第2話 先手必勝の剣、薩摩示現流(さつまじけんりゅう)
元治二年――、江戸・元赤坂。
庭に面した濡れ縁で、男は愛用の
この日の空は、膜が張られているかのような薄い青色で、心なしか、はっきりしない空模様であった。
「ふん、空まで、この国を憂いてやがる」
吹かす煙草の煙を目で追って、彼は
勝麟太郎――、またの名を勝海舟。
日の本の海軍を造るという彼の夢は、神戸海軍操練所から始まるはずであった。
将軍・徳川家茂を説得し、かつての政事総裁職・松平春嶽に資金まで出させ、神戸海軍操練所はついに、摂津・兵庫津に建った。
だが――、同時に開いた海軍塾の塾生が、池田屋事件に関与していたこと、脱藩浪士などを塾生にしたことが、幕府上層部には気に入らなかったらしい。
勝は江戸に戻され、軍艦奉行を
勝にとって、幕閣から睨まれるのは今回だけではなかったため、謹慎させられたぐらいでは堪えていないが、その神戸海軍操練所を潰されたことが癇に障る。
聞けば神戸海軍操練所の廃止が決まったのは、この六日前の三月十二日だという。
国は開国によって大きく開かれたが、幕閣の一部はいまも『事なかれ主義』ときた。
異国に強くいわれれば「
自分で自分の首を絞めているような幕府に、諸藩が揃って従うだろうか。
勝は幕臣という立場だが、この国が異国と肩を並べるほど強くなり、発展するならば、国の一新もいとわぬと考えている。
それを口にしないのは――。
――俺らを潰したけりゃあ好きにするがいい。だがな、この国には本気でこの国を変えようとする者がいるんだ。あんたらが、浪士だと侮っている俺らの塾生がな。
幕閣に対し、勝は心のなかで語りかける。
短い期間ではあったが、塾生は神戸海軍操練所で学んだ知識を活かしていくことだろう。
彼らにとって、これは終わりではない。始まりなのだ。
そう思うと、勝は龍馬たちの活躍が楽しみなのであった。
◆◆◆
長州藩は長州討伐軍に対し、蛤御門の変を起こした長州藩三家老・
これにより、武力による衝突はなく、長州征伐は終わったという。
この裏に、勝海舟と龍馬が薩摩藩に接触したことを知るものは当の本人と、薩摩の西郷吉之助だけだろう。
このころ龍馬たち元海軍塾生たちは、大阪・薩摩藩蔵屋敷にその身を置いていた。
「坂本さぁ、不自由は、なかごわすか?」
今や西郷吉之助は古くかの知人のように、龍馬に接してくる。
「そげに気ぃ使わんでとぉせ。厄介になっちゅう身じゃき」
「そいでも薩摩は、他所もんには厳しかこつごわす。坂本さぁたちに、迷惑かけちょらんですか?」
西郷が案じているのは、薩摩という国がこれまで他藩の人間が入ってくることを警戒していていたからだろう。
西郷いわく薩摩国は、他藩との交流を断ち、経済的には自給、いわば二重鎖国をしていたのである。その最大の理由として、琉球や中国との密貿易があるという。
鎖国時――、幕府は長崎だけを開港し、オランダと中国の交易を行っていたが、幕府以外が外国との交易をすることを禁止していた。しかし、薩摩はこれを行っており幕府に漏れることを極端に警戒したという。
開国して数年経つが、薩摩藩の一部の頭は、他藩の人間を受け入れることに対して、そう簡単に切り替わるものではないようだ。
ここはまだ薩摩国ではなかったが、確かに龍馬たちが身を置き始めると、胡散臭そうに見てくる薩摩藩士がいた。
「確か――、西郷さんも、
龍馬は、西郷が座す脇に視線を運ぶ。
そこには西郷の刀が置かれていたが、その柄は通常の刀の柄より長く、太くできていた。
「そいがなにか……?」
「いや、ただ聞いただけじゃ」
示現流は薩摩藩に伝わる、剣術の流派だという。
特徴は、一振り目に勝負のすべてを賭けて振り下ろす、「先手必勝」。
ゆえに刀は、
実は龍馬はこの藩邸内で、襲われかけたことがある。
厠で用足しを終え、部屋へ戻ろうとしたところにいきなり、刀が振り下ろされたのだ。
あれはおそらく、警告だろう。
薩摩の敵に回ることがあれば、次は必ず仕留めると――。
「坂本さぁ……?」
西郷が首を傾げた。
「なんちゃあない。鹿児島は初めてやき、楽しみじゃと思うてのう」
「
薩摩本土・鹿児島――、元海軍塾の知識に期待する薩摩藩と、その薩摩藩の資金力に期待する龍馬の思惑が一致して、龍馬たちは鹿児島行きを決めていた。
それにもう一つ、それは長州藩のためだ。
西郷いわく、幕府は次の長州征伐を行おうとしているという。
薩摩藩国父・島津久光は公武合体推進者らしいが、西郷本人としては幕府に不満があるらしい。
久光公は幕政改革を求め、勅使を伴い江戸へ東上したという。その帰路に生麦事件が起きたそうだが、当の幕府は未だに異国に対して押され気味で、その威信は衰退を辿っている。このままでは共倒れになると思っても無理はない。
――やはり、解決の鍵は、薩摩が握っちゅうの……。
龍馬は腕を組むと、畳を睨んでそう思った。
長州藩を救うのも、この日の本を立て直すのも、薩摩藩が反幕府側に傾くか否かによって決すると。
小腹を満たしたくなった龍馬は、薩摩藩邸を出た。
刻限は夜の六つ半――、かつて大阪・海軍塾があった専称寺近くまできた龍馬はぴたりと足を止めた。実は薩摩藩邸を出た辺りから、人の気配を感じていたのである。
「――わしは、人に後をつけられるは好きじゃないきに、ええ加減出て来んが?」
「…………」
出てきたのは三人の男だった。
すでに抜刀していたが、その刀の柄はあの薩摩拵だった。
「――おんしら、薩摩藩士じゃの?」
「……
そういった男は、藩邸内にて龍馬に警告してきた男だった。
「だから、斬るっちゅうが?」
はたして示現流の使い手相手に、どうこの場をくぐり抜けるか。
「刀を抜け! 坂本龍馬。刀ば抜かん相手を斬るは薩摩隼人の恥じゃ」
龍馬は苦笑して、頭をかいた。
「
これに男の一人がついに刀を振り下ろしてきた。
「腰抜けが……っ」
しかし、男たちと龍馬の間に、飛び込んできた男がいる。
刀を振り下ろしてきた薩摩藩士の刀を、己の刀で受け止めている。
「――おんし……」
「何者だ?」
「この坂本どのの知人、
新堀の問いに、薩摩藩士は唇を噛んだ。
「…………」
「新堀さん、ちくっとばぁ、彼らに誤解されただけやき、わしはなんちゃあ思っとらんがよ。そうじゃの?」
龍馬が彼らに同意を求めるが、彼らはこれを無視して去っていく。
「――相変わらず、人が良すぎるぞ? 坂本どの」
新堀こと桂小五郎は刀を
「いやぁ、助かったぜよ。危うく一刀両断されるところじゃったきに」
「なぜ、刀を抜かん? 君は北辰一刀流を学んでいたではないか」
「向こうは薩摩示現流が三人もおるがぞ?」
「わからんなぁ……。刀も抜かず、斬られるつもりもなければどうするつもりだったのだ?」
桂の問いに、龍馬はにっと笑い、
「決まっちょろう? 逃げるがよ」
と、いうと、これに桂は嘆息した。
「呆れた男だな、君は」
「それにしても、桂さんとはいつも意外なところで会うのう」
「坂本どの、長州はついに腹を決めたぞ」
桂は、今までになく強い口調でそういった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます