第20話 新時代の足音
「やーい、
夕闇迫る鏡川――、子供たちがあっかんべーをしつつ、橋を駆けていく。
少年は泣いた。
泣き虫なのも、寝小便をするのも事実だ。
少年は泣いた。
言い返せすこともできず、喧嘩も勝てず、わんわん泣いた。
そんな少年の帰りが遅いことを心配したか、彼の姉がやって来て吠えた。
「
「逃げろ!坂本のお仁王さまじゃっ」
少年をからかっていた子供たちは、更にその足を早めていく。
少年の姉は、不甲斐ない弟に嘆息した。
「龍馬、いつまで泣いちゅうが?それやきに、あいつらはおまんをからかってくるがよ。悔しくないが?うちは悔しいがよ。悔しくてたまらん。うちが男じゃったら、やり返しちゅう。そん男のおまんは、なにも言わん。泣いてもなにも変わらんがよ」
姉の言葉に、少年は顔を上げた。
「乙女……姉やん……」
「強うなれ、龍馬。悔しいと思うんじゃったら、強くなるがじゃ」
あれから二十二年――、龍馬は自身が強くなったかどうかはまだわからない。
障害が起こるたびに悩み、解決に時を有した。
学問の方も励めばよかったと思うが、試練はこれからも襲ってくるだろう。
懐かしい土佐の実家・坂本家――、世がどんなに変わろうと、故郷の景色は変わることはなかった。
龍馬が帰ってきた――、報せを聞いた本家の人々や、姪や甥も集まり、今宵は大宴会となった。
酔い潰れるまで酒宴は続き、すっかり出来上がった男たちが大人しくなると、女たちは片付けを始め、龍馬はそっと庭に出た。
亥の刻――、空は無数の星が散っている。
龍馬にとって、この帰郷は束の間の休息だろう。
龍馬には、まだやりたいことがあった。
まずは新しい国をつくること、次は蝦夷地の開拓、もっと船を増やし、やがては異国へ行くのもいいだろう。
桂小五郎は新しい政府となった場合、その政府に加われと誘ってきたが、龍馬は固辞した。後藤象二郎が土佐藩士にならないかと勧められたときも断ったが、龍馬は自由でいたかった。
「なにを考えちゅう?」
砂利を踏む音がして、龍馬は振り向いた。
厨で洗い物をしていたはずの姉・乙女が、そこにいた。
「ここは、なにも変わっちょらんのう」
龍馬は視線を空に戻し、そういった。
「そうじゃろうか……。兄上は、酒に弱くなっちゅう」
ともに、空を見上げた乙女はそういう。
兄・権平――、温和だった父に比べ、龍馬に厳しかった兄は、龍馬が帰ってきてもその表情を崩すことはなかったが、酒宴が進むにつれて歌など披露し、しまいに舞い始めた。
龍馬がそんな兄の姿をみたのは、この日が初めてであった。
「兄やんは、本当は嬉しいがよ」
「ほんぢゃけんど、久しぶりの説教は堪えたがよ」
帰ってくるなり取っ組み合いの格闘を始めた二人に、権平の雷は落ちた。
おまんは、なにをしてもだめじゃ――、子どもの頃、龍馬は兄にそう言われてきたが、はたして現在はどう思われているのだろうか。
「龍馬、おまんは強くなったがよ。もううちの木刀は、おまんの頭に届かん。けんど、油断は禁物じゃ。ほんに殺意を向けてくるもんはいちゅうきに」
乙女は、剣術のほうが疎かになっていることを注意した。
今夜の宴席で、これからの世は刀ではなく、西洋の銃だと言い放った龍馬に、乙女は刀も大事だという。
「姉やんには、これからも心配かけちゅう……」
「いまさら、じゃ。それに――、おまんは、龍になったきに」
現在も龍になると信じる姉に、龍馬は頭をかく。
「わしはただの人間ぜよ?」
「ただの人間ならば、こん国を変えようなど思わんちゃ」
「そうかのう……」
なんとなく照れくさかったが、龍馬はもう一度空を見上げた。
一つの星が、東に流れる。
龍馬は周りが思うほど、自身が強くなったとは思っていない。
多くの友を失い、船も失った。
幾多の困難が襲ってきて、挫折しかけたこともある。
だが、子供の頃のように下を向くことはしなかった。
「わしがここまでなったがは、姉やんのお陰やき」
嘘ではない。
乙女が龍馬を見放すことなく、厳しく育てたからこそ、現在の龍馬がある。
乙女はそんな龍馬の言葉を、黙って聞いていた。
◆
龍馬が五年ぶりに帰国した土佐――その一方で土佐藩参政・後藤象二郎は、土佐藩前藩主、山内容堂と対面した。
「久しいのう。後藤」
山内容堂は後藤を見据え、朱塗りの杯を口に運ぶ。
京での四侯会議が失速したのは、半年前のことである。
現在の幕府は、威信の立て直しに必死だ。
徳川恩顧の山内容堂であっても、幕府の求心力低下は止められぬ。
ついにはこの藩内でも、倒幕に傾いた者が出た。
乾退助である。
さて、山内容堂だが。
聞けば、いつもはほろ酔いの容堂が、ここ最近は気難しげに杯を手にしているという。
どうやら不快なことがあると、酒は美味くないらしい。
それなら飲まねばいいものを、容堂は飲まずにはいられないらしい。
後藤が対面したこの日も、容堂は眉間に皺を刻んでいた。
「大殿、幕府にもはや諸藩をまとめる力はございませぬ」
正直に切り出す後藤に、容堂が睨んできた。
「おまんまで、徳川を倒せというか?」
「倒すのではございませぬ」
「なに……」
容堂が、怪訝そうに眉を寄せた。
「大政奉還でございます」
容堂は瞠目した。
「…………」
「大政奉還なれば、徳川に傷はつきませぬ」
容堂はこれに対し、是とも否とも言わない。
ただ眉間の皺が、最初より薄くなった。
そう、大政奉還ならば徳川は後の世も存続できる。
将軍という座はなくなるが、倒幕に傾いた薩長、そして乾退助ら土佐藩倒幕派に斃されることはない。倒すべき幕府がなくなれば、彼らは矛を収めねばならなくなる。
徳川を守るという意味では、容堂も納得しよう。
「後藤――、それはおまんの案か?」
盃を口に運ぶのをやめ、しばらく黙っていた容堂がそう来ていてきた。
大政奉還の案は、龍馬から出た言葉だったが、後藤は一拍して「はっ」と答えた。
容堂の背を、後藤は押した。
あとは容堂が、幕府の背を押す番である。
◆◆◆
実家・坂本家で二日過ごした龍馬は、玄関先で長靴に足を入れた。
「もう、行くが?」
見送りに現れた乙女が、そう聞いてくる。
「世の流れは、待ってくれんきにの」
龍馬は腰に刀を差すと、菅笠を手にした。
「うちに難しいことはわからんが、おまんのことじゃ、どこまでも突っ走るじゃろ」
「兄やんは?」
龍馬は兄・権平の声を、朝から聞いていない。
朝餉の場にはいたが、彼は何も語ることはなく、部屋へ行ってしまった。
挨拶をしたかったが、乙女に放っておけと制された。
「兄やんのことは心配せんとき。ああ見えて、兄やんはおまんを信じちゅう。逞しくなったおまんを、心では喜んじゅう」
聞けば龍馬が脱藩したその日も、権平は激することなく黙っていたという。
褒められたという記憶はなかったが、権平なりに龍馬を思っていたらしい。
じゃぁと別れを告げて敷居をまたごうとしたとき、乙女に呼び止められた。
「龍馬」
「なんじゃ?」
乙女はなにかいいたげであったが、
「――文、待っちゅう」
と言って、それ以上の事は言わなかった。
慶応三年十月――、京阪へ向かおうとする芸州艦・震平丸を天候が阻んできた。
龍馬とともに土佐の地を踏んだ海援隊士は「もっとゆっくりしていけと
龍馬たちは仕方なく土佐艦・空蝉丸で須崎を出港するも、またも悪天候である。
結局――、龍馬たちがようやく土佐の港を離れたのは、五日後のことだった。
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