第17話 日の本を今一度、洗濯致し申し候
馬関海峡での長州藩惨敗から三日後――、龍馬に土佐から悲報が伝わった。
幼馴染みであり、土佐勤王党の一人、
「まさか吉田さまを斬っちょったがは、収二郎さんかえ?」
前土佐藩主・山内容堂が重用した参政・吉田東洋が暗殺されたのは、昨年の四月のことであった。これに土佐勤王党が関わっていたことは、龍馬も知っていた。
元土佐勤王党の一人にして、現在は海軍塾生・
「平井さんが囚われちょった理由は、それじゃないがよ」
土佐勤王党は、土佐藩の反論を勤王攘夷にすることを諦めていなかった。
武市半平太は京にて、勅使護衛の任に就いていたという。
そんな中、他藩応接役を務めていた平井収二郎は、間崎哲馬らと
青蓮院宮親王は帝の縁戚にあたるらしく、天台座主、青蓮院門跡であるとともに、帝の政治向きの相談相手だという。
つまり、帝に次ぐ朝廷の権威をもつということらしい。
だが青蓮院宮親王から令旨を賜っての藩政改革は、藩政復帰を目指しているという前土佐藩主・容堂公の怒りに触れたようだ。
友の一人が散った。
龍馬の心のなかで、悔しさと寂しさが入り交じる。
病死ならばまだ心の痛手は減るが、国を想う仲間がこうして死んでいくのはやりきれない。
――武市さんは、どう思っちゅうがのう……。
狭まる土佐勤王党包囲網に、武市はなにを考えているのか。
「
寅之助は、海軍操練所建造資金について聞いてきた。
「
「アテ?」
寅之助が首を傾げる。
この少し前――、勝海舟は龍馬に越前国へ行くように言った。
前福井藩主にして幕府政事総裁職であった、松平春嶽に逢うためだ。
龍馬が寅之助に言った「アテ」とは、この松平春嶽のことである。
かくして龍馬は、二度目の北陸路となった。
「――松平さま、
龍馬は久しぶりに対面した松平春嶽を前に、操練所建造の必要性を説く。
「それが、勝安房がつくろうとしている海軍操練所か? 坂本龍馬」
松平春嶽は幕府政事総裁職時代、上洛した京において可能な限り公卿等を説得して、攘夷の無謀を知らしめようとしたという。
だが将軍後見職・一橋慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとしたため、春嶽はこれに反対し、政事総裁職の辞退を申し出たが、幕府は受け入れらなかったらしい。
しかし春嶽は京を離れ越前に帰国し、これが理由となって幕府から逼塞処分および政事総裁職罷免となったという。
「操練所はきっかけじゃ。松平さま」
「きっかけか……」
松平春嶽は苦笑した。
「これからは、わしのようなモンでも船を持たなぁいかんと思うちょります。海の上で、異国と堂々渡り合うがじゃ。けんど、わしは学がないき、船の扱いは知らんがじゃ」
「そなたは、商人になるつもりか?」
「航海術を学びゆうがは、いつか役に立つがやき」
龍馬は異国と、戦をしたいわけではない。
これからの世は、侍であれ、商売をするようになる。
龍馬は、そう感じていた。
おそらく、土佐商人・才谷屋の血を、少なからず受け継いでいたのだろう。
坂本家は元は、才谷屋という商家であった。
才谷屋三代目・
この初代坂本家当主は、龍馬の曽祖父である。
松平春嶽は、神戸海軍操練所の資金援助を承諾した。
その額――、五千両。
「しかし惜しいですな? 大殿」
そういったのは、春嶽の隣に座していた福井藩政事顧問・
「坂本どの、大殿は本気でござるぞ?」
あとに続いたのは、側用人・三岡八郎(後の由利公正)であった。
春嶽が龍馬に、福井藩に仕官しないかと聞いてきたからだ。
「いやぁ……、わしは宮仕えは苦手がやき……」
龍馬は頭をかきながら、照れ笑いをして辞退したのだった。
◆◆◆
神戸海軍操練所建造資金の問題は、なんとか解決した。
六月末――、長雨が明けるにはまだ早すぎたが、ここ何日か真夏を思わせる日が続いていた。蝉の声が庭の木立の中から聞こえたが、その声はまだ鳴くには早すぎると思ってか、どちらかといえば遠慮がちなものだ。
だが海軍塾に帰ってきた龍馬は、思わぬ報せに唖然とした。
「――はぁ?」
なんと、馬関海峡で長州藩砲撃によって損壊した米国、フランス、オランダ船を、幕府が修理するというのである。
これでは、財政も悪化する。
「鳩が豆鉄砲を食らったような
勝海舟が渋面になった。
「
「嫌と言える幕府なら、この国は開国していねぇたろうさ」
つまり、押し切られたということだ。
――これはもう、
異国に対し、未だに事なかれ主義を貫く徳川幕府。
これではこの国は、一向に強くならない。
龍馬ですら、呆れるのだ。
弱腰と揶揄する尊王攘夷派の雄藩が、幕府と対立するのも無理はない。
されどそれでは、この国は強くはならないのだ。
朝廷の下に徳川家をはじめ、有力諸藩が連なった新しい体制とし、軍備を整えて異国と渡り合う――、この日の本を強くするために見えてきた己の目標。
――こうなれば、
龍馬が荒療治も必要と考えるようになったのは、この頃からである。
◆
土佐・坂本家――。
畑仕事に勤しんでいた坂本乙女は額の汗を拭い、空を仰いだ。
「今日も暑くなりそうじゃ……」
弟・龍馬がこの土佐を離れてから、一年が過ぎた。
江戸に剣術修行に行っていたときは寂しさは感じなかったが、今回はさすがの乙女も堪えた。
昔は、ぴーぴーとうるさいほどに泣いていた龍馬。
逃げる彼を、追い回していたころが懐かしい。
――あの子は、
生まれたばかりの龍馬を見つめ、亡き母・幸は乙女にそういった。
だが実際は、泣き虫で弱虫で、洟垂れだったが。
――アレはどうしようもない
兄・権平は、そんな弟によく呆れて、愛想を尽かしていた。
そんな権平は、龍馬の脱藩後、彼についてなにも語ることはなかった。
坂本家所蔵の刀、陸奥守吉行が消えていることに関しても、乙女に聞いてくることはない。おそらく権平は、内心は龍馬を想っているのだろう。
そんな乙女に、龍馬からの文が届いた。
これまでに、龍馬の文は幾度も乙女に届いた。
江戸でのこと、勝海舟いう男と知り合ったこと、彼の弟子となりいろいろな地に行ったこと、かなり楽しそうにやっているようである。
乙女には今の世の中も、国の動きもよくわからなかったが、龍馬の文を読む中でわかったことが一つある。
――この日の本を、今一度洗濯致し申し
龍馬はもう、広い世界へ羽ばたこうとしている。
泣き虫で弱虫だった彼だからこそ、強い相手に何も言い返せぬ幕府が昔の己と重なるのだろう。
かつて乙女が龍馬に対し、弱虫でいるつもりかと問うたとき、彼は強くなりたいと言った。その言葉どおり、彼は強くなった。
――母上、龍馬は母上の言う通りの男になりゆう。見守ってや。
見上げる空に、乙女は亡き母にそう呼びかけるのであった。
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