第7話 政事総裁職・松平春嶽

 文久二年晩秋――、江戸。

 土佐から長州に脱藩した龍馬は、この江戸にいた。

 潜伏先は剣術修行で慣れ親しんだ、京橋桶町の千葉道場である。

 前触れなしに突然現れた龍馬に、重太郎兄妹は驚いたが、脱藩してきたと告げるや、忽ちその顔色は青くなった。

 脱藩すれば、もう国元には帰ることは叶わない。

 身分も郷士から、浪人である。

 こうなると、許婚いいなずけ・佐那子との婚礼はさらに遠のく。

 二人はそう心配したのか、数泊無言だった。

 当の龍馬はというと、いつものように頭を掻き、笑って言った。


「悪いが、しばらく厄介になるがよ」


 佐那子は嬉しそうではあったが、重太郎は苦笑いである。

 龍馬をかくまったとて、罪に問われることはないだろうが、思ったら即行動する龍馬の性格に呆れているのかも知れない。

 そんな千葉道場に、同郷の男が龍馬を訪ねてきた。

 

「いよぉ、饅頭屋まんじゅうや

 龍馬はその男の顔を見るなり、破顔した。

「その、饅頭屋という呼び方はやめてくれんかの?」

「はは……、癖やき、堪忍しとぉせ」

 男の名は、長次郎という。

 彼は高知城下・水道町すいどうちょうの饅頭屋『大里屋おおさとや』の息子で、士分ではない。

 饅頭屋の息子ゆえに、饅頭屋長次郎と呼ばれている。

 

「よく、わしがここにいると、わかっちょったのう」

「坂本さんが江戸の千葉道場で剣術を学んじょったことは、知っちゅうきに。心配せんでも、土佐の誰にも、坂本さんがここにいちゅうことは話しとらんがよ」

 聞けば長次郎は土佐藩重臣・由比猪内ゆいいないの従僕として江戸に留学し、学問に励んでいるという。

「坂本さん、これからどうするがじゃ?」

 長次郎の問いに、龍馬は即答した。

「わからん」

「は……?」

「なんせ、脱藩浪人の身じゃきにのう」

 呵呵と笑う龍馬に、長次郎は絶句した。

「坂本さんも、人を斬るがですか?」

 龍馬が土佐勤王党に入ったと知る長次郎は、眉を寄せた。

 

 土佐では土佐藩参政・吉田東洋が殺害され、藩内には勤王党が台頭してきているという。

 長次郎は吉田東洋殺害の下手人は、土佐勤王党だと思っているようだ。

「――わしはのう、長次郎。人を斬っちょっても、このこん国は強くならんと思っちゅう」

 龍馬は、敢えて勤王党が下手人だとは答えなかった。

このこんを強く……?」

「そうじゃ。異国の言いなりじゃのうて、異国と対等になるがじゃ」

 それが、龍馬の攘夷だった。

 土佐勤王党は土佐藩を勤王攘夷に固めようとしているが、それを急ぎすぎた。

 吉田東洋殺害は、してはならなかったのだ。

 今のところ土佐に不穏な気はないらしいが、どうも嫌な予感がしてならない。

「小龍センセも、同じことを言っちょりました……」

 

 長次郎はかつて、河田小龍かわだしょうりゅうの下で学んでいたという。

 藩命によって米国から帰国したジョン万次郎を取り調べ、龍馬に海防の必要性と異国との貿易を説いたあの河田小龍である。

「わしが土佐を離れたンは、そのためじゃ。わしは、このこんを強くしたいがよ。弱虫は、いつまでも弱虫でいかんがじゃ」

 異国の優れた技術――、それを海防に活かす。

 ようやく見えてきた己の道は、容易いことではない。

「けんど、坂本さんだけじゃ、このこんは動かん」

 長次郎の言うとおりである。

 龍馬一人が意気込んでも、この国は強くはならない。

「わかっちゅう。こうなれば幕府の大物に直談判するがじゃ」

 これに長次郎が再び絶句して、嘆息した。

「いま、脱藩浪人の身じゃと言わんかったかえ?」

「当たって砕けろ、じゃ」

 龍馬の頭の中にあった幕府の大物は、越前・福井藩主、松平慶永まつだいらよしながである。

 まったく面識はないが、土佐藩前藩主・山内容堂とは繋がりがあった。

 共に幕政に参加し、安政の大獄によって共に謹慎に追いやられたという。

 龍馬が二人の関係を知るのはそこまでだが、ただそれだけで、松平慶永に会おうとするのだから、無謀といえば無謀である。

 はたして、脱藩浪人となった男と松平慶永は逢うだろうか。

 しかし、国は個人では動かせぬ。

 それからまもなく龍馬は江戸福井藩邸に、松平慶永との面会を求める書を送ったのだった。

 

                  ◆◆◆


 越前・福井藩十六代藩主、松平慶永――、福井藩は、越前国・北陸道の難所である木ノ芽峠きのめとうげより北側、通称・嶺北れいほく中心部を治めた藩である。

 藩祖は、松平秀康まつだいらひでやすである。

 

 松平秀康は徳川家康の次男で、豊臣秀吉の養子となったため当初は羽柴秀康はしばひでやすと名乗っていたそうだが、下総国しもうさのくに・結城城主・結城晴朝ゆうきはるあさの養子となり、結城姓を名乗るに至ったという。

 関ヶ原の戦い以降、結城秀康は越前一国を与えられて姓を松平に復し、これが越前松平家の始まりとされる。

 それから二百六十一年――、福井藩十六代藩主となった松平慶永だったが、安政の大獄の風が江戸城内にも吹いた。

 

 亡き大老・井伊直弼による安政の大獄は、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を紀伊藩主・徳川慶福とくがわけいふくに決定したことに反対する者たちを弾圧した事件で、親藩の福井藩主だろうと例外ではなかった。

 慶永は藩主の座を越前松平家の支流・越後糸魚川藩主の松平直廉まつだいらなおかどに引き渡し、隠居へと追い込まれた。

 その慶永は隠居しても、幕政改革を諦めてはいなかった。

 そんな慶永に、幕政復帰の話がきた。


「――よくぞ、参った。春嶽しゅんがく

 江戸城・上段の間で、十二代将軍・徳川家茂とくがわいえもちは、松平慶永の登城を労った。

 慶永にとっては、謹慎処分からおよそ二年ぶりの、江戸城である。

 この将軍・徳川家茂こそ、徳川家定の継嗣問題で対立相手の井伊直弼たちが推していた、紀伊藩主・徳川慶福である。

 慶永に将軍となった彼に反論する気はなく、恭しく頭を上げた。

「上様のご尊顔そんがんはいし奉り、恐悦至極きょうえつしごくにございまする」

「これからは、そなたの力が必要となろう」

「この松平春嶽まつだいらしゅんがく、謹んで御下命承ごかめいうけたまわりまする」

 慶永は改めて、低頭した。

 

 松平春嶽――、それが隠居後の慶永が名乗り始めた号である。

 彼が幕閣に返り咲いた役職は政事総裁職せいじそうさいしょく――、幕府内外の政務を総括し、将軍を補佐するために設けられた職だがもともとあった職ではなく、春嶽には当初、大老就任が打診されていた。しかし彼はこれを固辞、政事総裁職は新たに設けられた職だった。

 今の世は開国しても、異国を払うという攘夷論に満ちている。

 


「――異国とまともにやり合ったって、勝てねぇよ」

 春嶽にそういったのは、かつて軍艦操練所教授方頭取ぐんかんそうれんしょきょうじゅかたとうどりであった勝麟太郎こと、勝海舟である。

「勝てぬか……」

「カビの生えた戦法が文明の進んだ異国に通じると、おいらは思いませんね」

 江戸っ子気質のこの幕臣は、春嶽が相手だろうと口調は変わらない。

 万延元年――、幕府は遣米使節を米国メリケンに派遣、護衛として幕府軍艦・咸臨丸が同行した。

 この咸臨丸に乗船したのが当時、軍艦操練所教授方頭取であった勝である。

 しかし帰国してからは海軍から遠ざけられ、勝も幕府に鬱憤うっぷんが溜まっているらしい。

 共に幕府から藩主の座と役職を追われた春嶽と勝、それでも幕府を想う気持ちは萎えてはいない。

 春嶽は藩主時代から開国派で、幕府に対してこう説いた。

 


 ――まず世界の形勢から考えて、鎖国を続けるべきでないことは瞭然であり、むしろ我がほうから海外に乗り出し、諸外国と交易することを企望すべき時節である。そうした折柄、道理をもって貿易を希望する米国の申し出は、拒絶してはならない。また、強兵の基礎は富国にあり、富国のためには諸外国との貿易を促進しなければならない。


  

 されどこれを公に言えば、攘夷派に狙われるのが今の世である。

 だが勝の言う通り、異国と今戦っても勝てぬ。

 諸藩にまだ西洋式軍艦は十分に整備されておらず、大砲も旧式のものだ。

 昨今はこの江戸では、異人襲撃も行われているという。

 そんな松平春嶽が暮らす江戸藩邸は、常盤橋近くにある。

 常盤橋は江戸城外郭の正門の一つ・常盤橋門で、日本橋川に架かる常盤橋は、奥州街道に通じる。

 季節は師走――、江戸を覆う寒天は白く曇り、この常盤橋福井藩邸に一通の書が届いた。 

「――坂本龍馬……?」

 書を寄越してきた相手の名に、松平春嶽は眉を寄せた。

「浪人ごときが、何たる不躾な……」

「面白いではないか」

 留守居役の男は憤慨したが、春嶽は興味をそそられた。

 坂本龍馬――、元土佐藩郷士。

 理由あって脱藩し、この江戸にいるという。

 その男が、政事総裁職となった松平春嶽に逢いたいという。


「殿っ、攘夷派の者かも知れませぬぞ!」

 開国派の春嶽は、攘夷派にとっては敵だろう。

 確かに会えば、相手はその場で抜刀するかも知れぬ。

「構わん。このわしに逢おうという玉だ。どんな面構えか、気になるではないか」

 春嶽はそういって、留守居役の男を黙らせた。

  

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