第5話 龍馬、巣立ちの時

 長州・萩から帰った龍馬は、空を仰ぐことが多くなった。

 風光る三月半ば――、まもなくこの土佐も、桜色に染まるだろう。

 だが龍馬の心は、時化しけの海に浮かぶ船のごとく、揺れていた。

 この国を強くしたい――、龍馬の想いは、この土佐にいては叶わぬ。

 誰かがいずれ成し遂げるとしても、それを待っているほど龍馬は呑気ではない。

 こうと思ったら我慢出来ないのが彼の性分で、萩へ行き、草莽崛起そうもうくっきに触れたことが彼の心を急かしたのである。


 志を持った在野の人々が一斉に立ち上がり、大きな物事を成し遂げようとするという意味の草莽崛起。

 久坂玄瑞の亡き師・吉田松陰が唱えたというこの教えは、龍馬の心も捉えた。

 しかもである。

 龍馬が武市への返書として久坂玄瑞から受け取ったその中には、こう書かれていた。


 ――もう諸大名も公卿もあてにはできない。名もなき一般の民が結束して、行動する他にはもう策がない。


 さらに久坂の手紙は、次のように続く。


 ――悪いが土佐藩も長州藩も、目的を達するためなら滅んでもいいではないか。


 要するに、欧米列強が侵略の魔の手を日の本にのばしている時に、藩なんてどうでもいいではないかと、久坂は寄越してきたのだ。

 久坂がここまで過激になったのはおそらく、武市が土佐藩を勤王で一本化する一藩勤王に固執していたからだろう。

 しかも武市は、土佐藩参政・吉田東洋を葬るつもりだ。

 龍馬にとって武市は、兄ともいえる存在である。

 この暴挙を止めるのが彼のためだろうが、武市は妙なところで頑固だ。

 冷静沈着で温厚な男なのだが、今回はよほど腹に据えかねる事態らしい。

 吉田東洋に一藩勤王を直談判するも一蹴され、さらに日これまでに至る上士の態度への蓄積された鬱憤うっぷんが、彼を過激な方向へと向かわせたのだろう。

 おそらく龍馬が止めても、武市は動く。

 といって、龍馬は藩に知らせることもしなかった。

 仲間を裏切るなど、そんな了見を龍馬はもってはいない。

 だが――。


 見上げた空は白く霞み、春告鳥はるつげどりが梅の枝に留まっていた。

「ならばおまんは、どうしたいがじゃ?」

 その鳥が、まるでそう言っているかのように見下ろしてくる。

 わかっているのは、このまま土佐に留まっていても、この日の本は変えられないということだ。

 

 異国と、朝廷の間で揺れる幕府――。

 異国を刺激したくない幕府は、異国に何も言えぬ。

 さらに朝廷は、攘夷を望んでいるという。

 いずれ幕府は攘夷を決行してくれる――、公武合体の裏に、そんな思惑が朝廷にあるらしい。ゆえに幕府は、いずれは攘夷を朝廷から迫られることになるだろう。

幕府としては、朝廷も刺激したくあるまい。

 刺激すれば幕府の権威は一気に失墜し、自滅してしまう。

 しかしそれよりも、攘夷派志士が動き出した。

 果たして異国をこの日の本から追い払うのが、この国のためか否か。

 昨今の攘夷にも、龍馬は懸念がある。

 そう思ってしまうのは、佐久間象山と河田小龍の影響だろう。

 

 異国を恐れるだけではなく、異国の良きものを取り入れて軍備と防衛を整え、貿易で富を増やす。幕府や一部藩はようやく西洋式の船を持ち始めたようだが、まだ誰でもその船に乗れるわけではない。

 特に龍馬など下級武士が、藩や幕府の軍艦に乗れる筈もなく、船を買う資金すらない。


 公武合体に傾いている土佐藩を、攘夷一本にしようと武市半平太は必死だ。

 そのためなら、吉田東洋を斬るという策に、龍馬は納得がいかない。

 龍馬の想いと、土佐勤王党の目指す道が違い始めた。

 既に土佐勤王党からは、二人が脱藩した。

 一人は吉田虎次郎で、もう一人は沢村惣之丞である。


 ――こん土佐は、まっこと小さいこんまい


 日の本が鎖国から開国に転じても、土佐は未だに上士と下士の差別がある。

 土佐勤王党は、下士が大半を占める。

 参政・吉田東洋がその理由で一藩勤王を説く武市を一蹴したわけではないだろうが、上士と下士の身分差は日の本の鎖国以上に強固なようだ。

 久坂玄瑞の言う通り、藩などあてにせず、立ち上がらねばならないのだろう。

 この、日の本のために――。

 龍馬の心は、ついに決まった。

 


「兄やん、土佐を出たいがじゃ」

 夕餉時――、囲炉裏を囲む坂本家の面々の前で、龍馬は口を開く。

「また、剣術修行か」

 兄であり坂本家当主・坂本権平は、このあと思わぬことを告白されるとは知らず、芋汁の椀に口をつけていた。

「いんや。脱藩じゃ」

 この言葉に、兄・権平は啜っていた汁を盛大に吹き出した。


                 ◆◆◆


 龍馬が突然脱藩を告げた翌――この日の夕空は、和やかだった。

 庭先の一重桜の梢には、白い花弁がちらほら見え出し、光を含んだ青空が、静かに流れるように漂っていた。

坂本乙女は火吹き竹を腰に当て、空を仰ぐ。

 彼女は以前から、龍馬がこの土佐を離れる予感があった。正確には、龍馬が生まれてしばらく発ってから、この子はいつか土佐を巣立つと思っていた。

 亡き母・幸は、「龍馬は龍となる子やき、龍の名をつけたがよ」と言っていた。

 龍はいずれ、天に昇る。

 天翔あまかけける龍となる。

 母はどこまで、龍馬むすこに期待していたのかはわからない。

 

 弱虫で泣き虫で、どうしようもない甘ったれ――。

 それが、幼い頃の龍馬だった。

 最初は本当に龍馬が龍になるのかと思っていたが、龍馬はたちまち強い男になった。

 この土佐は小さいという龍馬に、乙女はついにこの日がきたと思った。

 はたして天翔ける龍となるかは定かではないが、広い世界を見たくなった龍馬には、この土佐は狭く感じるのだろう。

 

 ――しかし脱藩しゆうとは、考えちゅうことも大きいふとい奴じゃ。


 龍馬が脱藩を口にしたとき兄・権平は大激怒したが、乙女は落ち着いていた。

 驚かなかったといえば嘘になるが、龍馬は何らかの形で土佐を離れるだろうと思っていたため、衝撃は兄より弱い。


「決心は変わらんがか?」

 夕餉を終えて、乙女は龍馬を部屋に呼んだ。

「乙女姉やんも、反対かえ?」

「龍馬、脱藩しゆうことは、本家の才谷屋も巻き込むことになりゆう。どげな藩の咎めを受けちゅうかわからん。おまんの腹一つではすまんがやき」

 脱藩は欠落の罪として扱われ、家名は断絶、田畑、家屋敷、家財を根こそぎ没取され、本人が捕らえられれば切腹である。

「けんど――」

 龍馬は乙女から視線を逸らして、下を向いた。

 

 そんな龍馬の姿を乙女がみたのは、何年ぶりだろうか。

 近所の子に虐められて泣いて帰って来る幼い龍馬は、乙女に怒られると思っていたのか、視線を逸らして下を向く子供だった。

 あのときは、自分など強くなれぬと諦めていたからこそ、乙女は叱り飛ばしていた。

 

「龍馬、脱藩とはの、こっそりとやるもんじゃ」

「乙女姉やん……?」

「権平兄やんは、おまんを説得しろといいゆう。ほんじゃき、説得はした。あとはおまんが、どうするかじゃ」

 

 引き止めているのか、背を押しているのか、どちらともいえぬ言葉だったが、乙女としては弟の成長が喜ばしい反面、淋しいような気もするのだ。

 脱藩すれば、この土佐に帰ることは叶わなくなる。

 すべてを覚悟した龍馬に、乙女が出来ること――。


「乙女姉やん……」

「それは、おまんが持っちょき」

 乙女は一振りの刀を、龍馬に渡した。

 坂本家に伝わる、銘刀・陸奥守吉行むつのかみよしゆき――。

 兄・権平に知られれば叱られるだろうが、乙女が龍馬に最後にしてやれることは、これが精一杯なのだ。

 今度、いつ会えるかわからぬ。

 いや、もう会えぬかも知れぬ。

 それでも姉として、龍馬の想いを叶えてやりたい。

 天翔ける龍となる、弟を。

 

 それから数日後の三月二十四日――、乙女が起き出すと龍馬はもう坂本家にはいなかった。まもなく兄・権平が起き出して、すべてを知って怒り出すだろう。

 坂本家はしばらくゴタゴタするが、いずれまたいつもの生活に戻る。


 ――龍馬、頑張むくれ!


 乙女はいつも龍馬が座っていた場所を見つめ、心のなかで声援を送った。 

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