第2話 血風! 永福寺門前事件
文久元年――、
刻限は申の刻、西に傾いた陽が障子を潜り抜けて、男の影を長く伸ばす。
長州藩士・桂小五郎は、江戸から萩に戻っていた。
この国は、まったく攘夷に動く気配はない。
桂は、異国の意のままになるこの日の本の末を憂う。
「桂さん、幕府に任せとったらいつまでも、この国は異国の意のままじゃ」
久坂玄瑞ら急進攘夷派志士は、自分たちだけでも夷狄を討つという。
彼らにすれば師である、吉田松陰を葬った幕府への憤りもあるのだろう。
そんな松蔭を含め、攘夷派を弾圧した大老・井伊直弼は暗殺された。
実行したのは、水戸藩攘夷派志士数十名だという。
「今度は長州が動く番じゃ」
桂にそういったのは、水戸藩士の
万延元年七月――、江戸湾に碇泊中の長州軍艦・
しかし話の内容は、両藩が提携して急速に幕政改革を行う盟約であった。
世の中をかき乱す「破」、混乱に乗じて改革を成し遂げる「成」という計画で、水戸が「破」を、長州が「成」を役割分担するということだ。
この場に、いたのが西丸帯刀である。
水戸藩は、攘夷の思いが強い藩だと聞く。
盟約を結んだのはいいが、現在の長州藩は尊王攘夷派と開国佐幕派の主導権争いの結果、開国佐幕派の
長井は長州藩の重役である直目付という立場だが、開国論者だった。
航海遠略策は、幕府が諸外国と締結した不平等条約を破棄させる破約攘夷ではなく、むしろ積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していこうとする策らしく、攘夷を望む攘夷派長州藩士には受け入れがたい内容である。
藩論と固まった現在、これをどう崩すべきか。
桂の、自問自答は続く。
幕府は朝廷の力を借りて低迷した威信を復活させる、公武合体に乗り出していると言うが、おそらく幕府に、異国と戦う気などないだろう。
だが――。
――私はこの国を、異国に渡すつもりはない。
幕府とて異国にこの国を渡す気はないだろうが、このまま異国の意のままになれば結局は、この国は異国のものとなるのではないか。
桂小五郎――、国を憂う男は攘夷の決意を新たにしたのである。
◆
土佐・高知城下――。
鏡川は龍馬が子供の頃に泳いだことがある川だが、なにしろ、素足に
昔から慣れていたはずが、江戸に行っている間に、体のほうは耐性が衰えたようだ。
――乙女姉やんがいたら、バタタレと頭を叩かれるじゃろうのう。
鼻の下を
万延という年は一年で終わり、文久に改元。
武市半平太は昨年の夏、岡田以蔵らを伴い、武者修行に出た。
龍馬は「こん時世に、武者修行でもあるまい」と笑ったが、武市のことである。なにか、思うところがあったのだろう。
久しぶりに本家の才谷屋を訪れると、
「久しぶりじゃの。あの
才谷屋主・坂本八太郎は、そういった。
しかし龍馬は、
「まだそこまで、考えておらんがよ」
そう答えて、手元の湯呑みに視線を落とす。
「確かに御城下近くとなると、上士さまの目があるきにの」
高知城近くには、上士が最も多く住む。
当然、下士の住まいはない。
龍馬は道場を開くよりも、この国の末が気になっていた。
異国に対し、怯え続ける幕府。
それは、昔の己によく似ていた。
虐められ、泣いてばかりいた幼い頃の自分に。
強くなろうとせず、所詮は敵わぬと諦めていたあの頃に。
だが、悔しさもあった。
その悔しさが、彼を強くした。
ゆえにこの国も、強くならねばならぬ。
龍馬の真意を知らぬ八太郎は、満足げに茶を啜っていた。
だが――。
桃の節句が過ぎた、三月五日――。
「龍馬さん、大変じゃ!」
坂本家に、幼馴染みの一人が血相を変えてやってきた。
「どうかしゆうが?」
「
中平忠次郎は郷士でも
井口村は、あの岩崎弥太郎が住んでいる村である。
郷士たちは、上士たちと戦うと息巻き、中平忠次郎の兄・
ついに上士と下士が、衝突する事態となった。
詳細を知るべく、龍馬は池田寅之進の家・池田家に向かったのであった。
◆◆◆
事件が起きたのは、文久元年三月四日の夜だという。
中平忠次郎と一緒にいた
思わず肩がぶつかり、中平忠次郎は
だが――。
「あん男、わしらを下士と見るや罵倒しゆうがじゃ……!」
宇賀喜久馬は悔しげに、唇を噛む。
非を認め詫びたにも関わらず、上士はいつもように罵ってきたらしい。
もし上士が忠次郎の詫びを受け入れ、彼を許していればいいものを、口論の末に逆上した山田は抜刀し、忠次郎も応戦したという。
宇賀喜久馬は忠次郎の兄・池田寅之進にこの事態を知らせ、二人は急いで現場へ駆けつけるが、時既に遅く、忠次郎は殺害された後だったらしい。
「悪いのは、上士じゃ……! 忠次郎は、ちゃんと詫びたがぞ。それを……っ」
「ほんで、|それからどうなったが?」
龍馬の問いに、宇賀喜久馬は話を続ける。
二人が駆けつけた時、山田広衛は近くの小川で刀を洗っていたという。
忠次郎の兄・寅之進は背後から
寅之進は当初、弟の
その為、寅之進も一旦、弟の亡骸を寺の門前へと戻し、改めて上士たちの亡骸は山田家に、忠次郎の遺体は池田家へと引き取られるに至ったと宇賀喜久馬は語り終える。
「もう、我慢ならんぜよ!! 上士の奴ら、わしらを見下すのも、ええかげんにせぇよ!!」
「そうじゃ! 上士どももわしらとやるつもりじゃと聞きゆう。こうなれば、こじゃんと戦うがよ!!」
日頃から上士に虐げられてきた土佐の下士たちの怒りは、ついに頂点に達していた。
だが藩も黙っておらず、寅之進と喜久馬に切腹の
上士の山田家はというと、山田広衛の父・新六を謹慎処分とし、山田広衛の弟・次郎八には家督の相続を許し、一方で事件に巻き込まれた形の益永家と宇賀家は断絶処分、中平家と池田家は
下士にとって、とても納得できるものではない。
処罰の面でも、この差である。
――この土佐も、変わらなぁいかんがよ。
龍馬は腕を組むと、空を見上げた。
春風が頬をなで、乱れた
空は晴れていたが、白く
いつか、この土佐から差別がなくなる日が来る。
上士も下士も関係なく、国のために動く日が。
確証はないが、日の本がこれだけ激変しているのだ。
土佐が、変わらぬはずがない。
だがそれは、甘い夢なのだろうか。
見上げた空からは、答えが返ってくることはなかった。
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