第1話 土佐に吹く尊王攘夷の風

万延元年まんえんがんねん閏三月うるうさんがつ――、高知城の桜が満開となり、空は朝から晴れていた。

 この時期になると土佐湾には、黒潮に乗ってかつおがやって来る。

 土佐人にとっては、これが初鰹はつがつおである。

 といっても、坂本家の膳に鰹が乗ることは滅多にないが。

 

 坂本家三女・坂本乙女は、よっこしょと腰を上げてひたいの汗を拭った。

 此度こたびも彼女の糠床ぬかどこでは、胡瓜きゅうりが上手い具合にかっていた。

 坂本家の、いつもの日常である。

 この国が異国に対して開国しようと、将軍が代替わりしようと、坂本家は変わらない。

 食事の支度に洗濯、畑での収穫と薪割り、夕方になれば風呂を沸かし、また窯と睨み合う。

 乙女は一度、山内家・御典医ごてんいの男に嫁いだことがあるがこの夫は浮気性で、その母というのが乙女にとにかくうるさい。

 だが乙女は黙って耐える性格をしておらず、この母子を早々に見限った。

 兄・権平は出戻ってきた妹に長嘆ちょうたんし、坂本家に女手がないこともあって、再婚を勧めてくることはなかった。

 納屋を出ると、庭で木刀を振る龍馬がいた。


 ――龍馬は本当に、龍になるかも知れん。


 乙女は真剣な顔をして木刀を振り下ろすりょうまを見て、そう思った。

 兄・権平は龍馬がこのままこの土佐で道場を開くだろうと思っているようだが、乙女はそうは思わなかった。

 龍馬は龍になるのだ。龍となって、天に駆け上がる。

 それは龍馬がこの土佐を離れることを意味していたが、龍馬の口からそれが語られることはない。


 ――乙女姉やん、わしはこのままでええのかの?


 そういった龍馬の目は真剣で、その目は乙女ではなく空を向いていた。

 彼の目に何が見えていたのか、乙女は知らない。

 だが二度の江戸行きが、龍馬の心を変化させたのは間違いないだろう。


「あのバカタレ、どうしちょっと?」

 柿の木の下で真剣な顔で木刀を降る龍馬に、彼の兄にして坂本家当主・坂本権平は濡れ縁で呆れていた。

「ええがじゃないですか」

 厨の土間から座敷に上がり、囲炉裏で鉄瓶を火にかけていた乙女は、兄の言葉をそういって受け流す。

「もう一刻以上も木刀を振っちょるがぞ?」

 腰を囲炉裏の前で降ろした権平は、眉を寄せる。

「兄やんが龍馬の心配をしゆうがは、珍しいですの」

「わしは、龍馬アレがまた迷惑をかけんか気にしちゅう」

「大丈夫ですき」

「そりゃあ、おまんは昔から龍馬の味方じゃからの」

 権平は乙女が煎れた茶を受け取り、口に運ぶ。

「兄やん、龍馬は大物になりゆう。うちは今でも信じちょる。けんど――」

 乙女はチロチロと燃える熾火おきびを見つめながら、言葉を区切った。

「けんど、なんじゃ?」

「少し、寂しい気もしゆう」

 

 母・幸が亡くなってから、龍馬を強くしたのは乙女である。

 近所の子らに泣かされて帰ってくる龍馬を、乙女はよく叱った。

 土佐弁でいう「寝小便」もなかなか治らず、泳ぎもできない。

 そんな龍馬がいつしか、この国のことを考えるようになった。

 そしていつか、この土佐を離れていく。

 頼もしいことではあるが、寂しさも感じる乙女なのである。

 そんな坂本家に、乙女の一番上の姉・千鶴の子、太郎が上がり込んでくる。

 

「おまん、またうちの飯を食いに来たが?」

「乙女叔母ちゃんの飯は美味いきに」

「おだてても、なんもないきに」

 しばらくして素振りを終えた龍馬が上がってきて、太郎の関心は龍馬に向く。

龍馬叔父りゅうまおんちゃん、わしに江戸の話をまた聞かせとおせ」

 太郎は龍馬にとっても甥だが、年が離れていないせいで彼を可愛がっていた。

 そんな二人を、乙女はこのままいつまでも見ていたと思うも、龍馬の背を押してやらねばとも思うのであった。

 

              ◆◆◆


 大老・井伊直弼が桜田門外にて暗殺される一年前――、将軍後継候補・一橋慶喜の将軍継嗣擁立に動いていたという土佐藩主・山内豊信が、大老・井伊直弼によって隠居させられ、同年十月には謹慎を命じられたらしい。

 

「幕府め! 殿を謹慎にしゆうとは!!」

尊王攘夷の風は、この土佐にも吹くようになった。

 藩主・山内豊信を幕政から退けた幕府に対して、下士だろうと憤慨ふんがいした。

 特に憤ったのが、普段は温厚な武市半平太である。

 武市半平太は高知城下・新町に、自身の道場を開いているのだが、稽古の終わりに軽い宴席となった。

 龍馬は久しぶりに武市に会いに出かけ、この宴席に飛び入り参加となった。

 武市道場には、龍馬の幼馴染みも多く、平井加尾の兄・平井収二郎や、武市を慕う岡田以蔵、中岡慎太郎など顔を揃えていた。

 

「こりゃあ、いかんぜよ……。誰じゃ? 武市さんに酒を飲ませちゅうがは? 武市さん、声が大きいぜよ?」

 平井収二郎ひらいしゅうじろうさかずきを膳に置き、酔い始めた武市に眉を寄せた。

 武市という男は普段は思慮深く冷静な男なのだが、酒には弱かった。

 武市自身もわかっていたため、酒は盃一杯しか飲まないのだが、武市の酒癖を知らぬ誰かが武市に酒を勧めたらしい。

こうなると、武市は酔いつぶれるまで吠え続けるのだ。

 

「ここは土佐じゃ。幕府に聞こえせんがじゃき。わしゃあ、悔しいがよ! のう!? 龍馬」

 すっかり酔いの回った武市に怒りの矛先を向けられ、龍馬は仰け反った。

 自分にいわれても、である。

「武市さん、大丈夫かえ?」

 岡田以蔵が武市を気遣う。

「あ?」

「いかん……、目が据わっとる」

 平井の言う通り武市は目も据わり、体も揺れ始めた。

「わしは悔しいがよ!!」

 そう吠えた後、武市は昏倒してしまった。

 ようやく大人しくなった武市に、龍馬は頭でも打っていたか心配になったが、平井が制した。

「龍馬、国を思う気持ちに下士も上士も関係ないちゃ。異人どもは強引にこの国にやって来ゆうたがじゃ。それを追い払わんと、異国の意のままに条約まで結びゆう幕府にいきどおるんは、武市さんじゃのうても怒るのは当たり前じゃ」

「わしには難しいことはわからんがよ」

 

 寝息を立て始めた武市半平太を振り返り、龍馬はようやくことの重大さに気づいた。

 幕府は一連の異国船騒動が開国で収まったと思っているようだが、武市半平太や平井収二郎などの怒りはこのまま収まることはないということを。


 

そしてついに、怒りは爆発した。

 大老・井伊直弼の暗殺である。

 

攘夷派土佐藩士達は、この変を喝采しているという。

大老・井伊直弼は、攘夷派を弾圧もしていたからだ。

 幕府としては異国の手前、攘夷派には大人しくしてもらいたいらしい。

 だが攘夷の風は、この土佐にも確実に吹いている。

 武市半平太は、藩を憂いた。

 このままでは幕府同様土佐藩も、開国に傾くと。

 

「うちの殿様まで、異国になびきゆうが?」

 龍馬は、首を傾げた。

 藩主・山内豊信は酒豪として知られていたが、かなり頑固者といわれていた。

「藩を動かしちゅうがは、吉田東洋よしだとうようじゃ」

 

 吉田東洋――、ペリー米国艦隊が浦賀沖に来航した嘉永六年、土佐藩藩主・山内豊信によって大目付に抜擢され、参政として強力に藩政改革を主導したという。

 一度失脚するも、安政四年に参政として藩政に復帰し、現在に至るという。

 問題はこの吉田東洋が、開国派だったらしい。

 

 藩を変えなきゃいけないことは、龍馬もわかっている。

 この土佐で下士は、未だに上士に虐げられている。

 関ヶ原の戦いにて、豊臣側についたかつての土佐国主・長宗我部氏ちょうそかべし

 徳川方の勝利により長宗我部氏は領地を没収され、その代わりに遠江(静岡西部)を治めていた山内一豊が土佐の国主となったという。

 以後、山内一豊の家来が上士となり、もともと土佐にいた長宗我部氏の家来が下士となった。

 上士と下士が道で行き違えば、下士は上士に道を譲らねばならず、さらに土下座をしなければならない。さらに下士は雨の日でも下駄を履けず、上士に対して下士が無礼に及べば、手討ちにされても文句は言えぬ。


 だが――、この差別が一つの事件を引き起こすことになるとは、龍馬はこのとき知る由はなかった。

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