわけではないのだが、弥太郎には脳天気に見えるらしい。
「弥太郎は凄いぜよ。藩の役職に就くがとは」
世辞ではなく心からの称賛だったが、弥太郎の顔は難しいままだ。
「上士は、なんも変わっとらん」
弥太郎の表情がさらに険しくなる。
「半年前のことを、言っちゅうがか?」
半年前の永福寺事件――、それは弥太郎が暮らすこの井口村で起きた。
「上士が罵倒しなければ、ことは済んだがじゃ。しかも上士の処分は謹慎処分だけじゃ。わしはの、もう奴らを見返すのは諦めたたがじゃ。己の裁量で、必ず
剣の腕よりも学問で彼らを見返すと言っていた弥太郎は、学んだ知識を活かして上り詰めるという。
弥太郎も、自身の夢に向かって動いている。
――なのに、わしは……。
◆
文久元年八月――、土佐藩・江戸築地中屋敷。
西国へ武者修行へ出かけていた武市半平太は、江戸にいた。
実はこの剣術修行は同郷の、大石弥太郎の求めによるものであった。
大石は郷士出身で、剣術を江戸の鏡心明智流・士学館で学ぶという、武市とは同門でもある。
彼は長州や、薩摩・水戸など諸藩の攘夷派志士と交わり、尊王攘夷の志を深めたらしく、武市に東上を促してきたのである。
「わが土佐も、遅れてはならんぜよ」
大石は眉をぐっと寄せ、力説した。
「わかっちゅう。けんど、藩を動かしちゅうがは吉田東洋じゃ。
「
大石の言葉に、武市は腕を組んで唸った。
武市は郷士でも、白札という上士格にいる。
藩の役職に就くことなかったが、このままでは土佐藩は、異国の意のままになっている幕府と心中しかねない。
武市もまた、他藩の攘夷派志士と交流を重ねていた。
なかでも長州藩士・久坂玄瑞が師、吉田松陰から教わったという『
草莽崛起とは、志を持った在野の人々が一斉に立ち上がり、大きな物事を成し遂げようとする意味だという。
土佐藩の尊王攘夷運動の立ち遅れを痛感した武市は、久坂らと三藩(土佐・長州・薩摩)の藩論を攘夷に一決して藩主を入京せしめ、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫ろうと、彼らに提案した。
もはや、上士など恐れている場合ではない。
国難の危機を憂わぬ者は、この国のものではない。
武市は、そこまで言い切る。
武市半平太は、文机の前で思案していた。
文机には一尺ほどの、白紙のままの紙が広げられている。
「大石、江戸にどれだけ同士がいちゅう?」
「ざっと、数名かの」
武市の心は、決まった。
土佐に戻れば、賛同する仲間は増えるだろう。
長年上士に虐げられてきた下士たちの不満――、彼らが立てば上士も変わるだろう。
――これは帝の意思じゃき。
聞けば帝は大の異人嫌いで、攘夷を望んでいるという。
だが帝の意思は、幕府には届かない。
公武合体で朝廷の力を得たと、幕府は思っているようだが。
武市半平太は文机の前で大きく頷き、筆を持った。
新しく立ち上がる同士集団、その名は――。
――土佐勤王党。
その名は紙の上で、勇ましく踊っていた。
◆◆◆
秋――、武市半平太が剣術修行から帰っていると聞いて、龍馬は武市道場を訪れた。
厳しい
道場の中では主だった面々が武市半平太を囲み、何かを話し込んでいる。
そんな龍馬に、武市が気づいた。
「龍馬、来ちょったがか?」
「邪魔しゆうたがか?」
「いんや、ちょうどおまんを、呼びに行かせようとしてたがじゃ」
上がれというため、龍馬は腰から刀を抜いて、土間で草履を脱いだ。
「龍馬、わしらは決めたがじゃ」
龍馬が座すまもなく、武市が話しかけてきた。
「なにを、決めたたが?」
「わしらが、いくら攘夷を
朝廷という言葉に、龍馬は一瞬言葉を忘れた。
幕府ですら動かないものを、帝がおわす朝廷が動くだろうか。
「けんど、わしらの力で朝廷が動くとは思わんがの」
この龍馬の懸念に、武市は
「
「土佐を……」
武市の言葉に、龍馬は瞠目した。
「そうじゃ。上士がなにか言っちょってきてもかまわん。土佐藩の意思を勤王の名の下に、攘夷とするがじゃ」
「うちの大殿さまは、かなりの
土佐藩前藩主・山内豊信――、現在は山内容堂と名乗っているというこの男は隠居の身である。
しかし藩主時代から、こうと思ったらなかなか意志を曲げぬと囁かれていた。
「それでも国のためとなれば、動くじゃろ。龍馬、わしらの手で
――土佐を変える。
それは、龍馬も願ってきたことであった。
幕府が揺れているというのに、上士と下士が対立している場合ではない。
武市は結成名を、土佐勤王党にしたという。
土佐勤王党には、平井収二郎や岡田以蔵も参加するという。
龍馬の心に、熱いものが走る。
そう、ことは待っていても動かないのだ。
一旦腰を落ちつかせ、安全な場所に逃げ込んでしまうと――。
確かに隠れてしまえば、脅かされることはない。
しかし強敵から逃げ続け隠れていては、一生強くはならない。
ここに国のため土佐のため、下士たちは立ち上がろうとしている。
「
龍馬の参加意思に武市は快諾し、龍馬は、土佐勤王党の一人となった。
文久元年九月――、龍馬このとき二十七歳であった。
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