第16話 誤算

 米国商船への砲撃から約二十日後の文久三年六月一日――、馬関海峡を米国メリケンの軍艦が通過するらしいと、長州・萩に報せが届いた。

 長州藩は、藩独自の鎖国を馬関海峡に敷いていた。

 もちろんそれは、ここ半月ほどに実行された海上封鎖だが、どんな用事であれ、異国船に海峡を通らせぬつもりであった。


 米国メリケン商船のことを知らないはずがなかろうに――。

 

 沖を見つめていた久坂玄瑞は、鼻で笑った。

「撃てっ!! 馬関海峡を通すな!」

 轟音を響かせて、長州沿岸の各大砲が火を噴く。

 この日も、彼らは勝つつもりだった。

 だが、長州側の砲弾は米国艦メリケンかんに対して、かすりもしない。

 まるで嘲笑うかのように、馬関海峡を突っ切ろうとしている。

「こちらの射程範囲を知っている……、ということか」

 久坂は米国艦メリケンかんを睥睨し、唇を噛んだ。

「久坂、奴らの狙いは我が藩のふねじゃ……!」

 近くにいた高杉晋作が、叫ぶ。

 下関港内には、長州藩の軍艦・庚申丸こうしんまる壬戌丸じんじゅつまる癸亥丸きがいまるが停泊していたのである。

久坂には米国艦メリケンかんの意図が、ようやく理解わかった。

「近づけさせるなっ!」

 しかし長州側の大砲は、米国艦メリケンかんに届かぬ。

 このかんにも、米国艦メリケンかんは壬戌丸に狙いを定めてきた。

砲撃された壬戌丸は逃走するが、米国艦メリケンかんにあっさり追いつかれて撃沈。救援に向かった庚申丸、癸亥丸も返り討ちにされて庚申丸は撃沈し、癸亥丸は大破させられた。

 この形勢逆転に、久坂たちから余裕が消えた。

 米国艦メリケンかんの目的は馬関海峡通過ではなく、米国商船を砲撃されたことに対する、長州への報復だった。

 本気を出してきた米国艦メリケンかんに、さすがの久坂も歯軋りをした。


「まだじゃ。これくらいで長州の攘夷は消えん!」

「で、ですが、ふねが……」

 士気が下がり始めた仲間に対し、久坂は諦めなかった。

「大砲がすべて、損壊そんかいさせられたわけではあるまい!」


 しかしこの大砲が、火を噴くことはなかった。

 五日後――、今度はフランスかん二隻が馬関海峡に現れ、前田、壇ノ浦の砲台が砲撃によって沈黙させられた挙げ句、砲台を占拠されたのである。

 その後、砲を破壊したフランスかんは去った。

この結果を、久坂たちは誰も予想していなかった。

 長州は米国艦メリケンかん一隻の大砲でふねを四隻失い、今度はフランスによって大砲を砕かれた。

 異国との実力差に茫然自失する中、いち早く立ち直ったのは、友・高杉晋作だった。

 

「久坂、俺は諦めんぞ!」

「ああ」

 高杉の言葉に、久坂は頷く。

 馬関海峡にやってきた、米国艦メリケンかんとフランスかんの大砲は長州に向けられたものだったが、もしそれがこの日の本に対してだったら――。

 まさに、隣国・清と同じ道を辿る。


 久坂玄瑞と高杉晋作――、かつての松下村塾の双璧は、攘夷の意志を貫くことを確認しあったのである。


                 ◆◆◆


 大阪・北鍋屋町きたなべやちょう――、専称寺せんしょうじ

 勝海舟が神戸海軍操練所建造に先駆けて、この大阪に開いた海軍塾は、この寺の敷地にある。塾生も集い、さぁこれからという時に、最初の難関にぶつかった。

 海軍操練所の、建造費用である。

 しかし、

 算盤そろばんなどはじいたことがない龍馬には、その諸費用にはちんぷんかんぷんだったが、操練所建造にはかなりの資金を要するらしい。

勝いわく、幕府からは金は出ないという。

 幕府は建造許可はしたものの、資金はこちらで工面しろということらしい。


「ケチじゃのう……」

 龍馬は勝の前で、顔をしかめた。

「幕府の金蔵かねぐらには、こっちに出すほど余裕がねぇのさ」

 原因は、昨年の八月に横浜・生麦村で起きた事件だという。

 

昨年の八月――、勅使を伴って京から江戸に向かった薩摩藩国父・島津久光は、薩摩への帰路についていたという。

 だが東海道・生麦の地にて、四人の英国人が行列を塞いだらしい。

 世にいう、生麦事件である。

武士に無礼討ちの特権があるとは知らぬ彼らは、久光の籠まで迫り、薩摩藩士がこのうちの三人を斬ったという。

 幕府はこのときの賠償金を、英国エゲレスに払わねばならぬらしい。

 攘夷派が聞けば憤慨しそうだが、幕府は相変わらず異国に弱気だった。

 だが金がなければ、操練所は建たないし、船も造れない。

 そんな龍馬たちのもとに、長州・馬関海峡での一報がもたらされたのは、五月も終わりのことだった。

 結局幕府は、朝廷に回答した攘夷決行期日になっても動くことはなかった。

 確かにこの国の現在の戦力で、異国と戦うのは無理だと龍馬も思う。

 代わりに動いたのは、長門国・長州藩であった。

 萩城下は、龍馬も訪れたことがある。

 まだ土佐勤王党にいたころ――、武市半平太の書を届けに、久坂玄瑞に逢いに行ったときである。

 久坂は、龍馬にこういった。


 ――志を持った人々が一斉に立ち上がり、大きな物事を成し遂げよと説いた、師の教えを実行するのだと。


 異国を武を以て払うという彼の意思は、馬関海峡・米国メリケン商船砲撃という形で実行に移された。

 されど――。


 専称寺境内を、湿った風が吹く。

 このときの龍馬の心の中には、懸念があった。

 塾を出たその先で、龍馬は空を見上げた。

思わしくないほっこりせん、空じゃのう……」

 梅雨ながあめの季節とはいえ、この日の空はどんよりと曇っていた。

 降りそうなまま執拗に曇った空は、龍馬の心の中にまでその鬱陶しい雲を広げ、お陰で気分は良くはない。

 

「長州藩が異国船を追い返しちょったに、随分たいちゃー疲れだれちょる顔をしちょるのう?」

 声をかけてきたのは饅頭屋長次郎改め、近藤長次郎である。

 海軍塾には長次郎をはじめ、土佐勤王党の数名が入門していた。

 龍馬は、勤王党の精神が結束初期に戻ればいいと思っている。

 政敵を排除し、無理に行動を起こせば軋轢が生じるというものだ。

 現に前土佐藩主・山内容堂は、土佐勤王党封じに動き出している。

 

「おまんはいいのう……。悩みがなさそうで」

 どことなく呆けた長次郎の表情に、龍馬は軽く嘆息した。

馬鹿にするなわやにすな。わしも、このこん国のことを考えちゅう」

 長次郎は渋面で、口を尖らせた。

「異国はまだ、この国にいちゅうがよ」

 そう異国船は、馬関海峡から引き返したに過ぎない。

 龍馬は長州藩を批判するつもりはないが、師・勝海舟は長州藩の異国船への砲撃を、無謀と言った。

 砲撃された異国船からすれば、この国で異国排斥の声が上がっているなど知らず、開国したはずの国が攻撃してくるわけがないと思っていたのだろう。

 そこに、砲撃である。

 最初に砲撃したのは商船だったため、迎え撃たれることはなかったそうだが、次に馬関海峡にやってきたフランス船は軍艦だったようだ。

 しかし、このフランス艦もまさかこの国から砲撃されるとは思っていなかったらしく、混乱状態に陥ったようだ。


 ――もし相手が本気を出していれば、結果はどうなっていたかわからねぇぜ。


 勝は龍馬に対し、最後にそういった。

 彼らが混乱状態に陥っていなければ、損害は長州側にも出ていただろうと、勝はいうのである。

「龍馬さんっ、大変じゃ!」

 その声に龍馬の視線は、見上げていた空から引き剥がされた。

 なんでも、長州が米国メリケンとフランスによって砲撃され、惨敗したというのである。

 勝と、龍馬の懸念は的中した。

 


「だから、云わねぇこったじゃねぇ」

 勝海舟は煙管きせるを手に、眉を寄せていた。

 異国に対して、現在のこの国の戦力が追いついていないことを知る彼は、今回の長州藩惨敗をそれ見たことかと吐き捨てた。

とは言ってもほんじゃけんど、センセ。少しはちったー長州の損害は大きくないふとうないんじゃろう?」

 龍馬にとって長州は、単に訪れたことがある地ではなかった。

 龍馬が土佐から脱藩するに至ったきっかけは、この長州で久坂玄瑞に出逢い、志を持った人々が一斉に立ち上がり、大きな物事を成し遂げるという言葉に触発されたせいだ。

「異国からすりゃあ、やられたお返しに過ぎねぇ。こりゃあますます、幕府の金はあてにならねぇぜ? 龍馬」

 米国メリケンとフランス側は、砲撃されてこうむった損害の賠償を幕府に求めてくるだろうと、勝はいう。

「異国を払うがは、一筋縄ではいかんてこにあわんのう……? センセ」

 龍馬の、最後の一言は独り言だ。

 この国と異国との戦力差――、改めて知らされた現実に、神戸海軍操練所の建造は必要だと二人は思ったのであった。

  

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