第1話 呉越同舟(ごえつどうしゅう)
元治元年十月末――、長州征伐を前に、さっそくこの男が動いた。
討伐軍参謀にして薩摩藩士、西郷吉之助である。
彼は大阪城にいる討伐軍総督・
長州追討の勅命を受けて、尾張藩・越前藩および西国諸藩からなる
諸藩の攻め口が、
征長総督は、尾張藩の前々藩主である徳川慶勝である。
総督は征長について、将軍から全権委任を受け、征長軍に対する軍事指揮権を掌握するとともに、長州藩への降伏条件の決定、征長軍の解兵時期について権限を持っていた。
「尾張さま、こん長州討伐のこつでごわすが――」
「何か、問題でもあるのか? 西郷」
御三家・尾張藩――、その尾張藩十四代藩主・徳川慶勝の弟には、京守護職である会津藩主・松平容保がおり、従弟には将軍後見職・一橋慶喜がいるという。
そんな徳川慶勝だが、将軍後継者問題・条約勅許問題などから大老・井伊直弼らと対立し、安政の大獄によって強制的に隠居処分に処されたらしい。
だが、その大老が桜田門外の変で暗殺され、慶勝の子・徳川義宜が第十六代藩主となると、慶勝は隠居として藩政の実権を掌握し、尾張藩は藩主と元藩主の二重支配体制となったという。
「問題は、ありもはん。じゃっどん、こん戦は国力の低下を招くだけで、誰も得をすることはなか。長州藩と交渉するのがよかと思いもす」
西郷の提案に、徳川慶勝は
「西郷、それではこちらの立場がないではないか?」
「じゃっで、幕府に対し
徳川慶勝は、唸り始めた。
「西郷――、長州藩がその案を受け入れようか?」
「尾張さま、現在の長州藩は、馬関海峡での戦の影響ば受けて、討伐軍と戦う力はありもはん」
徳川慶勝の問いに、西郷は言い切った。
「しかし、そなたがそこまでいうとはの」
「ある男にいわれもうした。我々がするべきなのは、この国を立て直すこつじゃと。そん男、かなり変わってもうしたが、オイの考えも変わりもうした」
その男の名は、坂本龍馬。
勝海舟の下で学んでいたとだけあって、その男は目先のことより、もっと広い世界を見ていた。
――わしはの、西郷さん。わしはこん国を強くしたいがよ。けんど、幕府も藩も我が身ばかり護りゆう。それではこん国は、強くならん。
西郷はそういう龍馬に「ならばどうするのか?」と聞いた。
すると龍馬はにっと口角を上げ、思わぬことを口にしたのだった。
◆◆◆
寺田屋にいた龍馬は、盛大なくしゃみをした。
「風邪どすか? 龍馬はん」
妻・お
晴れて
何しろ龍馬は、海軍塾が解散となってもいろいろなことに首を突っ込むお陰で、場所が安定しないのだ。
第一、お龍は寺田屋にいれば安全なのだ。
お龍は、そんな龍馬に文句はいわなかった。
「いや……、誰かが、わしの噂をしちゅう」
龍馬は鼻の下を擦った。
はたして、どんな噂をされていることやら。
龍馬は、お龍が
――鹿児島に、来たもんせ。
大阪・薩摩藩蔵屋敷で、西郷吉之助との会話の最後――、西郷は龍馬に、鹿児島へ来てはどうかと言った。
実は龍馬は一度、薩摩の地を訪れかけたことがある。
土佐から初めて脱藩したとき、長門にいた龍馬は薩摩に渡ろうとしたが、当時の薩摩国は他藩の人間の入国を拒んでいた。
師・勝海舟が江戸に去り、神戸海軍塾は事実上の解散となった。
龍馬たち土佐出身浪士は、勝の尽力にて薩摩藩の世話になることになった。
薩摩藩としては、神戸海軍操練所で学んだ海軍塾生の知識を必要としていた。
海に面した国としては、海防の備えを必要に迫られていたらしい。
それを痛感したのが、鹿児島湾にやってきた英国軍艦との戦いだったという。
元々、相模・生麦村での事件に事を発するこの戦いで、薩摩藩は攘夷の不可を知るとともに、最新鋭の武器と軍艦を備えねばならぬという考えに至ったらしい。
龍馬としても、己の船を持つという夢を叶える絶好の機会だった。
だがその前に、解決しなければならないことがある。
龍馬が立ち上がると、お龍が首を傾げた。
「こないな刻限に、おでかけどすか?」
「ちくっとばぁ、風に当たってくるぜよ」
龍馬は愛刀・陸奥守吉行を袴の帯紐に
天には
このとき寺田屋近くの
龍馬はその男の部屋を訪ねると、腰を下ろした。
「――まさかおまんと、こがな場所で会うとは思わんかったぜよ」
男は石川清之助と名乗っているが、龍馬にとっては顔馴染みである。
男の本当の名は、中岡慎太郎という。龍馬と同じ、土佐郷士である。
彼も、土佐勤王党の一人であった。
「藩は、勤王党の人間を根絶やしにするつもりじゃ」
「よく、捕まらんかったのう?」
中岡いわく――、土佐にて前藩主・山内容堂が勤王党を弾圧し始めたころ、藩を脱藩し、長門・長州へ逃れていたという。
だがその長州藩は、八月十八日の政変以降、蛤御門の変、馬関海峡での惨敗と追い詰められ、崖っぷちの状態となっている。
「あの戦いで、わしの目は覚めたがじゃ」
中岡のいう“あの戦い”とは、
文久三年、長州藩の軍事態勢を強化するため、高杉晋作は身分を問わない奇兵隊を結成したらしい。これに触発されて農民、町人、漁師、猟師、神官、力士、僧侶など藩士以外の様々な身分の者からなる義勇軍的な部隊・
中岡慎太郎は、この忠義隊に加わっていたらしい。
だが馬関海峡での戦いで、異国との軍事格差を思い知った中岡は、攘夷の無謀を悟り、開国による富国強兵論へ転じたという。
「それで、おまんはどうするがじゃ?」
「
中岡の言葉に、龍馬はぴたりと盃を止めた。
龍馬に劣等感があるとすれば、学のなさだ。
子供時代――、寺子屋などに通ってはいたものの、塾生と口論になった挙げ句に泣いて帰り、それ以来まともな学問所に通うことはなかった。
幸い読み書きは姉・乙女に叩き込まれ、あとは独学だ。
「慎太郎、わしゃ、難しい言葉はわからんがよ」
「――仲の悪い者同士でも同じ災難や利害が一致すれば、協力したり助け合ったりするっちゅう例えじゃ」
龍馬は、瞠目した。
まさに、龍馬が考えていたことと同じだった。
「そんじゃけんど、一筋縄ではいかんぜよ」
「わかっちゅう。ほんぢゃち、長州を救うがは、こん方法しかないがよ。龍馬」
龍馬は両腕を組み、渋面で畳を睨んだ。
大阪・薩摩藩邸で、龍馬は中岡慎太郎と似たようなことを西郷吉之助に言った。
「西郷さん、わしはこん国を強くしたいと思っちゅう。けんど、それは一人ではできん。他藩も協力するがじゃ。こん国を憂いちょるのは、長州も同じじゃき」
「坂本さぁ、オイには、薩摩が長州の味方ばしろと聞こえもうす。そいでは、こん薩摩も朝敵になりもうす。それはできもはん」
西郷はきっぱりと、この案を跳ね除けた。
長州を救いたいと思う気持ちは中岡同様、龍馬にもある。
ここから、龍馬の新たな戦いが始まるのである。
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