第3話 三千世界の鴉を殺し
長門・萩――。
城下の桜が満開になりかけた頃、年は元治から慶応へ改元された。
蛤御門の変により朝敵とされた長州藩は、幕府による長州征伐にて戦わずに降伏した。
蛤御門の変を率いた
幕府に恭順の意を示すことでことを収めたものだが、これを主導したのが俗論派で、彼らは幕府よりの考えだった。
これまで藩内では、攘夷を志向しこれまで藩制を指導してきた長州正義派と、正義派の藩制指導に反発する
現在の長州藩実権は、彼ら俗論派が握っていたのである。
このとき高杉晋作は、攘夷から一転し倒幕へと考えを変えていた。
もはや幕府に、この日の本を束ねていく力はない。
確かに現在の長州藩は崖っぷち、存亡の危機にある。
だが日の本全体としてみれば、この国の末は危うい。
清国で英国に惨敗した現状をその目で見て、馬関海峡での四カ国艦隊との戦いでも、長州藩の惨敗を知る高杉晋作だからこそ、この国は強い国に変えねばならぬ。
でなれればこの国は異国に押され、自滅するかも知れぬ。
かくして、高杉は奇兵隊を率いて立った。
俗に言う、
「高杉、幕府と戦うのか?」
高杉にそう聞いてきたのは、
高杉と井上は過去、尊攘派志士として品川御殿山において英国公使館焼き討ちを行っている。
「幕府と心中するつもりは、私にはござらぬ」
「幕府はもう、だめか……、高杉」
「ええ。幕府の権威はとうに逸しております。このままでは異国の力がこの国でますます強くなりましょう。井上どの、この国を清のようにしてならぬのです」
かつての高杉なら異国を追い出そうとしていたが、異国の圧倒的な軍事力が彼を変えた。
なれど、異国に対する幕府の弱腰体制が、異国の力をますます強めた。
このまま侮られ続ければ、この日の本は清のようになる。
英国に惨敗し、領土の一部を奪われたかの国のように。
ゆえに、それを回避するには西洋の技術を以て藩を立て直すとともに、傾きかけた幕府に印籠を渡す。
それが高杉の、新たな目標となった。
功山寺で挙兵した高杉と、彼に感化された長州藩士諸隊は、俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥し、藩上層部から俗論派を一蹴することに成功した。
幕府はそんな長州藩の動きを察知していよう。
さらば、長州征伐はまたある。
だが、困った問題がある。
井上も、そのことが気になったらしい。
「現在の我藩に、幕府と戦える装備はないぞ。高杉」
馬関海峡での四カ国艦隊との戦いから、長州藩の軍事力は回復はしていなかった。
幕軍に勝つには、最新の西洋武器だろう。
だが、英米仏蘭の四カ国は、長州には武器を売らないことになっているという。つまり、西洋の武器は長州藩だけでは買えないのである。
長州藩の危機は、まだ終わってはいなかった。
高杉は、空を仰ぐ。
春にしては、肌寒い日であった。
動きの多い空の雲の隙間から飴色の春陽が降り注ぐ。
――先生、久坂。俺は必ず、この長州を守って見せる……!
高杉は亡き師・吉田松陰と、友・久坂玄瑞に向かって誓った。
そんな高杉の慰めは、手慰みと覚えた三味線と、愛妾・うのだった。
◆◆◆
下関・廓『
二人が出逢ったのは文久二年――、
下関に遊郭が出来たのは、壇ノ浦の戦いで滅亡した平家の女官らが、生活のために身を売ったのが下関における遊郭のはじめとされている。これが現在の、稲荷町遊廓である。
堺屋はそんな遊郭にある廓の一軒だった。
「高杉さま、なんぞございましたか?」
うのには、高杉の表情がいつもと違うように見えたらしい。
高杉は盃から視線を上げた。
「どうしてだい?」
「今宵の高杉さまは、怖い顔をしております」
「少し疲れているだけさ」
「藩の――、ことですか?」
「うの、私はもうすぐ浪人になるかも知れん」
高杉は苦笑する。
万が一長州藩が滅亡することがあれば、路頭に迷うことになるだろう。
だが彼の心の中で燃える炎は消えることない。
師を失い、盟友を失っても、彼には彼らの遺志を継がねばならぬ。
「高杉さま……」
「ただの男になるのもいいが、その前にやりたいことがある」
高杉の決意に、うのは少し寂しげな表情をしていた。
「あまり無理はなさらないでくださいませ」
「ああ……」
高杉は襖に立てかけてあった三味線を抱くと爪弾いた。
――三千世界の
彼はそう、
遊女は馴染みの客に「仕事で何人もの男の相手をしているけれど、本当に愛しているのはあなただけである」ということを、
この牛玉宝印は熊野神社のものが多く使われていて、これには鴉が描かれているらしい。鴉は熊野神社の使いで、この起請文に書いたことを破ると、熊野の鴉が何匹ずつか死んで、自分が死んで地獄に行った時に、その鴉に約束を破った罰で、責められるという。
だが高杉は、そんな鴉を殺してまで、うのと朝寝がしたいと唄ったのだ。
いつか世が静まれば、その想いは叶うだろうか。
鴉といううるさい幕府が斃れれば、いつかきっと――。
◆
――長州は、ついに腹を決めた
龍馬は大阪・薩摩藩蔵屋敷の庭にて星空を仰いでいた。
そして、桂小五郎の言葉を思い出す。
長州藩は攘夷路線から開国に転じるとともに、倒幕に踏み切るという。
これは藩主・毛利敬親も同意で、幕府へ謝罪の態度を示しつつ攻撃されれば戦うという武備恭順に転じたという。
こうなれば、幕府のもとに諸藩が一致団結して国の再起を図ることは不可能だろう。
龍馬自身、幕府にはもう諸藩を抑える力はないと思っている。
主に対し不信感が募れば、背かれるのは世の常である。
「坂本さぁ!!」
床板が抜けるのではないかという足音を響かせて、西郷吉之助が廊下を渡ってきた。
「西郷さん、そげに血相変えてどうしちょったが?」
「坂本さぁ、申し訳なかっ!」
いきなり謝罪されて、龍馬は仰け反った。
「は……?」
「藩邸のもんが、坂本さぁの命ば、狙ったと聞きもうした」
どうやら、藩邸の外で薩摩藩士に斬られそうになった件が、西郷に伝わったようだ。
「わしは気にしちょらんきに」
「じゃっどん、坂本さぁたちば、大事な客人にごわす。やつらを許すわけにはいきもはん。オイの腹でよかこつならば、斬りもうそ!」
今にも実行しそうな西郷の勢いに、龍馬は慌てた。
「そ、それはやめちょいとぉせ。西郷さんに、死んでは困るぜよ。ところで、藩邸の中が騒がしいようじゃが?」
「幕府から、長州討伐の命ば、出ると噂になってもす」
おそらく今回は、武力衝突は確実だろう。
桂小五郎も、同じ考えのようであった。
だが長州に、幕軍と戦える戦力はないらしい。
――坂本。長州と薩摩、この二藩を結びつけるがじゃ。
以前――、中岡慎太郎がそんなことを言った。
この国の一新のために、必要だと。
だがこれが、簡単そうで簡単ではないのである。
薩摩はともかく、長州は薩摩を憎んでいるからだ。
八月十八日の政変で京を追われたこともあるが、その以前から長州は薩摩を牽制したらしい。
そんな悩める龍馬を乗せて、薩摩の蒸気船・胡蝶丸は大阪天保山から鹿児島へ向かって出港したのだった。
時に慶応元年、四月二十六日――、龍馬三十一歳の春であった。
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