第15話 幕府に届け! 火を噴く攘夷の砲火

 京・三本木さんぼんぎ――。

 三本木は南北に走る東三本木通ひがしさんぼんぎどおりを挟んで、鴨川や東山を眺める風光明媚ふうこうめいびな場所である。

 東山の下河原から芸妓げいこが移り住み、花街として栄えていた。

 その日――その男は、料亭の二階で、鴨川の流れを肴に、盃を傾けていた。

 昨今の洛中は尊王攘夷の風が吹き、天誅と称する殺戮さつりくが横行している。

 尊王攘夷は男も攘夷派志士のため文句はないが、過激行為には躊躇ためらうものがある。


 ――桂さんは、慎重すぎる。


 彼にそういったのは、久坂玄瑞である。

 長州藩士・桂小五郎――、彼もまたこの日の本を憂う男だが、血気に走る長州藩攘夷派志士と違って慎重であった。

 急いては事を仕損じる――の、ことわざどおり、やり方によっては竹箆返しっぺかえしを食らう恐れがある。だが久坂は、


虎穴こけつらずんば虎子こしを得ず――、ともいいますよ」


 と、自信たっぷりに笑った。

 あれから彼らとは別行動を取っていた桂だったが、攘夷を諦めているわけではなかった。

 座敷から見下ろす鴨川の流れは、殺伐さつばつとした世の中にあってもその流れを変えることはない。

 個々の店の前に吊された提灯と、店から漏れる灯りをその水面みなもに映し、川は揺らぎながら光っていた。銀紙に光を当てたように乱反射するその光が、まるで川自身が発光していると勘違いさせるほどだった。

 しばらくして、障子の向こうで入室を求めてくる女の声がした。

 それは桂の馴染みの芸姑、幾松いくまつの声だった。

 

めずらしゅうおすなぁ、そないな難しい顔は初めて見ましたえ?」

 幾松はあごや頬が涼しくげ、整った美しい顔立ちの女である。

 高めの鼻梁びりょう、ゆったり微笑む唇、黒目がちの大きな目、島田髷しまだまげに挿した鼈甲べっこうこうがいに目をやれば、それは桂が幾松に買ってあげたものだった。

 

「わたしは、そんなに難しい顔をしていたか? 幾松」

 桂は苦笑した。

「へぇ、なんぞ気に病むことでもおありになりはったんどすか?」

「いつになればこの国は、落ち着くのかと思ってな」

「この都には、新たにもいますさかい……」

 幾松がそういって、眉を寄せる。

 みぶろとは、将軍・徳川家茂の上洛に先駆けて、幕府が集った浪士組のことである。

 その後、この浪士組は、黒谷くろたに金戒光明寺こんかいこうみょうじを本陣とする会津藩主にして、京守護職・松平容保の傘下となり、壬生浪士組組となったという。

 昵懇じっこんの仲となって、幾松は桂が尊王攘夷志士だと知っている。

 浪士組が取り締まっているのは過激攘夷派と、騒ぎに便乗して悪行を働いている不逞浪士ふていろうしだそうたが、幕府と真っ向から対立している他の攘夷派とて捕まるのではと、幾松は気にしているのだろう。

 

「わたしは、捕まらんよ」

「ほんまに?」

「ああ」

 それにしても、気になるのは故郷、長州である。

 

 幕府が朝廷に対し、攘夷決行の期日を回答した五月十日の翌日、長州藩は馬関海峡ばかんかいきょうにおいて米国メリケン商船を砲撃したという。

 桂がこれを聞いたのは、京・御池通河原町の長州藩邸でであった。

 米国メリケン商船は田ノ浦沖に停泊していたらしく、長州藩海岸砲台と長州艦・庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、米国メリケン商船は周防灘すおうなだへ逃走したという。

 この長州藩による攘夷決行は、朝廷から外国船を打ち払ったということで、褒勅ほうちょくの沙汰があったらしい。

 それなのに、桂から不安が消えぬ。

 それがなにを意味していたのか、このとき彼は知る由もなかった。


                   ◆◆◆


 文久三年五月二十五日――、横浜・在駐日アメリカ公使館。

在駐日公使ロバート・プリュインは、いつもと変わりなく粛々しゅくしゅくと仕事をこなしていた。

 上海からある急報が、もたらされるまでは――。


 夕刻――、アメリカ海軍軍艦・ワイオミング号艦長デビッド・マクドゥガル中佐が、公使館にやってきた。

 この頃のアメリカは、南北戦争の最中であった。

 ほとんどの軍艦はアメリカ本国にあり、南軍の軍艦を追跡していたワイオミング号が、居留民保護のため、一時横浜に入港していたのである。

 

「公使――、何事です?」

 公使プルインは机の上で手を組むと、眉を寄せた。

「我が合衆国の商船ペンブローク号が、砲撃を受けたそうだ」

「何処で……」

「この日本の、馬関海峡だよ。中佐」

 プリュインの言葉に、マクドゥガル中佐は絶句する。

 それはそうだろう。

 アメリカとこの日本は、条約を結んでいる。

 アメリカを受け入れたはずの日本国が、こちらを砲撃するわけがないと。

 公使プリュインですら、最初はそう思ったのだ。


 その日――ペンブローク号は、横浜から長崎へ向かう途中だったという。

馬関海峡にての砲撃により、馬関海峡を通ることをあきらめ、長崎行きも断念し、上海にむかったらしい。

 ゆえに、この横浜の在駐日アメリカ公使館への報せが遅れたようだ。

 彼はただちに、幕府外国奉行・竹本正雅たけもとまさよしを呼びつけた。

 


「Mr・竹本、我が合衆国と帰国は条約を結んだ。それを、なにゆえ攻撃されねばならぬ?」

「公使どの……、馬関海峡での砲撃は、幕府は預かり知らぬこと……」

 竹本正雅の顔は蒼白である。

「だが、かような暴挙を見逃すということは、貴国は当アメリカと、戦争をするつもりと受け取れるが?」

 幕府が知らずとも、砲撃してきたのはこの国の人間である。

 ここで許しては、アメリカが舐められる。

 プリュインのこの脅しに竹本正雅は頻りに謝罪し、幕府で処理するのでアメリカ側は何もしないで欲しいという。


 幕府外国奉行・竹本正雅が帰った後、それまで沈黙を守っていたマクドゥガルが口を開いた。

「彼らに任せて宜しいのですか? 公使。必要とあれば下関にて、報復攻撃すべきです」

 これに、プリュインは止めなかった。

 彼も軍人である。

 やられて、黙って引き下がる男ではなかった。


 それからまもなく――、アメリカ海軍軍艦ワイオミング号は、横浜を出港していった。

 目指すは馬関海峡――、この国でアメリカの実弾が、初めて放たれようとしていた。


               ◆◆◆


 馬関海峡にて長州藩による異国船への砲撃は、長州の圧勝だった。

 久坂玄瑞は晴れ晴れとした思いで、空を仰ぐ。

 開国派の中には、この国は異国に勝てぬという者がいるという。


 米国商船を砲撃する当日の夕方――、久坂玄瑞を始めとする長州攘夷派志士は、下関・光明寺に集結していた。

 もちろん、攘夷実行決起のためである。

 だがこれに、下関海防総奉行・毛利能登もうりのとが待ったをかけてきた。

 異国船への砲撃を、自重しろというのである。

 

「何? お奉行様が攻撃を自重せよ、だと?」

「バカな! 攘夷決行を十五日と決めたのは幕府ぞ。誰に遠慮する必要があるんじゃ!」

「そうだ! 夷狄討うつべし!」

 仲間の士気は高まった。

 久坂は決断した。

「他人が何と言おうとも、己の信念を貫くのみ! 今宵、我が長州が攘夷決行の先陣を切る!」


 こうして、長州の全大砲が火を噴いたのである。

 

 

 さらに米国メリケン商船を撃退した数日後――、長府藩ちょうふはんの物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦つうほうかんが長府沖に停泊しているのを発見したという。

 長州藩はこれを馬関海峡内に入ったところで砲台から砲撃を加えて撃退、それからさらに数日後にはオランダかんを砲撃、これも撃退させた。


 日の本の本州と豊前国ぶぜんのくにを隔てる馬関海峡――、関門海峡でも最も狭い海域である早鞆の瀬戸はやとものせとに面している壇ノ浦は、源平合戦最後の合戦地として知られる。

 この日の海は、砲撃戦を繰り返したとは思えぬほど静かであった。

 長州藩としては、異国船に馬関海峡を通過させぬ。

 

「久坂、やったな」

 声をかけてきたのは、高杉晋作である。

 高杉が突然頭を丸め、東行とうぎょうと号す僧姿になってしまったときは驚いたが、その彼は再び、攘夷に燃えていた。

「ああ。これで幕府も目が覚める。我が藩の名声は帝にも届きあそばすじゃろ」

 朝廷では長州派の公家が、公武合体派を押しているという。

 もはや、口先だけの幕府はあてにはならない。

 

 聞けばこの長州藩の異国船砲撃に、幕府は相当慌てているらしい。

 攘夷は帝のご意思、それを実行してどうして責められようか。

 このとき誰もが、闘志を剥き出しにしていた。


 

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