第4話  長州・萩探訪

 文久二年一月――、長門・萩城下。

 そろそろ松飾りが取れるという十四日――、この日の空は白い雲に覆われていた。

 かつて吉田松陰が塾生らを教えていた松下村塾近く、その家は現在もそこにあった。

 吉田松陰の実家――、杉家すぎけである。

 その男は突然、この杉家にやってきた。

 杉文すぎふみは、応対に出たものの最初の一言が出なかった。

 着古した紋服に馬乗り袴、髷は結っていたものの蓬髪と言っていい乱れようだ。

 明らかに、長州ここの藩士ではない。

 

「――ここに、久坂玄瑞ちゅう男がおると聞いちゅう。おるかの?」

 聞き慣れぬ訛りだったが、ふみが気になったのは男の身なり以上に男の目的であった。

「久坂は、私の主人でございますが……」

 

 まさか、夫を捕らえに来た幕府の人間だろうか。

 文は、そう思った。

 久坂玄瑞の妻――、杉文。

 彼女の実兄は、あの吉田松陰である。

 その兄は安政の大獄によって刑死し、夫となった久坂玄瑞は腰を据える暇もないほど攘夷運動に忙しない。

 兄の次に、夫まで捕まれば――。

 文は警戒しつつ、言葉を押し出した。

 

「どちらさまで、ございましょうか?」

 男は破顔し、頭を掻き始めた。

「これは、すまんのう。わしゃ、土佐から来ちょった坂本龍馬というもんですき。武市の使いで来たがじゃ」

 幕府の人間でなかったことに安堵して、文は警戒を解く。

「武市さまの名は、久坂から聞いたことがございます。ですが久坂は、ただいま留守にしております」

「この萩におらぬのかえ?」

「さぁ……、どこにおりますのやら……」

 

 文の言葉は半分は、夫への文句だ。

 夫婦になっても、夫・久坂はあちこちを飛び回ってばかりだ。

 文には、世情のことはよくわからない。

 夫・久坂は、この日の本を異国から守るのだという。

 それは松蔭あにの、遺志らしい。

「わしは、文武修行館ぶんぶしゅぎょうかんにいちゅうきに、久坂さんが帰っちょったら伝えてとぉせ」

 

 坂本龍馬と名乗った男は、そういった。

 文武修行館とは、長州藩が他国者のために設けた宿泊施設である。

 すぐ近くには、藩校・明倫館めいりんかんもある。

 龍馬の背を見送って、文は空を仰ぐ。

 夫婦水入らずで過ごせるのは、果たしていつになるだろうか。

 兄に続いて大事な人を、これ以上失いたくない文であった。 

 

                    ◆◆◆


 長州藩は周防国すおうのくに長門国ながとのくにを領国とし、石高三十六万九千石の雄藩だという。

 西に馬関海峡ばかんかいきょう(下関海峡)をようし、城下の萩は日本海に、水軍の拠点があるという三田尻(防府)は、瀬戸内海に臨んでいるらしい。

 土佐と同じ海に面しているというせいか、長州を訪れた龍馬はすぐにこの地に馴染んだ。

 龍馬が土佐を発ったのは昨年の十月初旬――、諸国を巡っての剣術修行という名目であったが、本当の目的は武市半平太の使いである。

 尊王攘夷志士・久坂玄瑞に、武市からの書を渡すためだ。


「――いよいよ、土佐も立ちますか……」

 龍馬の滞在先・文武修行館を訪ねてきた久坂玄瑞は、龍馬の前に座すと腕を組んだ。

 その前に明倫館で、柳生新陰流の久坂と軽く手合わせとなった。

 他流と当たるのは、江戸鍛冶橋土佐藩邸での他流試合以来である。

 久坂の言葉に、龍馬は視線を落とした。

 

「それでも、土佐はまだまだがよ」

「この書には、土佐藩も攘夷に藩論をすると書いていますが?」

 意外な反応と思ったのか、久坂が瞠目した。

「わしも、そうなればええと思っちゅう。けんど、根深いもんが土佐藩はあるがじゃ」

 土佐藩に根付く、上士と下士の関係。

 徳川開府から長年続くこの差別が、鎖国が瓦解したように砕かれるときがくるのだろうか。

 武市は土佐藩上下を一致させて、勤王に向かわる一藩勤王いっぱんきんのうを唱えているが。

「驚きましたな。あなたは武市どのの勤王党の一人では?」

「武市さんを、非難するつもりはないっちゃ。わしもこのままこの日の本が、異国に振り回されるのは、堪らんきに」

「この長州も、似たようなものですよ……」

 久坂はそういって、嘆息した。

 

 長州藩は安政四年に、藩論として「攘夷」の意見を幕府に提出したという。

 だが長井雅楽という男の航海遠略策により、朝廷と幕府との協調策を模索するようになっているらしい。つまり、公武合体に傾いているというのである。

 

「ですが坂本さん、俺たちは自分たちだけでも攘夷を決行するつもりです。攘夷は帝の意思です。大義は我らにあります。幕府はもはや、あてになりません」

 

 久坂玄瑞――、二十一歳。

 国難に武を以て立とうというこの青年の気迫に、いまだ迷走する龍馬の心が震えた。

 久坂の亡き師は、志を持った人々が一斉に立ち上がり、大きな物事を成し遂げよと説いたという。

 龍馬は土佐勤王党に入ったが、武市たちのように異国と戦うという気合いまでは達していなかったのである。

 異国に強く干渉されないために、この日の本も強くならねばならぬ。

 龍馬のかつての師・佐久間象山も、土佐で異国のことを聞いた河田小龍もそう力説していた。

 しかし、それは異国を打ち払うという攘夷から外れる。

 

 ――わしも、立ち上がらねばいかんがじゃ……!


 久坂から武市の返書を受け取り、龍馬は空を仰ぐ。

 この日の本のために、己はなにをすべきか――。

 龍馬が故郷・土佐に戻ったのは、二月末のことであった。

 


「――長州も藩論は、公武合体推進か……」

 帰国し、武市道場に現れた龍馬の報告に、武市半平太は眉を寄せた。

 これに、平井収二郎が口を添える。

「龍馬、武市さんはの、吉田東洋に会うたが」

 

 土佐藩参政・吉田東洋は、武市にこういったという。


 ――そこもとは、浪士の輩に翻弄されているのであろう。わが土佐藩と幕府との関係は薩摩、長州とは違うのだよ。それを両藩と事を同じにしようとは。

 

「おのれ、吉田東洋……っ」

 道場に集う勤王党の面々は、苦々しい顔である。

 やはり、藩論を攘夷とするのは一筋縄ではいかぬ。

 だが武市は、一藩勤王に拘り続ける。

 土佐を変えたいという想いは、龍馬にもわかる。

 いつもは物事に慎重な武市だが、このときはどこか違っていた。

「武市さん、なにを考えちゅう?」

「龍馬、こん土佐は小さいこんまい。さらに、藩にいる男の心もじゃ。幕府と心中する気でいゆう。それではこん土佐は終わりじゃ。ほうやき――」

 武市はそのあとは、なにも言わなかった。

 

                  ◆


 龍馬が土佐に帰ってまもなく、土佐勤王党の一人である吉村虎太郎が脱藩した。

 脱藩は、一族郎党にまで罪が及ぶ大罪である。

 聞けば薩摩藩攘夷派志士の挙兵計画に、参加するためらしい。

 なんでも薩摩藩の事実の実力者、島津久光が藩兵とともに上洛するらしい。

 武市は「やつにもなにか考えがあるのじゃ」と笑っていたが、脱藩とは穏やかではない。 おそらく、吉村の真意は龍馬と同じだろう。

 武市の目指す一藩勤王が、困難であることを。

 龍馬は坂本家の庭で、暮れゆく空を見上げていた。

 龍馬が仲間から聞いた話では、吉田東洋を斬るという。

 

「龍馬、こん土佐は小さいこんまい。さらに、藩にいる男の心もじゃ。幕府と心中する気でいゆう。それではこん土佐は終わりじゃ。ほうやき――」


 あの時、武市が最後になにを言おうとしたのか、龍馬にはわかる気がした。

 藩を動かしている吉田東洋を斬れば、藩は変わると。

    

――武市さん、そんなことでは藩は変わらんがよ。


 それは、新たな憎しみを生むだけである。

 だが龍馬が宥めても、武市の決心は変わらないだろう。

 

「龍馬、こがなところで、なにしちゅう?」

 薪を取りに外に出てきた姉・乙女が龍馬の隣に立ち、同じく空を見上げる。

「乙女姉やん、こん土佐は小さいこんまいのう……」

小さいこんまい……かえ?」

「ああ、小さいこんまい

 

 乙女は龍馬に理由を聞くことはなく、「そうか……」と答えた。

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