第17話 犯人は誰だ!? 

 八月――、京での薩土盟約を終え、長崎に帰ってきた龍馬だが、空まで焦がしそうな日輪が容赦なくその身をあぶってきた。

 龍馬は紋服のあわせを襦袢ごと緩めて扇子で風を送るも、生温い風がきただけで、快適とは程遠く、恨めしげに空を一瞥いちべつした。


 ――やれやれ……。


 薩土盟約が締結し、これから大政奉還へ向け一気に動き出すときである。 

 本当なら晴れ晴れと帰ってきたかったが、このときの龍馬を悩ませていたのは暑さだけではなく、この長崎で起きたという事件もあった。

 

 事件が起きたのは慶応三年七月六日――、英国エゲレス軍艦イカルス号の水夫二人が、花街丸山で泥酔し、道に寝転んでいたところを何者かに惨殺されたという。

 泥酔して道に寝転んでいたのもどうかと思うが、その下手人が海援隊隊士だというのである。

 この一報を京で受けた龍馬は、土佐藩大監察である佐々木高行ささきたかゆきと共に、土佐藩船・夕顔丸で長崎に戻ったのである。

 

「――言いがかりじゃ……!」

「そうじゃ。わしらに、異人を斬る理由はないがよ」

 海援隊隊士の千屋寅之助ちやとらのすけ新宮馬之助しんぐううまのすけの二人は、揃って龍馬に、海援隊の無実を訴えてきた。龍馬は仲間を疑う気はさらさらなく、下手人は他にいると睨んでいた。

 ではなぜ、海援隊隊士が疑われたのか。

 

 イカルス号側によれば、長崎の花街・丸山は料亭・玉川亭で海援隊士が飲んでいて、翌日、海援隊の船・横笛が長崎を出港したという。

 つまり彼らは、海援隊隊士が水夫たちを斬ったところは、目撃していないのである。

実は料亭・玉川亭で飲んでいた海援隊隊士の一人が、千屋寅之助だった。

 

「龍馬さん、断じてわしらじゃないがよ」

「わかっちゅう。英国は商談相手じゃが、こん濡れ衣は我慢ならんきに、正々堂々、無実を訴えるがよ」

 寅之助の再度の弁明に、龍馬は英国側と争う覚悟だった。


           ◆


 在駐日英国公使、ハリー・スミス・パークスは憤っていた。

 このとき彼は所用で、横浜から長崎に来ていた。

 そんなときに、この国でまたも自国の人間が殺害されたと聞かされた。

 

 彼が在駐日公使となったのは、慶応元年のことである。

 前任者はラザフォード・オールコックだったが、この前年に起きた四国艦隊下関砲撃事件に際して、日本との全面戦争につながりかねないその行動は英国政府の意に沿うものではなく、オールコックは公使を解任されたのだ。

 

「閣下、確かにこちらにも落ち度はありますが、彼らのやり方は非道です」

 パークスに対し、書記官アルジャーノン・ミットフォードは訴えた。

殺害されたのはイギリス軍艦イカルス号の水夫、ロバート・フィードと、ジョン・ホッチングスだという。

 両名は泥酔し、道に寝転んでいたらしい。

 英国紳士たるもの、泥酔した上に道に寝転んでいたなど言語道断だが、そんな無防備な人間を死にまで至らしめた犯人である。

 

 聞けば犯人は、土佐藩傘下・海援隊の人間だという。

事件当時、現場近くで海援隊隊士が酒宴を開いていたこと、加えて事件の翌朝、海援隊所属の帆船・横笛が密かに出港し、これに続いて土佐藩の軍艦・若紫が相前後して出港し、横笛が当日正午頃に帰港しているという。

 確かに犯人として、海援隊隊士は怪しい。


「長崎奉行はなんと回答した?」

「証拠に欠けるとのこと……」

 長崎奉行・河津祐邦かわづすけくには、殺害に至る目撃情報がないことを理由に、この件を取り合わないようだ。しかしそれで引き下がる、パークスではなかった。

「ふん。それで我らが引き下がると?」

 パークスは、事件解決に動かぬ長崎奉行を鼻で笑った。

「閣下」

「わが国の人間が殺されたのだ。その罪は、きちんと償ってもらう」

 

 長崎奉行では埒が明かないとみたパークスは、老中・板倉勝静に訴えた。

 これにより英国の交渉相手は、土佐藩となった。

 慶応三年八月六日、パークスは軍艦・パジリス号で土佐・須崎港に入港した。

 談判は土佐藩船・夕顔の船上で行われたが、土佐藩の代表だという後藤象二郎は一歩も譲らず、堂々と土佐藩の主張を披瀝ひれきしてきた。

 さすがの在駐日公使パークスも、唇を噛んだ。

 やはり、殺害に至る目撃情報がないことが痛かった。


                ◆◆◆


 土佐藩まで飛びしたイカルス号事件は、なんと二ヶ月も揉めに揉め、気がつけば季節は秋になっていた。

 結局下手人は判明しなかったが、海援隊の嫌疑は長崎奉行の「お構いなし」という判断で晴れた。

「まったく、おまんはなにかと、面倒に巻き込まれちゅうのう」

 土佐商会主任・岩崎弥太郎は、呆れていた。

 かつて土佐・地下浪人だった弥太郎は、学問で上士を見返すと息巻いていた。

 今や大砲や弾薬、さらには艦船等を調達する開成館貨殖局かいせいかんかしょくきょく、別名土佐商会の主任である。

 呆れる弥太郎に対し、龍馬は頭をかいた。

「どういてか、そうなるがよ」

「わしとしては、これ以上の厄介事は困るぜよ。龍馬」

 眉間に皺を刻み始めた弥太郎に、龍馬は弥太郎も変わっていないと気づく。

「おまんも、変わらんのう? 弥太郎」

「は……?」

「一度文句を言い始めゆうと、止まらんことじゃ」

 土佐にいる頃から会えば弥太郎は、呑気すぎるなど龍馬を非難してきた。

 龍馬は、そんなことはないのだが。

「それは、おまんだからじゃ。以前いっちょろう? わしは、おまんが嫌いじゃと」

「それはなぜじゃ?」

「おまんは、人誑ひとたらしじゃ」

 人誑しは、たくさんの人に好かれることの意味と、人を欺く意味がある。

 龍馬は人誑しであることを意識したことはないが、弥太郎は龍馬が嫌いだと言いつつも、助けてくれていた。

 今回のイカルス号事件でも、弥太郎は海援隊が無実だと英国に言ったらしい。

 

「弥太郎、土佐は変わったぜよ」

「そげなこと――」

「以前のわしらは、上士に見向きもされんかった。泥濘んだ地を、何度舐めちょったか」


 この国が開国しても、土佐では上士と下士の身分制度が根付いていた。

 路で上士と会おうものなら、下士は黙って土下座である。

 藩の役職につくことはもちろん、上士と同じ席につくなど、当時は考えなれないことだった。

 龍馬も弥太郎も、下士としての悔しさを味わっている。

 世が進むにつれ、土佐藩は諸藩に比べ遅れていることにようやく気づいた。

 もはや上士だの下士だの言っていられないことに、藩が気づいたのである。

 土佐藩参政・後藤象二郎との出会いによって、下士たちが集まる海援隊は土佐藩傘下となった。

 弥太郎は弥太郎で、着々と出世していたようだ。

「わしはおまんが、藩士になると思ってたがよ。後藤さまは、おまんを認めちゅうがやき」

 後藤が龍馬を認めてくれていることは嬉しいが、弥太郎は渋面だ。

 後藤は以前、龍馬にこういった。


――坂本……、どうして我が藩は、下士を登用しなかったのか悔やまれる。もしおまんらのようなものが藩内にいれば、土佐藩はもっと早く変われたと思うがじゃ。

 

 龍馬は、藩士にはなろうと思っていない。

 枠にはめられなかったこそ、これまでいろいろなことができた。

 脱藩したゆえというのもあるが、藩に入れば勝手なことはできないだろう。


「そうじゃ、弥太郎」

 龍馬の言葉に、弥太郎が身構えた。

「おまん、人の話を聞いちょらんが? 厄介事はごめんじゃと言っちょろうが!?」

「まだなにも言っちょらんがよ」

「いんや、おまんの話はまた金のむしんやき……」

 海援隊が土佐藩傘下となったとき、それは同時に土佐商会とも繋がった。

 海援隊には会計係は存在せず、隊士の給金は土佐藩支給となった。

 その支払いを行っていたのが土佐商会で、弥太郎が会計係だったのである。

「そうじゃないがよ。今度土佐に帰ることになっての」

「なんじゃ。やっぱり海援隊で首になったか」

 やけに嬉しそうな弥太郎の言葉に、今度は龍馬が渋面となった。

「おまんのう……、どうもそっちへ話を持っていきたがるようじゃが違うぜよ。所用で立ち寄るだけやき」

 なにか知らせたい相手はいるかと弥太郎に聞こうとしただけだが、弥太郎はそんな人間はいないらしい。

 土佐に帰る――、それは脱藩して五年ぶりの帰郷となる。

 

 ――乙女姉やん、元気にしちょるかの……。


 龍馬の心は、早くも故郷ふるさと・土佐に飛んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る