第19話 龍馬の里帰り

 京・洛北の実相院じっそういん近く――、かつての朝臣・岩倉具視いわくらともみはこの地に住んでいる。

公武合体を唱えていた岩倉であったが、尊王攘夷の高まりにより、幕府よりの人間と亡き孝明天皇からも疎まれ、文久二年に辞官落飾らくしょくした。

 だが岩倉具視邸に洛中を立ち退かない場合、家族の命はない、という脅しの文が届き、岩倉は都にいられなくなった。

 霊源寺れいげんじ、それから西芳寺さいほうじと逃れ、最終的に落ち着いたのがこの地だった。

 邸は質素な茅葺き屋根の平屋で、公卿くぎょうだった頃の姿はそこにはない。

 岩倉自身も出家した身で、好きな茶の湯で暇をつぶしていた。

 しかしこの日は珍しく、来客があった。


「――これは、珍客や」

 岩倉を訪ねてきたのは、大久保一蔵という薩摩藩士であった。

「岩倉さま、薩摩は倒幕を決めもうした」

 決意を語る大久保の前で、岩倉は茶器を揺らした。

 てられた鶯色うぐいすいろの茶が、織部焼おべやきの椀でゆっくりと一周する。

「それで?」

「驚かれんと?」

 胡乱に眉を寄せた大久保に対し、岩倉は苦笑した。

「もはや公武合体など意味はなさんことは、わしも知っておる。せやけどな、現在いまのわしは蟄居ちっきょ中の身やさかい、なんの力も、あらへん」

 薩摩藩も、もともとは公武合体派であった。

 しかし現在の幕府の低迷は明らか、幕府にとって怖いのは、以前から幕府と対立姿勢を見せていた長州より、朝廷に現在も影響力をもつ薩摩が敵に回ることだろう。

 そして実際に、そうなった。

 ここまでは予期してゆえに、岩倉は驚かなかった。

 

「再び朝廷に帰ればよかと、思いもんそ」

 椀の茶が、ぴたりと動きを止めた。

主上おかみが、わしを許すと?」

「中山さまは、やむなしという意見でごわす」

 中山忠能なかやまただやす――、岩倉と同様、公武合体派公卿だったが、のちに長州寄りの立場を取ったために政局を追われたらしい。その彼も現在の帝が即位されたこと、帝の外祖父だったことで復職しているという。

「朝廷を味方につけるとは、恐ろしかことを考えはる」

「ですが、倒幕の勅命があれば、我々に大義名分がごわんど」

 明治天皇は父・孝明天皇とは違って幕府に思い入れはないらしい。

 倒幕の意が朝廷に満ちれば、薩長の挙兵は暴徒ではなくなる。

 薩摩は、そう睨んでいるようだ。

 

「となれば、あの者も都に帰ってくるやろうなぁ」

「あの者?」

「先の政変で、長州人と京を出ていった三条実美さんじょうさねとみや」

 岩倉のかつての政敵――、三条実美。

 岩倉は過去のことを蒸し返すつもりはないが、三条実美は少々短気だ。

 睨んでくることは間違いなく、岩倉としては顔を合わせたくないのだが。

 

 ――朝廷に、嵐が吹くやろなぁ……。


 だがその嵐は朝廷や帝を害するものはなく、徳川へのもの。

 ならば三条実美と会うことに、なんの躊躇ためらいがある。

 岩倉の心が、倒幕に傾いた瞬間である。


         ◆◆◆

 

土佐湾を望む桂浜――、海はぎ、潮騒が心地よく響く。

「坂本どの、会いたい人は何処にいるのです?」

 龍馬とともに長崎から震平丸に乗船し、ともに土佐の地を踏んだ戸田雅楽とだうたは、そういって首を傾げた。

 この戸田雅楽、八月十八日の政変で京を追われた尊攘派公卿の一人・三条実美に仕える男で、長崎へは彼の使いで来ていたらしい。

 龍馬はそんな戸田と知り合い、京に戻るという戸田も震平丸に乗せたのである。

 龍馬は船を降りて諸々のことを済ませると、会いたい相手がいると桂浜に向かった。

 しかし二人の前に人などおらず、あるのは松原だ。

 疑問に思う戸田に、龍馬は言った。

 

「もう、会っちゅう」

「は……?」

 久しぶりに見上げるは桂浜の松の木――、一本だけ海に伸びる枝はこの日も逞しく海を向いていた。

 子供の頃――龍馬は挫けそうになると、よくここへきた。

 厳しい嵐に耐え、決して折れてなるものかと、敢えて潮風に晒される道を選んだ一本の枝。物言わぬ松に感情というものがあるかは定かではないが、姉・乙女いわく、この枝はいずれ龍となって飛びたいのだという。

 戸田にそのことを話すと、彼も当時の龍馬のように「そんなばかな」と笑った。

 

「けんどの、戸田さん。こん枝はわしを励ましたがじゃ」

 なにかあるとすぐ下を向いてしまう、子供の頃の龍馬。

 なのにこの枝は、厳しい現実を受け入れて前を向き続けている。

 ただ風に耐えていることしかできぬ松の木に比べ、ものが言えて、動ける手足をもつ人がそんなことでいいのかと、責めて来る。

 この感覚は、いくら戸田にいってもおそらく理解はできないだろう。


 ――現在いまのおまんに、わしはどう見えるが?


 その枝からの答えは、返ってくることない。

 またうるさい男が帰ってきたとでも、思っているのだろうか。

 高知城が見下ろす城下――、一本道を外れると下士が多く住む町となり、坂本家はそこから鏡川に架る橋を渡り、田に沿った一本道を進むと見えてくる。

 途中柿の木の前で止まり、龍馬は苔生して顔の判別がつかなくなってしまった道祖神の顔を手ぬぐいで拭った。

「長崎の菓子じゃ。食べてつかぁさい」

 野で摘んだ花と、薄くカットしたカステラを供え、龍馬は手を合わせた。

 一陣の風が吹き、枝になっていた柿の実を揺する。

「かようなところに柿を植えるとは、なんともったいない」

 戸田はそういって、龍馬とともに柿の木を見上げる。

 柿の木は本来、自生はしない。

 誰かが種か、苗を植えなければ。

 

「この柿は渋くてのう」

「坂本どの所の、柿でござるか?」

「いんや。わしが生まれる前から、既にこの状態じゃったらしい。一度、棒で突いての。落ちてきた実を食っちょったが、これが渋かったがじゃ。けんどそんな渋柿を好むものはおるき、実は無駄にはならんがよ」

 

 道祖神の罰が当たったのか否か、いまでもその味は忘れられない。

 誰かが植えたか知れぬ柿の木だが、その実を好む鳥の胃に消えて、やがて地に落ちた種が地で芽を生やし、子孫となるかも知れない。

 そんな光景をこれからも、柿の下の地の神は、見続けていくことだろう。

 やがて龍馬の目に、懐かしい籬が見えてくる。

 冠木門の前で止まった龍馬は、久しぶりの坂本家に感無量となった。

 邸から下男の源蔵がやって来て、龍馬の帰りを嬉しげに出迎える。

「戸田さん、悪いが先に入ってつかぁさい」

「坂本どの……?」

「わしは、ちくっとすることがあるがよ」

 龍馬は源蔵に、姉・乙女には帰ってきたと告げるなと言った。

 源蔵も慣れたもので「またですか?」と笑って不思議そうな戸田を伴って中へ消えていく。


 ――あの、乙女姉やんのことじゃ。わしがんてきちゅうても、素直に歓迎する姉ではないのう。


 邸から出てこない時点で、乙女は中で待機しているということになる。

 これが一番、怖い。

 まだ土佐にいる頃、龍馬は何度か乙女に待ち伏せされた。

 門や邸の陰に隠れては、道場帰りの龍馬に竹刀なりを振り下ろしてくるのだ。

 お陰で妙な警戒心が身についたが、のちにその警戒心は、命の危険に晒される京で役に立った。

 龍馬は坂本家の裏手に回り、自身の座敷の障子をそっと開けると、案の定、木刀を背に隠し、襖の陰から今か今かと龍馬を待つ乙女がいた。

 恐らく龍馬が襖を開けた途端に、その木刀を振り下ろしてくるのだろう。

 変わらぬ姉に、龍馬の心は震えた。

「乙女姉やん……」

「うぬぬ! 龍馬!!」

 思わぬところから顔を出した龍馬に、乙女は「してやられた」とばかり、木刀を振り下ろしてくる。

 龍馬はそんな乙女を背後から羽交い締めしては擽り、怒った乙女が逃げる龍馬を追うという展開になった。

 二人にとってはそれは今に始まったことではなかったが、可哀想なのはなにも知らず襖を開けた戸田雅楽で、真っ青になっていた。

 このあと龍馬と乙女は、兄・権平から懇懇と説教をされるのである。



 

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