第18話 坂本家のお仁王さま

 秋――、土佐。

 高知城下を見下ろす南嶺なんれい・鷲尾山も紅葉し、賑わいを見せる町中から一本逸れた道を西へ、景色は長閑な田園地帯となる。

 そんな田に沿ってまっすぐ伸びる道で、今年も赤茶色の柿が実をつけていた。

空を飛んでいたからすは枝に留まると、そこからやや低くなった景色を眺めた。

 田の稲は既に刈り取られ、案山子かかしがぽつんと立っている。

 あの案山子は今年の役目を終えたら、何処へ行くのか。

 雨の日も風の日も一本足で立ち続け、無言で田の米を守っていた案山子のその後――、鴉ごときがどう思うと無駄だろうが。

 鴉は柿の実がなっている枝に移り、実を突く。

 その実はまだ熟していなかったのか、枝を外れ落下していく。

 物言わぬ守り人といえば、この柿の木の下で佇む道祖神どうそじんもそうだ。

 案山子より早くこの地の住人となった地の神は、いまやすっかり苔生こけむし、足元ではいつ供えられたか知らぬ花が風に揺れていた。

 だが物はいわぬが、人の心を慰めてきたのは間違いないだろう。

 苛めっ子に苛められ、ここで屈んで泣いていた人の子が、泣くだけ泣いてここから家路に辿っていったように。

 

 地の神はなにを語るわけでもなく、人の子の愚痴を聞いていただけだが、もしその人の子がここで立ち止まらずにいれば、泣いたまま家路を辿ったであろう。

 その人の子との出会いは数十年も前になるが、鴉はその日も柿の実を突いた。

 実は落下し、下にいた人の子の頭に当たった。


「い、たぁ……い」

 子供が頭を抑える。

 その顔は涙と泥でぐじゃぐじゃで、髪の毛もかなりの癖っ毛だ。

 身なりは着物に袴と、侍の子らしい。

 どうやら柿が当たって泣いていたわけではないらしい。

 それから直ぐに、

「こらぁ、そこの馬鹿鴉ばかがらす! うちの弟になにしゆうが!?」

 という少女の声が聞こえてきた。

 鴉にしてみれば不可抗力だが、彼女の声に思わず空に羽ばたいた。

 それから鴉は、その子供を幾度か見かけた。

 いつも泣きながら、この柿の木の前で立ち止まり、道祖神に向かって泣きじゃくっていた少年。

 鴉はそんな人の子に向かって「カー(阿呆)」と鳴いてからかうと、あの姉らしい少女に、棒で追い回された。

 

 

 あのとき出会った人の子は、もういい大人になっていよう。

 熟していた実を見つけ、鴉は啄みかけて首を傾げた。

 下の道を、走ってくる女人がいた。

 なにをそんな急いでいるのか知らないが、その女人があのときの少女だと知るのは、当時その場にいた鴉だけだろう。

 その後、鴉は彼女と坂本家の柿を巡って毎年攻防を繰り広げることになったのだ。

 人は、そんな彼女をこう呼ぶ。

 坂本家のお仁王さま――、と。


 負けず嫌いで、男勝り。

 鴉にとって、毎年追い回してくる相手。

 鴉は一声「カー(ひぃっ)」と鳴いて、再び空に舞い上がった。

 しかし彼女はそんな鴉に目もくれず、走っていく。

 いつも口を引き結んでいたその顔が、この日は輝いていた。

 今日は、坂本家の柿を狙うのはやめておこう。

 鴉は走り去っていく女人を見下ろしたあと、塒へ向かって飛んでいった。


              ◇


 暮れ六つ――、坂本乙女は坂本家の裏木戸を勢いよく開けた。

 これに、庭で掃き掃除をしていた下男・源蔵が驚いた。

 その裏木戸は夏にやってきた台風によって外れ、やっと修繕しゅうぜんしたばかりであった。

 だが乙女は戸が壊れる心配よりも、その心は躍っていた。

「――乙女嬢さま、そがいに慌ててどうしちょりました?」

「兄上は、帰っちゅうが?」

「さきほどお帰りにならました。なんぞございましたか?」

 源蔵は胡乱に眉を寄せ、そう答えた。

 乙女は慌てるつもりはなかったが、昔から動作が大きくなることがある。

 兄・権平に「ちくっと、女らしゅうせい」と窘められるのだが、その癖は三十五歳になった現在でも出てしまう。

「龍馬が帰ってくるがじゃ」

「坊が?」

 

 源蔵の顔が、途端に明るくなった。

 そう――、龍馬が帰って来るのだ。

 周りの反対を押し切り、土佐を脱藩してから五年――、龍馬がこの土佐に帰って来る。

 一時はどうなるかと気を揉んだが、龍馬の話ではこの国はもうすぐ新しく生まれ変わるらしい。

 乙女が龍馬の帰国を知ったのは、本家・才谷屋を訪れていたときだった。

 藩の御用も引き受けていた才谷屋には、土佐藩士もやって来る。

 以前は上士の口から下士の名前が出るなどなかったが、龍馬が率いているという海援隊は藩の仕事も担っているという。

 たまたま才谷屋主との会話で龍馬の名前が出て、乙女は何喰わぬ顔で聞き耳を立てていた。

 もちろん龍馬がいつ帰って来るとはわからないらしく、近くとしかその上士はいわなかった。

 それでも乙女は、嬉しかった。

 

「そうじゃ。龍馬が帰って来るがじゃ」

「それはそれは」

 源蔵が恵比寿のような顔で微笑んだ。

 それからまもなく――、その龍馬本人から帰国の文が届く。


 

「――あの馬鹿、なにをならかしちゅう……」

 夕餉時――、坂本家当主・坂本権平は椀の汁を啜りつつ、眉間に深い皺を刻んだ。

 この男にとって龍馬は、何年経とうと世話のかかる末弟らしい。

「兄上、龍馬はなぁんも悪いことはしちょらんがよ」

 龍馬の活躍ぶりは、乙女が龍馬から知らせてくる文で権平は知っているはずである。

 褒めることはしなかったが否定もせず、権平は黙って聞いていた。


 かつて、どうしようもない泣き虫だった龍馬。

 転んだだけでも、すぐに泣いた。

 父も兄・権平もそんな龍馬にこれはだめだと諦め、乙女だけは龍馬を厳しくしつけた。

 龍馬はいつか、天翔あまかけける龍となる。

 周りの人は龍馬を泣き虫の寝小便よばれと呼び、乙女は男勝りはちきんのお仁王さまと呼ばれた。

 乙女の性格は現在でも変わらなかったが、龍馬は違う。

 強くなり、頼もしくなった。

 現在は、広い海を駆けているという。

  

さばうてこんと……」

 乙女は龍馬のために、そう思った。

 龍馬は鯖の刺身に、だいだいの汁をかけて食べるのが好きである。

 鼻歌まで歌い出した乙女に、権平が静かに嘆息した。

 

 

           ◆◆◆


 龍馬が芸州藩げいしゅうはん(広島藩)蒸気船・震天丸しんてんまるにて長崎を出港したのは、九月十八日のことであった。

 この五日前、龍馬は長崎・出島のオランダ商人ハットマンと、ライフル銃千三百挺を購入する契約を交わし、購入したその銃が震天丸の積み荷だった。

 龍馬の心は若干、この国がこれから辿る道がどのようなものかという気がかりがあるものの、故郷の地を踏む期待があった。

 見上げる空にはぽつぽつといわし雲が浮かび、海鳥が龍馬の頭上高く飛んでいった。

 故郷・土佐への帰国――。

 思えば土佐を出るときは必死で、獣道を進まねばならぬときもあったが、脱藩の罪はいまや許され、顔を上げて土佐の地を踏めるのだ。

 帰るといっても所用のついでに立ち寄るだけだが、姉・乙女と顔を合わせるのは実に五年ぶりとなる。


 まもなくこの国は、新しく生まれ変わる――。

 龍馬が土佐を出たときは、まさか徳川の世に幕を引こうとまでは思っていなかった。

 ただこの国を、西洋列強と対等の力をもつまでに強くしたいと思っていた。

 その夢が叶ったかは、これからのこの国次第だろう。

 薩摩と土佐で結ばれた薩土盟約だが、薩摩藩がこれに同意したのは定軍・慶喜が、大政奉還を拒否すると予想し、これを理由に武力討幕に踏み切るということになっていたらしい。ゆえに盟約には、土佐藩の上洛出兵と、徳川の将軍職廃止を建白書に明記することが約束された。


 では誰が、将軍の背を押すのか――。

 盟約時――、龍馬の頭の中にあった人物は前土佐藩主・山内容堂しかいなかった。

 徳川恩顧を貫いている殿様だが、彼とて幕府にもはや力がないことはわかっていよう。

 ならば傷が深くなるうちに、幕府に自ら幕引きさせる。

 この龍馬の想いを受けて、参政・後藤象二郎が容堂に会いに向かった。

 しかし容堂は盟約にある藩兵を京へ進めることと、将軍職廃止に反対だったらしく、薩土盟約は解消となった。


 こうなればもはや、薩長の武力倒幕の動きを止めるには、大政奉還しかなくなった。

 容堂は将軍の背を押してくれるだろう。


 ――あとは、幕府の決心次第ということじゃのう……。


 将軍が大政奉還の案を素直に受け入れて、朝廷に政を返上すれば、古き慣習は見直され、富国強兵によって日の本を守る海軍が成る。


 このあと龍馬は下関にて、妻・お龍と再会し、ついに土佐の地を船上から望んだ。


 ――帰って来たがじゃ……!


 龍馬を乗せた震平丸は、土佐・浦戸に入港した。

 それは慶応三年、九月二十三日のことであった。 

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